玉音放送の翌日に割腹した「特攻の父」とは対照的…「特攻」採択の責任者が放った「無責任な言葉」
今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。
ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。
大東亜戦争の大教訓
戦争体験者の取材を始めて30年。その間、さまざまな人からいろんな言葉を聞かされたが、いちばん印象に残っているのは、特攻作戦の渦中の昭和19(1944)年から20(1945)年5月にかけ、第一航空艦隊司令部で司令長官大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳氏の、
「『安全地帯にいる人の言うことは聞くな』が大東亜戦争の大教訓」
という、第一線での戦闘体験者ならではの言葉だ。
門司さんは昭和16(1941)年、東京帝国大学を卒業後、第六期短期現役主計科士官として海軍に入り、空母瑞鶴庶務主任として真珠湾作戦、インド洋作戦などに参加。そして陸戦隊主計長としてニューギニア・ラビへの上陸作戦に参加するも、敵軍の予想外の抵抗に司令以下幹部が軒並み戦死、敗退し、主計中尉の門司さんが部隊をまとめて撤退する。

大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳さん。東京帝大を経て海軍主計少佐。戦後は興銀勤務を経て丸三証券社長(右写真撮影/神立尚紀)
その後もインド洋から中部太平洋を転戦し、昭和19(1944)年夏からは第一航空艦隊副官となっていた。
ところが、フィリピン・ダバオにあった第一航空艦隊は、9月10日、見張員が海上の白波を敵上陸部隊と誤認したことで浮足立ち、玉砕戦に備えて無線機や暗号書を焼却(ダバオ事件)。12日、フィリピン各地に散らばっていた飛行機をセブ島に集めたところを米機動部隊の急襲を受け、虎の子の飛行機も壊滅する(セブ事件)。この一連の不祥事で司令長官寺岡謹平中将は更迭されることになり、後任の長官に大西瀧治郎中将が、内地からマニラに移転した第一航空艦隊司令部に転任してきた。大西中将がフィリピンに着く前日の10月17日、米軍の上陸部隊がレイテ湾口のスルアン島、ついでレイテ島に上陸。18日、日本海軍は艦隊の総力を挙げてこれを迎え撃つべく「捷一号作戦」を発動する。

大西中将の前任の第一航空艦隊司令長官寺岡謹平中将。フィリピン戦での不祥事で更迭された
これは、戦艦大和以下の主力部隊で敵上陸部隊を砲撃、壊滅させるというものだが、度重なる失態に、大西中将指揮下の第一航空艦隊の飛行機は、全部で35機から40機程度しか残っていなかった。その少ない機数で主力艦隊を掩護するため、米空母の飛行甲板を一週間程度使用不能にする目的でやむにやまれず採用されたのが、零戦に250キロ爆弾を積んで敵艦に体当たりする「特攻」である。そして、捷一号作戦に基づいて戦われた比島沖海戦で日本海軍が惨敗を喫したあとも、特攻は戦法として採用され続けた。

比島沖海戦で米軍機の攻撃を受け、沈没を前に軍艦旗を降ろす空母瑞鶴

大西瀧治郎中将。最初の特攻隊出撃を命じ、徹底抗戦を叫ぶが、自ら責任をとって終戦時に自刃した
海軍では「特攻」は既定路線だった
そもそも、大西中将が命じる以前から、海軍では「特攻」は既定路線だった。戦局の悪化にしたがい、多くの現場将兵から体当たり攻撃の採用を陳情されていたにもかかわらず、それらを退けていたのが大西中将だ。だが、昭和19年2月17日、18日と、中部太平洋における日本海軍の拠点・トラック島が敵機動部隊の大空襲に壊滅したことから、「人間魚雷」と呼ばれる回天を皮切りに、特攻兵器の開発が進められることになった。やがて夏には人間爆弾桜花の開発も始まり、9月には海軍省に「海軍特攻部」が新設され、新たな特攻専門部隊の編成も始まる。特攻という戦法と兵器の開発を強く主張したのは、軍令部第二部長(軍備担当)黒島亀人少将、それを採択したのが第一部長(作戦部長)中沢佑少将、軍令部で航空特攻を積極的に推し進め、桜花の開発にも関与したのが軍令部第一部員源田実中佐(のち大佐、第三四三海軍航空隊司令)と航空本部の伊藤祐満中佐、現場でじっさいの突入法などを研究したのが横須賀海軍航空隊の中島正少佐(のち中佐。二〇一空飛行長)である。
「神風特別攻撃隊」(特攻隊)の編成を最初に命じた大西瀧治郎中将は、終戦間際には軍令部次長として最後の最後まで講和に反対、「あと二千万人の特攻隊を出せば必ず勝てる」と、徹底抗戦を叫んだ。

