大戦末期、物資不足の果ての脆弱な武器 埼玉県川越市「陶製手榴弾の残骸が散らばる河原」

夏場のびん沼川。水位が上がっており、陶製手榴弾の残骸はまったく見えない=7月、埼玉県川越市(半田泰撮影)
埼玉県川越市とさいたま市の境となる、びん沼川は、大正から昭和にかけて行われた荒川の河川改修工事によってできた蛇行する川だ。この河原には、戦時中に製造された陶製手榴弾(しゅりゅうだん)や陶製地雷の残骸が大量に眠っている。夏場は増水のため水中に沈んでいるが、冬場の渇水期になり水位が下がると、一面に転がる残骸を目にすることができる。
終戦後すぐに慌てて捨てた
なぜこんな場所に陶製手榴弾の残骸があるのか-。その問いに、川越市の郷土史研究家、鈴木松雄さん(84)は「終戦後すぐに、近くにあった工場に残っていた手榴弾を慌てて川に捨てたから」と答えた。
鈴木さんは陶製手榴弾に興味を持ち、約20年前に関係者の証言を集めたビデオ「陶製手榴弾」を制作。関係者の多くはすでに鬼籍に入っているため、ビデオは当時を知る貴重な証言集となっている。
鈴木さんによると、残骸の転がる場所のすぐ近くにはかつて、手榴弾や発煙筒などを製造する「浅野カーリット埼玉工場」があった。当初は〝普通の〟手榴弾などをつくっていたが、戦争が続くなかで資材不足が厳しくなり、金属が払底。そこで、苦肉の策として昭和19年ごろから製造されたのが、陶製手榴弾や陶製地雷だったという。

冬場に水位が下がると、河原に散らばる陶製手榴弾の残骸が露わに=令和4年12月、埼玉県川越市
手の中で爆発してもけが程度
素材の陶器は信楽焼(しがらきやき)だ。手榴弾は高さ約8センチ、直径約8センチの円形で、重さは約330グラム。工場では、動員された学生らが火薬や信管を詰めて完成させていた。
その威力は脆弱(ぜいじゃく)だったという。鈴木さんは「工場で働いていた人の話では、事故で手榴弾が手の中で爆発しても、けがで済んだ程度だったそうだ」と話す。それでも実戦で使用されたようで、先の大戦の激戦地となった硫黄島で陶製手榴弾を持つ兵士の写真が残る。
そして迎えた終戦。当時の工場責任者は、陶製手榴弾などが米軍に利用されることを恐れて廃棄を命令。工員は手押し車に乗せ、びん沼川に投棄したそうだ。鈴木さんは「こんな威力のないもの、米軍は使うわけないのに」と一笑に付す。
投棄された手榴弾は戦後、近所の人の生活物資として使われていたという。近所に住む加藤優男さん(79)は「私が子供のころ、割れていない手榴弾は花瓶に、地雷は湯たんぽにしている家が多かった」と振り返る。このほか、破片は敷石代わりになっていたそうだ。

金属の代わりに陶器に火薬などを詰めた陶製手榴弾(右)と陶製地雷(半田泰撮影)
現在、川底に転がる陶製手榴弾は欠けているものが多く、原形を保っているものはほぼないという。この一画が史跡などに指定されることもなく、ただ風化し続けている。(半田泰)
ガイド
陶製手榴弾の残骸が散らばる河原は、埼玉県川越市久下戸の私立川越東高校の近くにある。公共交通機関の場合、西武バスの治水橋堤防停留所から徒歩約15分。ただ、周辺に看板などはなく、土手からびん沼川に下りる道もない。夏場は川の水量が多く危険。冬場でも増水の恐れがある。
