米軍が長崎への原爆投下を急いだ理由と、幻の「飢餓作戦」「本土決戦」を在日米国人学者が探る

<日本が降伏していなかった場合に発動された「飢餓作戦」「本土決戦」が実際に行われていたら、日本はどうなっていたのか>, 2発目投下は時間との闘い, 「一億火の玉」真意を懸念, 「飢餓作戦」と同時進行

米軍が長崎への原爆投下を急いだ理由と、幻の「飢餓作戦」「本土決戦」を在日米国人学者が探る

原爆投下から約1カ月後の長崎。焼け野原に開かれた道を生存者が行く BETTMANN/GETTY IMAGES

<日本が降伏していなかった場合に発動された「飢餓作戦」「本土決戦」が実際に行われていたら、日本はどうなっていたのか>

1945年8月9日、アメリカは2発目の原爆を長崎に投下した。少なくとも現時点では、核兵器が実戦で使用された最後の例だ。あれで第2次大戦の終結が早まったとの解釈もあるが、広島と合わせ数十万の市民が犠牲になったのも事実だった。

あれから80年、長年にわたり被爆者の証言を丹念に記録してきた静岡大学のM・G・シェフタル教授が先頃、原爆投下に関する2冊目の英文著書『ナガサキ:最後の証言者たち』を刊行した(1冊目は昨年の『ヒロシマ:最後の証言者たち』)。

<日本が降伏していなかった場合に発動された「飢餓作戦」「本土決戦」が実際に行われていたら、日本はどうなっていたのか>, 2発目投下は時間との闘い, 「一億火の玉」真意を懸念, 「飢餓作戦」と同時進行

8月に出版の新著『ナガサキ:最後の証言者たち』 DUTTON(※画像をクリックするとAmazonに飛びます)

以下の抜粋では、なぜアメリカが3日前の広島に続く「2発目」を急いだのか、その先にある「本土決戦」に向けていかなるプランを立てていたのかを検証する。

◇ ◇ ◇

1945年8月8日午前0時30分、西太平洋に浮かぶテニアン島ノースフィールド飛行場。広島への原爆投下ミッションを終えたB29「エノラ・ゲイ」が帰還してから33時間が経過していた。作戦の成功を祝う仲間たちの歓声や記録班の回すムービーカメラの作動音は消え、今は虫の鳴き声と、時折巡回するジープのエンジン音が聞こえるばかりだ。

北西に約2500キロ離れた港町・長崎では、16歳のグンゲ・ノリオが動員先の三菱兵器製作所での夜勤を終え、自宅に向かっていた。

<日本が降伏していなかった場合に発動された「飢餓作戦」「本土決戦」が実際に行われていたら、日本はどうなっていたのか>, 2発目投下は時間との闘い, 「一億火の玉」真意を懸念, 「飢餓作戦」と同時進行

1945年8月9日、原爆投下後の長崎市上空に立ち上るキノコ雲 SCIENCE PHOTO LIBRARYーREUTERS

南東に2キロほど離れた長崎市の中心部では、ノリオと同じく工場で働く15歳のキリドオシ・ミチコと14歳のイシダ・マサコが戦争継続のためのむなしい労働を前に、貴重な数時間の睡眠を取っていた。

13歳のタテノ・スエコも同じだった。彼女はその日の朝、町内会の仲間たちと共に防空壕を掘る手伝いをすることになっていた。長崎市北部の浦上では、21歳のイトナガ・ヨシが修道院の部屋で起床し、長崎純心高等女学校の礼拝堂でシスターたちと早朝礼拝の祈りをささげていた。

2発目投下は時間との闘い

この5人の若者の周辺では数万の男女と子供たちが、人生最後の一日の目覚めを数時間後に控えていた。その30時間後には、みんなアメリカが怒りに任せて投下した歴史上2番目の(そして願わくば最後の)核兵器の犠牲となる運命だった。

長崎から日本海を隔てて北の大陸では、キリドオシ・ミチコの叔父テツロウが100万余の日本兵士の一員として、日本の支配下にあった満州の北西辺境を守っていた。

その近く、満州の国境沿いではソ連軍が暗闇にまぎれて戦車5000両、兵員150万人を最後の持ち場に移動させ、侵攻に備えていた。

30分後、この部隊は行動を開始し、ナチス・ドイツ降伏の3カ月後にソ連が正式に対日参戦するというヤルタ会談の約束を果たすことになる。それはソ連の書記長ヨシフ・スターリンとフランクリン・ルーズベルト米大統領、そしてウィンストン・チャーチル英首相が交わした密約だった。