特攻兵器の開発、採用を推し進めた軍令部第二部長黒島亀人少将(右)と、特攻の採用を裁可した中沢佑少将(右)

軍令部で航空特攻を推進した源田実中佐(写真は戦後、航空自衛隊時代)

現場で特攻機の突入法を研究、幾多の若者を死地に送った中島正中佐(右は1995年のBBC番組「KAMIKAZE」より)
映画『日本のいちばん長い日』でも、1967年の岡本喜八監督版(二本柳寛)、2015年の原田眞人監督版(嵐芳三郎)ともに、大西は終戦工作を妨害するイカれたキャラクターとして描かれている。
しかし、副官であった門司親徳さんが身近に接した大西は、けっして非情な冷血漢でも、狂気の提督でもなかった。いや、むしろ抗戦論者とは正反対の冷静な目を持ち、人間味あふれる、いや、むしろ人情が表に出すぎるぐらいの人、という印象のほうが強いという。
大西瀧治郎は、明治24年(1891)6月2日、兵庫県氷上郡の生まれ。大正4(1915)年、中尉進級と同時に日本初の水上機母艦「若宮」乗組兼航空術研究委員となった海軍航空の草分けである。その後、横須賀海軍航空隊や霞ヶ浦海軍航空隊の教官、航空本部教育部部員などを歴任した。
昭和9年には横須賀海軍航空隊副長兼教頭となり、予科練習生の教育にあたる。昭和11年には航空本部教育部長に転じ、海軍上層部に対し、「戦艦主体論から航空主体論に移るべき」との建言をした。海軍のマークの「錨」を「プロペラ」に変えて航空兵力を拡充しろとまで主張したと伝えられるが、これは、「大口径の砲を搭載した戦艦が海戦の勝敗を決する」という、海軍伝統の「大艦巨砲主義」を真っ向から否定するもので、海軍部内で強い反発を受けた。
太平洋戦争開戦時には、台湾・高雄の第十一航空艦隊参謀長として、東南アジアにおける日本海軍航空隊の緒戦の快進撃を仕掛けた。
ただし、大西は、日米開戦には反対、ないしは慎重な立場だった。
山本五十六連合艦隊司令長官から、真珠湾攻撃についての意見を求められたとき、大西は、機密保持が難しいこと、港の水深が浅くて魚雷が使えないことの2点を挙げて反対した。その2点がクリアされ、作戦が成功したのちも、真珠湾で戦艦を壊滅させたばかりに、アメリカ国民の意思を結集してしまったのだという趣旨のことを、アメリカから交換船で帰国した中学の同窓生で実業家の徳田富二に語っている。
大西はその後、航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任し、飛行機が戦争の主力であることを力説し続けた。その強い意思と言葉は、航空畑の海軍軍人の支持を得たが、思考の硬直化した海軍首脳を動かすまでには至らなかった。
草柳大蔵著『特攻の思想』によると、軍需省にいた頃、大西は、東京・有楽町の朝日講堂で行った「血闘の前線に応えん」と題した講演で、「美談のある戦争はいけない」という歴史観を披露している。
「非常に勇ましい挿話がたくさんあるようなのはけっして戦いがうまくいっていないことを証明しているようなものなのである。たとえば南北朝時代、足利、北条が楠木正成に対して、事実は勝っていた場合の如きがそれである。あの場合、足利や北条のほうにはめざましい武勇伝なり、挿話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある。
だから、勇ましい新聞種がたくさんできるということは、戦局からいってけっして喜ぶべきことではない。この大東亜戦争(太平洋戦争)でも、はじめ戦いが非常にうまくいっていたときには、個人個人を採り上げて武勇伝にするようなことは現在に比べるとずっと数は少なかった。いまはそれだけ戦いが順調でない証拠だともいえるのである。状況かくのごとくなった原因は、航空兵力が残念ながら量においてはなはだしい劣勢にあり、制空権が多くの場合、敵の手にあるからである」

