強国ドイツを覚醒させたプーチン、4年後に予想されるロシア侵攻に備えを本格化
ベルリンにあるBND本部(BNDのサイトより)
はじめに
欧州最大の経済大国ドイツで新政権が発足してから100日が経過した。
フリードリヒ・メルツ首相は5月6日の就任直後に連邦情報局(BND)関係者と会い、機密分析報告を受けた。
その内容は、ロシア軍がウクライナ戦争で被った損失から回復し北大西洋条約機構(NATO)加盟国領土に対する大規模攻撃を敢行できる時期が2029年というものであった。
また、6月にはマーク・ルッテNATO事務総長も同様の趣旨の発言を行った。
ロシアがウクライナに勝利すれば、2029年までにロシアはNATO加盟国を攻撃するという政府高官の発言を踏まえ、ドイツ国内では市民の危機意識は前例ないほど高まり、侵攻対処、侵攻への準備、国外退避といった様々な対応が実施されつつある。
本稿は、ロシア侵攻を見据えたドイツ国内の各種動向について紹介するものである。
2029年のロシア侵攻の根拠
2024年春、ドイツ連邦軍のトップであるカーステン・ブロイア連邦軍総監は初めて2029年を「危機的な年」と指摘した。
これを踏まえて、社会民主党(SPD)のボリス・ピストリウス国防相は迅速に「戦争対応能力」を強化するよう呼びかけた。
そもそも、なぜ2029年なのか。
ロシアの軍事産業は100%稼働状態にあり、年間数千台の戦車が生産されていることに加え、毎晩ウクライナを攻撃している「シャヘド136」戦闘ドローンは、もはやイランから輸入せず、自国で生産している。
ロシア・東欧地域の地域情勢に明るいBNDの専門家はロシアの軍事産業に関するデータを基に、ロシアがウクライナ戦争での損失を回復し、NATO領域への大規模な攻撃を行う能力を獲得するまでの日数を緻密に分析した。
この結果、BNDの専門家はロシアがウクライナに勝利すれば、2024年の時点で5年以内にロシアが侵攻可能という期間を導き出した。
しかし現在、2029年という時期を明らかにしたことが、逆の効果を招くと指摘する向きがある。
NATOの高官は、2029年までということは、4年間平和に浸っていられると暗示していることから、欧州の軍隊が軍備強化を先送りにすることを懸念している。
また、BNDの分析官は、2029年という時間的結節そのものが軍事政策の焦点として公の議論に定着したことに大きな不満を表明している。
いずれにせよ、総括すれば、ロシア軍の大規模攻撃は、数年後になる可能性が高い。
その可能性や、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がそのような決断を下す条件については、誰にも予測できないが、BNDの分析官は、ロシアは既にドイツを露骨な形で攻撃していると指摘する。
軍備の充実へ
ドイツ連邦議会は3月に日本の憲法に相当する基本法を変更し、債務上限を緩和を決定した。
これにより、連立与党のキリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟(CDU/CSU)とSPDからなる新政権は今後数年間に数百億ユーロに上る国防費を支出し、ほぼ無制限に国防費を捻出できるようになった。
これにより、連邦軍には各種ドローン、各種ミサイル、戦闘機などの正面装備はもちろん、防護システムあるいは継戦基盤まで国防費が充填される見込みとなった。
さらに米国のドナルド・トランプ大統領のNATOを巡る発言を踏まえ、CDU/CSU連立会派議長であるエンス・シュパーン氏のように、ドイツが今後、他の欧州諸国の核抑止計画に参加すべきと主張する向きも現れた。
ウクライナ戦争の教訓を踏まえ、ドローンやミサイルを撃墜するため、CSU党首であるマルクス・ゼーダー氏のように、イスラエルの「アイアン・ドーム」のようなミサイル防衛システムを導入すべきと述べる向きも増加している。
今年6月下旬にオランダのハーグで開催されたNATO首脳会議で加盟国は今後、国内総生産(GDP)の5%を国防費に拠出することに合意した。
この背景には、最大の要因としてロシアのウクライナ侵攻があるが、イスラエルとハマスのガザ紛争、イスラエル・イラン戦争など世界各地で紛争の火種が絶えないことも遠因である。
加えて、欧州においても、日本を取り巻く台湾海峡や朝鮮半島での軍事衝突も看過できない事態とされている。
このような状況下、元外相のヨシュカ・フィッシャー氏は「ドイツ人は新しい国際秩序にできるだけ早く適応すべき」と述べた。
経済・産業分野においても、例えば、ドイツ最大の軍事産業であるラインメタル社は、2024年に約100億ユーロという記録的な売上高を上げている。
また、主要な駅や幹線道路では、迷彩模様の軍用車両・軍人を見ることは日常となっている。
これらは陸軍の山岳歩兵連隊と戦車部隊が中心であり、戦略機動演習が実施されている。