<日本が降伏していなかった場合に発動された「飢餓作戦」「本土決戦」が実際に行われていたら、日本はどうなっていたのか>, 2発目投下は時間との闘い, 「一億火の玉」真意を懸念, 「飢餓作戦」と同時進行

米軍が長崎に投下した原爆「ファットマン」 BRIDGEMAN IMAGESーREUTERS

スターリンの軍隊から約4000キロ南東、エノラ・ゲイの駐機場から100メートルほど離れたところでは、原爆を開発するマンハッタン計画の「プロジェクト・アルバータ」に所属する科学者や技術者たちが冷房完備の専用組み立て小屋で働いていた。

彼らが徹夜で取り組んでいたのは2回目の原子爆弾投下の準備だった。それはわずか3週間前にニューメキシコの砂漠で地上試験を終えたばかりの新型プルトニウム爆弾で、その丸々とした形から「ファットマン」と呼ばれていた。

米軍はテニアン島から再びB29を飛ばし、24時間以内に2発目の原爆を日本の都市(長崎市か福岡県の小倉)に落とす計画だった。

広島に投下されたのは何度も実験を重ねた、技術的にもはるかに単純なウラン爆弾だった。実際、それは予定どおりに爆発した。

だが広島に投下した原爆よりはるかに複雑で、仕組みとしても繊細な「ファットマン」型の原爆が設計どおりに作動するかどうか。プロジェクト・アルバータのメンバーは誰一人として確信を持てずにいた。

技術者たちは時間との闘いも強いられていた。2発目の原爆投下は、西日本の標的地域上空に晴れ間が出ている最後のチャンスを利用するよう調整が進められていた。8月9日は空爆に適した好天が予想されていた。このタイミングを逃せば、天候の回復を待ち、2発目の原爆を目視で投下可能な次の機会が訪れるまでに1週間近くかかる。

アメリカには2発目の原爆投下を急ぐ理由があった。広島への原爆投下の心理的なショックが収まらないうちに追撃をかければ、その効果を最大化できる。こうした戦略的な狙いがあったからだ。

間髪入れずに2発目の原爆を投下すれば、日本側はアメリカがこうした兵器を(実際以上に)多数保有していると思い込み、今後も原爆投下が続くという恐怖感を抱く。そうなれば日本は、すぐに降伏するか(ハリー・トルーマン米大統領が7月26日のポツダム宣言で威嚇したとおり)壊滅するまで戦うかの二者択一を迫られる。そういう読みだ。

日本政府の指導部および国民への政治的・心理的圧力を高めるため、第20空軍所属のB29は広島への原爆投下以降、焼夷弾を落とす合間に日本各地の都市上空からビラをまいていた。これには広島上空のキノコ雲の写真と、次も「人類が作り上げた最も破壊的な爆弾」を使用するとの警告が日本語で記されていた。

「一億火の玉」真意を懸念

ビラには次のように書かれていた。「我等は今や日本々土に対してこの武器を使用し始めた。もし諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯一箇広島に投下された際いかなる状態を惹起したか調べて御覧なさい。この無益な戦争を長引かせている軍事上のあらゆる原動力をこの爆弾を以て破壊する前に我等は諸君がこの戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。......諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。然らざれば我等は断乎この爆弾並びにその他あらゆる優秀なる武器を使用し戦争を迅速かつ強力に終結せしめるであろう。即刻都市より退避せよ」(一部、かな表記に改め)

だがそれでも1発目と同様、2発目の原爆でも日本の指導部がアメリカ側の要求を受け入れない可能性はあった。その場合、8月19〜21日頃に3発目の原爆が用意できても、アメリカには原爆が無数にあるというはったり自体が無意味になる(このはったりに一度でも効力があったとすればの話だが)。