昭和19年10月20日、フィリピンで特攻隊が編成された日。バンバン川原で特攻隊の別杯。後ろ姿手前が大西中将。左から茶碗を渡す門司副官、玉井浅一中佐(後ろ姿)、関行男大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹

昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場から特攻隊出撃。手前で松葉杖を突いているのは前夜に病院を退院し駆け付けた山本栄大佐
大西が特攻を命じたのはなぜか
ではなぜ大西は自ら「統率の外道」とも評した特攻を命じたのか。これについて私は2011年、門司親徳と、大西に直接特攻を命じられた歴戦の零戦搭乗員、角田和男・元中尉の証言を軸に検証、『特攻の真意』(文春文庫/光人社NF文庫)という本を書いた。そのなかで導いた結論は、
「特攻は、敵に恐怖を与え続けて日本本土上陸を思いとどまらせると同時に、天皇に終戦の聖断を仰ぐための最終手段だった」
というものである。終戦がもし、陸海軍や政治による多数決で決まったならば、国内の「抗戦派」と「和平派」のあいだで内戦も起こりかねない状況だった。「天皇の聖断」であったからこそ、日本は整然と矛をおさめることができたのだ。大西の「徹底抗戦論」も、
「最後まで外に向かって戦う意志を示し続けることで敵国を和平交渉のテーブルに引き出し、かつ国内の抗戦派を抑えるための『命がけの芝居』であった」
ことを、多くの証言や資料をもとに明らかにした。

特攻隊を最初に報じたのは昭和19年10月29日の朝日新聞

米護衛空母にまさに体当たりせんとする特攻機
大西は昭和20(1945)年8月15日、天皇が終戦を告げた「玉音放送」の翌16日未明、渋谷南平台の次長官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちを思い、なるべく苦しんで死ぬようにと介錯を断り、自らの血の海で半日以上も悶えた壮絶な最期だった。
門司さんは、昭和20年5月13日、第一航空艦隊司令長官だった大西が軍令部次長に発令され帰国するとき、台湾から東京まで同行した。19日、東京での用が終わった門司が台湾に帰ろうと挨拶すると、大西は門司さんが乗る自動車の側まで砂利道を一緒に歩いてきて、
「握手をすると、みんな先に死ぬんでなあ」
ポツリと言って、車が動き出すまで、立ったまま見送ってくれたという。これまで多くの特攻隊員と握手をして送り出してきた大西中将の心情の一端が見てとれよう。
「これが、長官との最後の別れになりました。なぜあのとき、『かまいません』と言って長官と握手しなかったか、悔やまれてならないんです」
門司さんは、このときの大西の心のぬくもりを、生涯忘れることはなかった。
大西中将に別れを告げた門司さんが台湾に帰ったのは5月24日。その翌日の5月25日、東京がB-29による大空襲を受け、霞が関の官庁街から山の手にかけてが焼け野原と化した。米軍の焼夷弾は宮城にも落ち、宮殿も大宮御所も焼けた。
上落合の大西邸も焼失した。焼け出された妻・淑惠は防空壕で暮らし、その後、知人の家に身を寄せるが、大西は最後まで淑惠が官舎に同居することを許さなかった。大西が航空本部にいた頃から物資調達などの手足となって働いていた児玉誉士夫が、「奥さんと同居して家庭料理でも」と勧めると、大西は、
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らずに死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人いるんだ」
と言い、目にいっぱいの涙をためたという。そして淑惠に、
「家庭料理は食えないよ。若い人に気の毒だものな」
と、念を押すように言ったという。
大西の遺書
玉音放送後の8月16日未明、渋谷南平台の次長官舎で割腹。大西が遺した遺書には、特攻隊を指揮し、徹底抗戦を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。
〈特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり 吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自 重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ
諸子は國の寶(宝)なり 平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の和平の為 最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎〉
そして、遺書の欄外には、軍令部第一部長・富岡定俊少将宛に、
〈八月十六日
富岡海軍少将閣下
大西中将
御補佐に対し深謝す 総長閣下にお詫び申し上げられたし 別紙遺書青年将兵指導上の一助とならばご利用ありたし
以上〉
との添え書きが細い字で書き加えられている。淑惠に宛てた遺書は、
〈瀧治郎より
淑惠殿へ
吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す 淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ
但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
以上
之でよし百萬年の仮寝かな〉
と、丸みをおびたやさしい字で綴られていた。
大西の自刃は、8月17日午後4時、海軍省から遺書とともに発表された。富岡少将への添え書きどおり、「青年将兵指導上の一助」として利用されたのである。富岡は大西の遺志にしたがい、それを忠実に、しかも手回しよく実行に移したのだ。
大西自刃の記事と遺書は、8月18日の新聞に掲載された。

