「全学連に囲まれちゃう」…学者は核戦略研究に〝及び腰〟 外務省は「戦略」の文書ボツに

東大の安田講堂に立てこもった全共闘の学生を制圧するため、放水活動を行う警視庁機動隊。「核戦略」をじっくり研究する時代ではなかった=昭和44年1月18日

公に目にする記者会見の裏で、ときに一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は少ない。1960年代から、激動の世界を見てきた荒船清彦元スペイン大使に外交官人生を振り返ってもらった。

〝身の程知らず〟

《1974年、外務大臣官房調査部に配属された。外務省所管の財団法人として、60年に認可されたシンクタンク「日本国際問題研究所」の財務改善が懸案事項だった》

外務省は、外郭団体の維持や管理はあまり、得意じゃないんですよ。僕は予算をバーッと削り、立て直しに奔走した。地味な仕事です。

だいたい、東京の一等地にスペースを借りて引っ越すから、大変になる。いい場所であり、威光が高まるとはいえ、僕からすれば〝身の程知らず〟でした。

高坂正堯氏

国際政治と外交関係で世界に名を成す、中身のある論文を出せる学者がいるかが大事。だんだんとそれが出来ているんじゃないですか。昔は、いなかったですよね。

「戦略」の言葉使う文書はボツ

《当時、高坂正堯、佐藤誠三郎、永井陽之助といった論客が保守派のグループを作っていた》

佐藤栄作総理が面倒を見ていました。最初、名前はなかった。のちに「中国問題研究会」と命名されました。私たちの調査部が担当していた。

僕はある日、飲み会の席で、「核戦略や米ソ関係を研究しないと、世界政治は語れないんじゃないですか」と言った。すると、ある学者が言いました。「僕はやりたいんだけどね。ただ、それをやった途端、全学連に囲まれちゃう」。とてもじゃないが、そんな研究環境でないことが分かりました。

ベトナム戦争・サイゴン陥落の日

「核戦略」「外交戦略」といった言葉を外務省の文書で使おうとしても、ボツにされた。戦略という言葉を完全に忌避していましたね。東大法学部でも、左傾化した先生が多かった。

日本ASEAN友好協力50周年特別首脳会議で手を携える岸田文雄首相(中央、当時)ら参加各国首脳。ASEAN各国は日本の重要なパートナーだ=東京都内のホテル(代表撮影)

そういう意味では、外務省の岡崎久彦氏がのちに執筆した「戦略的思考とは何か」はだいぶ、センセーショナルでしたね。とても古くさい時代でした。

アジアの「8人の侍」

《調査部では、「東南アジア戦略」の構築にも動いた。ベトナム戦争末期の75年、南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)が陥落し、東南アジア情勢は激変していた》

サイゴン陥落は、東南アジアの政府や知識人の対日認識を完全に変えました。中国共産党が触手を伸ばし、ソ連も進出して、アジアの小国同士で生き残るために団結しようとしていた矢先、米国や中国も破り、ASEAN(東南アジア諸国連合)全体より強大でとてつもない軍事力を持つベトナムが台頭した。「じゃあ、誰が守ってくれるのか?」。日本だ、というのが東南アジアの国々の答えでした。

そのころ、僕の頭の中にも「今後、アジアでは中国が台頭する。ASEAN5カ国(当時)に台湾、日本を加えた『7人の侍』で当たらなければいかん」という構想がありました。韓国も加えたかったので、実際は「8人の侍」ですかね。

「米国は遠いし、人間が違う」

《そこで75年11月、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、香港に出張し、安全保障分野における長期的な協力関係の議論をした》

当時はASEAN条約を起草しようと、ASEAN諸国の役人が頻繁に行き来していました。

私はインドネシアで、後に外務大臣になる人を日本の外務省の先輩に紹介してもらった。彼いわく、ASEANの役人が非公式な意見交換で話す内容は、「日本との関係をどうするか」だったのです。

私はインドネシアで、「日本は、今は平和外交うんぬんと言って、共産ゲリラに悩むマレーシアに無線機ひとつ貸してくれない。とはいえ、将来は頼りになる国になる。そういう希望的な観測を強く持っている」「アメリカは遠いし、人間が違う。日本しかない、という結論にみんなでなったんだ」と言われた。そこから定期的な意見交換が始まりました。

シンガポール、マレーシアなどでもそうした意見交換、情報交換の枠組みを作っていきました。

〝敗戦後遺症〟の名残

《その戦略の一端が明らかにされたのが75年7月、宮沢喜一外務大臣が東京の日本外国特派員協会で行った演説だった。不思議なことに、公的な文書として残されなかった》

当時から不満だったのは、日本で外交「関係」を論じることがあっても、外交「目標」を論じることがなかったこと。僕は以前、米国側と政策企画協議というのをやり、互いの「政策目標」を情報交換しました。要は世界をどうしたいのか、ちゅうことですね。

そこで、「今日の世界における日本外交」と題して政策目標を盛り込んだ宮沢演説を起案しました。「日本は今や、世界の安定勢力である」と位置付けて。当時は〝敗戦後遺症〟の名残がまだ強く「そんな表現はおこがましい」とか茶々が入り、説得には苦労しました。

インド、バッサリ切り落とす

《宮沢演説では、3つの目標として「半島の平和と安定の維持」「中ソとの安定的関係の確保」「東南アジア諸国の安定への寄与」を挙げた》

もちろん、日米の密接な友好関係が前提です。演説では、体制の違う中ソとの関係に「友好」の言葉をあえて使いませんでした。

ベトナムとASEANの双方の肩を持つのではなく、明確にASEAN側に立った。互いに関心も力も不足していたインドとの関係についてはバッサリ切り落とす。その辺がミソですかね。外務省のインド担当の連中からは、「なんで外すんだ」なんて言われましたが、同列に論じては、かえって日本が何をやるつもりなのかさっぱり分からなくなってしまいます。

「日本外交、戦後初めて動き出す」-。海外じゃ、こう報じられましたが、演説は外交青書にも載っておらず、外交資料館にもない。外務省の報道課長や国際報道官がいろいろ調べ、2003年、外国特派員協会の書類の山にうずもれているのを見つけてくれ、外交資料館にも改めて納めました。

英語だけの演説だったので、取っておくのを忘れちゃったんでしょうか…。まぁ、そういう不思議なことが起こることもあります。(聞き手 黒沢潤)

<あらふね・きよひこ> 1938年、大阪府出身。東大法学部卒。62年に外務省入省。在ナイジェリア、在米大使館勤務などを経て78年、西欧第二課長。88年に外務大臣官房審議官(文化交流)、90年に在ロサンゼルス総領事。ニカラグア大使、中南米局長を経て95年にアルゼンチン大使。98年にスペイン大使。退官後、国際経済研究所理事長や書美術振興会会長を歴任。