軍事的な慎重さを重んじるアメリカは日本側のプロパガンダを一蹴するのに躊躇していた。前年のサイパン陥落以降、日本は大々的に、自国には国民という究極の戦略兵器があると豪語し、「本土決戦」になれば国民は降伏の恥辱を受けるより集団で玉砕してでも祖国を守る覚悟があると主張してきた。

米軍は45年11月に九州上陸作戦を計画していたが、この時点では「一億火の玉」「総玉砕」といった日本のスローガンが国民の真の決意表明なのか、はったりによるプロパガンダにすぎないのか確信できずにいた。

はったりと決意の区別がつきにくい駆け引きを行っていたのはアメリカだけではなかったのだ。日本もまた、自国本土への侵攻を計画するアメリカの脳裏に破滅的な惨状を思い描かせる戦略を取っていた。本土へ地上侵攻すれば、連合軍側は沖縄戦で経験した激戦(連合軍側に約5万人の死傷者を出し、民間人はその倍近くが命を落としたとされる)に匹敵する凄惨な、しかも桁違いの犠牲を覚悟せねばならないぞ、と。

日本の狙いは、アメリカ側に先に根負けさせることにあった。そして43年1月のカサブランカ会談で突き付けられた無条件降伏よりも有利な和平条件を引き出したかった。45年8月初めの時点で、昭和天皇とその側近たちはまだ、形式上は中立の立場にあるソ連が、そのような和平交渉の仲介役になってくれるだろうという夢物語のような希望にしがみついていた。

「飢餓作戦」と同時進行

その先見性の重大な欠如あるいは致命的なまでの希望的観測の下、日本政府の戦略的意思決定を担っていた最高レベルの幹部の誰一人として、唯一戦争の終結を命じることができる昭和天皇に適切な助言をしていなかったようだ。本土決戦になれば大惨事だという類いの脅しは逆効果で、アメリカの攻勢を食い止めるどころか、何百万もの日本兵と民間人を無差別に殺戮するより効果的な手段の投入を促す結果になりかねない、という助言である。

こうしたなか、作戦レベルの指揮を担っていた米軍の現地司令官たちは日本に対する3発目の原子爆弾の使用を検討していたが、アメリカ政府上層部の考えは変わりつつあった。日本の指導者たちが大きな犠牲に慣れてしまっている以上、既に破壊された都市である東京をさらに攻撃し、10万人かそこらの民間人を殺害するためだけに、あの極めて高価な爆弾をもう一発投下することに戦略的価値はほとんどない。そういう考えに傾き始めていた。

その代わり、3発目の原子爆弾とその後に量産される分の「ファットマン」は秋以降の九州上陸作戦で、戦術レベルの兵器として使うほうが効果的だと彼らは考えた。11月1日に予定される連合軍の本土進攻前に上陸地点をたたき、さらに内陸の日本軍司令部や兵站拠点を無力化させる手段としての使い方だ。

マンハッタン計画の指揮を執っていたレスリー・R・グローブス将軍もアメリカ政府に対して、その日までには10発以上の原子爆弾をすぐに使用可能な状態で用意できると確約していた。

その間も、連合軍側は日本の経済およびインフラを通常兵器で破壊する計画を着々と進めていた。そして、その過程でいかなる副次的被害が出ても構わないと考えていた。当時の第5空軍向けの公式ブリーフィングの一節に、その本音が簡潔に表明されいるので、以下に引用しておく。

「日本の全人口が正当な軍事目標である。日本に民間人は存在しない。われわれは戦争を行っており、アメリカ人の命を救い、戦争の苦痛を長引かせず、恒久平和をもたらすべく全力で取り組む。敵がどこにいようと、可能な限り多くの人数を可能な限り短期間で探し出し、殲滅する」

この最終目標に向けて、日本の物流を麻痺させる「飢餓作戦」が実行に移された。日本の海路や港湾、内陸水路の全てを航空機による機雷投下や空爆、さらには潜水艦によって封鎖し、物資の輸送を不可能にする。

一方で空軍は戦術目標を攻撃し、日本全国の鉄道網を機能停止に追い込む。そんな計画だ。そうすれば兵員や補給物資の移動・搬送が不可能になるだけでなく、秋に収穫されたコメを東京や大阪などの人口密集地に届けることもできなくなる。そして年末までには、日本中が飢餓列島と化すはずだった......。

M・G・シェフタル(静岡大学教授)