今年3月には約100台の車両からなる軍用車列が4つの連邦州を横断したが、来る9月には連邦軍が重要港湾であるハンブルクにおいて戦略機動訓練「レッド・ストーム・ブラボー」を実施する予定である。
市民の顕著な危機意識
ウクライナ戦争を踏まえ、ドイツ人が不安を抱いていることは客観的な数値から明らかである。
アレンバッハ世論調査研究所(IfD)の世論調査によれば、61%の人がドイツが戦争に巻き込まれる可能性について深刻な懸念を抱いていることが明らかとなった。
さらに、調査対象者の90%が、ウクライナ戦争について「極めて不安を感じている」と回答している。
年齢層で見れば、特に25歳以下の若者の間で、欧州での戦争の可能性が、気候変動や失業といったテーマよりも上位に位置づけられている。
別の世論調査によれば、ドイツ人の約70%が米国の軍事プレゼンスによる安全保障を信頼していないという結果となっている。
そして、ドイツ人のほぼ3人に1人が戦争が発生した場合に連邦軍軍人として戦う用意があると回答している。性別では、男性では39%、女性では20%が戦うと回答している。
予備役の志願増へ
これまで、前首相のオラフ・ショルツ氏が率いてきた連立政権は、ウクライナへの軍事支援に消極的であったという印象を残したが、実際には、これまでドイツよりも多くの武器や装備を供給したのは米国だけであるというのが事実である。
兵役に服したことのあるボリス・ピストリアス国防相は、ロシアのウクライナ侵攻に直面して以来、「戦争を遂行できる連邦軍」とすると幾度も述べている。
他方、かって良心的兵役拒否者であったショルツ前首相は、この言葉を一度も口にすることはなかった。
砂盤教育訓練(ドイツ連邦軍のサイトより)
ドイツの総選挙の結果、冷静なショルツ氏に続き、精力的なCDU党首のメルツ氏が満を持して登場したように見えた。
選挙戦中、メルツ氏はウクライナにタウラス巡航ミサイルを供与せよと迫ったが、ショルツ首相(当時)は断固、拒否した。
しかしながら、首相に着任したメルツ氏は、現在、タウルスの供与については、慎重な姿勢に転化している。
メルツ首相は、新首相として、単なる一つの武器供与について公の場で議論するつもりはないと表明した。
今年6月、連立与党SPDの複数の政治家は、「マニフェスト(Manifest)」と題した文書で、連邦軍の軍事力増強路線の縮小を提唱し、ロシアとの対話を要求した。
しかしながら、与党多数派CDUのエンス・シュパーン氏は、数十億ユーロの国防予算に関連して、次のように述べている。
「ロシアが門前に迫っているのに、最高の債務ブレーキが何の役に立つのか? ヨーロッパ人には端的に言えば、2つの選択肢しかない。自分たちで防衛する方法を学ぶか、全員ロシア語を学ぶかだ」
停止された徴兵制の在り方を巡り、議論が継続する中、ドイツの予備役将兵の数は最近になって増加の一途を辿っている。
2022年には予備役将兵は3万7000人であったが、現在は約5万人となっている。
連邦軍によれば、今後9万人の予備役が必要になると言う。
予備役は年に1回、1週間の休暇を取り、訓練に参加する。この期間の給与の一部は連邦軍が、その地位に応じて支給する。
予備役には弁護士、医師、エンジニア、造園家など、多様な職業の人々が登録しており、年齢層では最年少は19歳、最年長は62歳である。
実効性ある国民保護へ
昨年、ドイツ国内の電話相談窓口には不安定な世界情勢について130万件の電話が寄せられた。
これは、ウクライナで起きるとは考えていなかったロシアによる侵攻という現実があり、数年前まで欧州では新たな戦争をあり得ないとのロシアの主張が覆ったという冷徹な事実によるものであった。
危機が国を襲った際に市民が頼れる災害時の国民保護拠点が存在する。
これらの拠点は多くの都市に存在し、緊急時には人々がスマートフォンを充電したり、応急処置を受けることが可能となっている。
平時においても、その拠点では防火助手の研修を受けたり、自己防衛を含む応急処置という研修を受講することができる。
そして、これらの費用は、連邦国民保護・災害援助庁(BBK)が負担する。
2024年末までに、このような訓練に参加した人は50万人を超えた。BBKは2029年までにさらに45万人を訓練する計画である。
子供を対象にした講座(BBKのサイトより)
先日、EU委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長は、市民と企業のため危機対応の戦略を公表した。
この戦略には30の措置が含まれており、少なくとも7時間分の水と食料の備蓄が求められている。
特に、企業は戦争が発生した場合でも、医薬品など絶対に必要な製品の生産を継続体制を確保する必要がある。
ドイツも国を挙げて現在、国民保護体制の強化に取り組んでいる。このため、今後10年間で300億ユーロを投入する予定である。
その目標は、ドイツが攻撃された際、住宅、職場、文化遺産などの破壊を防ぎ、その被害を最小限に抑えることである。
