中国人と日本人は、なぜこんなに違うのか?…日本人が見誤りがちな「中国人の本質」

中国人は何を考え、どう行動するのか?

講談社現代新書の新刊『ほんとうの中国 日本人が知らない思考と行動原理』では、日本を代表する中国ウォッチャーが鋭く答えています。

本記事では、〈日本人にとって「敵でも味方でもない」中国人…知っておくべき「ほんとうの中国」〉に引き続き、中国の「骨格」である基本原理について詳しくみていきます。

※本記事は、近藤大介『ほんとうの中国 日本人が知らない思考と行動原理』(講談社現代新書)より抜粋・編集したものです。

島に住む日本人と大陸に住む中国人

中国人は日本人とは「別の民」である。まずそのことをはっきり自覚することから始めなければならない。

少なくとも四千年の歴史を有する中国大陸では、過去に偉大な王朝が幾度も興った。だが、どの王朝もやがて、異民族の侵入、朝廷のお家騒動、民衆の反乱のいずれかもしくは複数によって、滅亡していった。

そして、ひとたび王朝が崩れれば、中国大陸はたちまち混沌と化した。悠久の中国史は強権と混沌の繰り返しで、「固くて脆い」のが一大特徴である。

島に住む日本人と大陸に住む中国人, 侵略がほとんどなかった日本, 外見は似ているが、骨格は別物, 一衣帯水の「大いなる幻想」

いまの中国の共産党政権が強権的、威圧的で、つねに拳を振り上げて民を鼓舞しているのは、そうした「もろい」という特質を自認しているからに他ならない。政府が強権的であることは、過去二千年以上、連綿と続けてきた皇帝制度の時代からいつでも同様だった。

その意味では、1949年に中華人民共和国(中国共産党を中心とした国家)を建国して以降、皇帝は共産党総書記に呼称を変えたと見るべきである。

共産党政権の歴代の「皇帝様」はたったの5人だけ、毛沢東・鄧小平・江沢民・胡錦濤・習近平である。鄧小平は共産党総書記を経験していないが、「改革開放の総設計師」であり、二代目に数えられている。

侵略がほとんどなかった日本

一方、日本人が海で囲まれた日本列島に踏み立っているということは、ローリスク社会に生きているということだ。時折、戦乱の世を迎えたが、外部勢力の侵入は、過去二千年でたったの数回しか経験していない。

その主なものは、1019年に中国大陸の女真族が対馬、壱岐などを襲った刀伊の入寇、1274年と1281年の蒙古襲来(元寇}=文永の役・弘安の役)、1419年の朝鮮による対馬侵攻(応永の外寇)、それに1945年のアメリカ軍による沖縄侵攻および第二次世界大戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本占領だ。これらを稀有な例外として、日本民族は「人災」よりもむしろ、地震や洪水、台風などの「天災」を畏れて生きてきた。

外見は似ているが、骨格は別物

つまり、日本人と中国人とは「もともとの骨格が別者」なのである。「別者」どころか、日中は隣国でありながら地球を反対周りに一周回ってきたくらい違うと、私は実感している。同じ「大陸国家の民」という点では、むしろアメリカ人のほうが中国人に似ている。

日本民族も中華民族も、黄色人種で、使用する文字で言えば漢字文化圏で、影響を受けている思想で言えば儒教文化圏で、生活形態から言えば農耕民族で、食文化から言えばコメを主食として箸で食べる生活を送っている。

というより、古代において偉大だった中華文明は、アジアの周辺諸国に多大な影響を与え、日本もその恩恵にあずかってきた。少なくとも江戸時代までの日本人は、中華文明に憧憬を抱いていた。

島に住む日本人と大陸に住む中国人, 侵略がほとんどなかった日本, 外見は似ているが、骨格は別物, 一衣帯水の「大いなる幻想」

photo by gettyimages

だが、日本民族と中華民族は、本当に「似た者同士」だろうか? 「中国ウォッチャー」として言わせてもらえば、似ているのはそれら古代に授かったものくらいで、現代社会においてはほとんど共通点がない。

むしろ、日中で異なることのほうが、はるかに多い。そもそも政治システムがまるで異なるし、前頁に記したことでも、日本は漢字文化圏ではあるが、独特の「ひらがな」「かたかな」「訓読み」を開発し、文法も発音も中国語とはまるで異なる日本語を使用している。

特に、「山(シャン)」を「やま」と読んでしまうような「訓読み」は、言語革命と言えた。明治時代に日本に英語が入ってきた時に「mountain」を「やま」と読むと定めるような画期である。

儒教は中国で「科挙」(官僚登用試験)に用いられたが、国民的には本家の中国よりも、むしろ朝鮮や日本で深く浸透した。現在の中国でも儒教は学校教育に採り入れられているが、共産党政権は仁を重んじる「儒家」よりは、人民を法や規則で徹底管理する「法家」的手法で統治しているのが現実だ。

食生活についても、中華料理は炒め物中心の大皿で、箸を縦に置いてめいめいが突っついて食べる。それに対して、和食は生ものが多く、箸を横に置いて各自に分け与えられたものを食する。中華料理については後述する。

一衣帯水の「大いなる幻想」

私は北京駐在員時代(2009年〜2012年)、訪中する日本人の通訳をすることがたびたびあった。その際、日本側の代表が「日中両国は一衣帯水の関係です」と決まり文句を発するたびに、違和感を覚えたものだ。

「一衣帯水」とは、二つの地域が一筋の糸のような細い海しか隔てていないという成語で、俗語で言えば「似た者同士」。だが私の経験では、どう見ても日中の人々は一衣帯水の関係ではない。

そのことは、中国側のほうが熟知している。昨今、中国人の間で日本旅行がブームだが、日本を訪れた中国人の知人たちに聞くと、日中の「相違」に驚愕したという話をよくする。「大陸的視点」で日本を見ると、「ふしぎな国」なのだ。

十年ほど前に北京で、緊迫する日中関係をテーマにしたテレビの討論番組に出演した時のこと。私の隣席に座っていたコワモテの中国国防大学教授が、爆弾発言をした。

「中日は『一衣帯水(イーイーダイシュイ)』ではなく、『一衣帯血(イーイーダイシュエ)』の関係だ!」

発音が近い「水」と「血」を掛けて、近未来に両国が尖閣諸島を巡って一戦交え、血の海になるかもしれないことを警告したのだ。すると、番組を参観しに来ていた200人ほどの中国人が、拍手喝采して賛意を示した。

日中が「一衣帯水」でないことは、実は西洋人も理解している。著名な文明論者だった米ハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授(1927年〜2008年)は、世界的ベストセラーになった著書『文明の衝突』(日本語版は集英社、1998年)で、世界の文明を九つに分類した。

すなわち、西欧文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明、イスラム文明、ヒンズー文明、東方正教会文明、仏教文明、中国文明、日本文明である。日本と中国を「儒教文明」「漢字文明」などと一括りにせず、明確に区別しているのだ。そのうえで、「東アジアには6つの文明と18の国家があり大変複雑である」と結論づけている。

島に住む日本人と大陸に住む中国人, 侵略がほとんどなかった日本, 外見は似ているが、骨格は別物, 一衣帯水の「大いなる幻想」

このように、日本人(日本民族)と中国人(中華民族)は「別者」と捉えるべきである。それは、互いに「踏み立っているところ」が、「(広大な)大陸」と「(海に囲まれた)列島」とで異なるからにほかならない。

そのため、日本的な「島国目線」で中国および中国人を見ると、容易に見誤る。