連邦技術支援庁(THW)とBBKは、今後、数百人規模の職員を新たに採用する予定である。
全国に物流センターを設立し、救援活動用の野戦ベッドや装備を保管していく予定である。
BBKは、トンネル、地下鉄駅、地下駐車場を近代化し、100万人以上が避難できる地下壕に改修する方針を明らかにしている。
さらに、ベルギーのブリュッセルにあるEU本部からベルリンの政府、そして各地方自治体まで、あらゆる階層において、緊急事態対処計画が策定されている。
ドイツ第4の都市ケルンでは、地下病院を建設する案が検討されている。
メルハイム(Merheim)にある病院の地下駐車場は爆撃にも耐えうる危機管理センターとして改修され、集中治療室を含め、数百人の患者を受け入れる体制となる。
この計画はイスラエルの病院をモデルとしたものである。
フィンランドでは、緊急時の訓練が長年、学校の教育カリキュラムに組み込まれているが、これをモデルとして、CDUはドイツの学校でも定期的な訓練を近日中に導入していく方針を固めている。
核シェルター建設へ
ドイツでは戦争への危機意識から自宅にシェルターを建設する市民が増加している。
例えば、地下8メートルに、約1トンもある鋼鉄製のドアを備えた広さ3平方メートルの核シェルターを建設する市民もいる。
このシェルターには4人は収容可能である。シェルターの壁、天井、床はコンクリートとステンレス鋼の繊維から構成されているため、半径500メートル以内で核攻撃を受けても耐えられるものである。
冷戦時代に存在した公共の地下壕は多くが売却もしくは処分されたが、一部の地下壕では現在、冷涼な環境に適したキノコ類が栽培されている。
連邦政府によれば、ドイツ国内には579の地下壕が存在するが、現在、一つたりとも保護施設として使用できない状態だと言う。
ほとんどの場合、換気設備が故障していたり、水道管などの不良が、その原因である。
ドイツ保護施設センターは市民の保護施設を約5万ユーロで提供している。ベルリンでは地下壕専門会社が「ポップアップ・パニックルーム」を販売している。
これは歩行可能な収納庫のような形状であり、鋼鉄製で価格は1万2000ユーロとなっている。
THW訓練(ドイツ保護センターのサイトより)
この地下壕には、約1000リットルの飲用水タンクが設置される。加えて地下には水洗トイレも整備されている。
万が一、水洗トイレが排水できなくなっても、手動ポンプにより、排出できる仕組みとなっているほか、それでも排出できない場合は、乾燥式トイレも併用されている。
電力については、近くの倉庫に設置された太陽光発電システムが蓄電装置に電力を供給するが、その能力は最大50日間の生活ができるというものである。
ドイツ国外に市民が移住へ
ウクライナ戦争が開始されて以降、ドイツ人の国外移住も増加している。
2015年には、ドイツの国外移住者は13万8000人であったが、2023年には26万5000人に達した。
国外移住先として最も人気があるのは、EU非加盟国のスイスであり、次いでニュージーランド、アラブ首長国連邦、パナマ、ジョージアとなっている。
これらの国に共通しているのは、ドイツ人が資産を安全に保管し、税金を節約できるという点である。
最近では、「中米のスイス」とも呼ばれるコスタリカへの移住も人気が高まっている。コスタリカは欧州の戦争の火種から十分に離れていることが、その理由である。
結びに代えて
今日、多くのドイツ人にとって戦争は、もはや単なる記憶ではなく、可能性のある未来として認識されている。
二度とナチズムを、二度とファシズムを、二度と戦争を繰り返さない——。
これは第2次世界大戦後、建国当時のドイツ連邦共和国(西ドイツ)の国民とって重要な誓いであり、安全保障文化として長年ドイツ社会に浸透、定着してきた。
プーチン大統領のウクライナ全面侵攻から3年が経過した現在、ドイツでは状況の深刻さや緊張緩和のための有効な手段について、広範な合意が形成されているとは言い難い。
現実的な危険とは何なのか、あるいは過剰な警戒は過剰反応なのかについて、国内においては必ずしも一枚岩ではない。
しかしながら、ドイツにおいて現在進行中の変化は、文字どおり、時代の転換である。
冷戦時代においても、ドイツ本土での戦争、ベルリンやミュンヘンでの空襲警報、核兵器の使用——これらは想定されていたが、今日ほど現実味を帯びていなかった。
2022年2月にロシアがウクライナを侵攻して以来、状況は一変した。
ロシアが仕掛けた戦争にドイツ連邦軍が対処するため、娘や息子が兵役に従事し、将来、戦場において自由と民主主義を守るために戦うというシナリオにドイツ人は真剣に向き合わざるを得なくなっている。
今後、欧州の主要国ドイツはロシアの侵攻に対処するため、どのような方向に向かっていくのであろうか。
その意味で、ドイツの軍事を含めた安全保障全般はもとより、社会全体の動向についても、引き続き、注視していくことが重要である。