昭和20年8月16日、自刃した大西中将の遺書。現在は表装され、靖国神社遊就館にある
門司親徳さんが、台湾の新聞でこの遺書を読んだのも、この日のことである。
軍令部作戦部長として特攻を採択した中沢佑少将(のち中将)、第二部長として特攻兵器の開発を強力に推し進めた黒島亀人少将――海軍の「特攻」の責任はこの二人にほぼ帰結するのだが――は、大西中将のように自決することもなく、天寿を全うした。
中沢少将は昭和20年2月、台湾海軍航空隊司令となり特攻隊を直接指揮する立場になり、台湾警備府参謀長として終戦を迎えるが、大西中将の自決が報じられた際、中沢少将も責任を感じて自決するのではとそれとなく様子をうかがう幕僚たちを前に、
「俺は死ぬ係じゃないから」
と言い放ったのを、門司さんはじかに聞いている。
黒島少将は戦後、宇垣纒中将の日記「戦藻録」の一部を勝手に処分したり、海軍の機密文書を無断で焼却したり、なんらかの証拠隠滅ととられる行動をとった。
特攻要請を断った指揮官もいた
第一線の指揮官のなかにも、フィリピンの第一線で特攻を推進し、多くの若者を死地に追いやった二〇一空飛行長中島正中佐(1910-1996。戦後、航空自衛隊で空将補)のように、亡くなる前年の平成7(1995)年、私の電話インタビューに、
「もう全部忘れた。零戦のことも特攻のことも」
と答えながら、同年、イギリスの国営放送BBCのドキュメンタリー番組「KAMIKAZE」に出演したさいには、
「誰も志願してくれなかったらどうしようと思っていたら志願してくれてよかった」
「私は世話役なもんだから(特攻隊員に)なれないわけですよ。あと空戦の腕のいいのも、特攻機を守ってもらわなきゃならんから出さなかった」
などと、日本で放送されない前提の番組だったせいか、悪びれることなく笑顔で語っている卑怯者がいる。中島は最初から「督戦側」すなわち「安全地帯」に身を置いていた。同じ「航空隊飛行長」の立場でも、
「うちの隊にはいっぺんこっきりで死なせるような部下は1人もおりません」
と特攻要請を断った二〇三空飛行長・進藤三郎少佐や、軍令部第一部員から三四三空司令となった源田実大佐に、
「どうしてもというのなら私が第一陣を率いて出撃します。最後には司令も行ってくださいますね?」
と詰め寄って断念させた三四三空飛行長・志賀淑雄少佐のような例もある。中島中佐も、もとはベテランの戦闘機乗りだったのだから、部下に命じるときにまず、
「俺が手本を見せてやる」
と、真っ先に出撃していれば後世の評価も違っていたかもしれない。

部下から特攻隊員を出すことを拒んだ進藤三郎少佐(右写真撮影/神立尚紀)

源田司令に「私が最初に出ます。司令も出てくださいますね」と言い、特攻を断念させた志賀淑雄少佐(右写真撮影/神立尚紀)
門司さんは言う。
「自分は行く立場にない、死ぬ係じゃない。……それが中央でも前線でも、特攻で部下に死を命じた側の多くの本音だったのでしょう。自分が死ぬ立場なら、命令のあり方も違ったかもしれない。――『安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓』とはそういうことなんです」
第一線で、身をもって戦争を体験した人がほとんど鬼籍に入ったいまこそ、この言葉を噛みしめるべきときなのではないだろうか。
太平洋戦争で、230万名にものぼる将兵や軍属、準軍属が戦死、あるいは戦病死し、30万の一般邦人が命を落としたとされているが、その多くはいまなお遺骨すら還っていない。遺族への扶助料も、敗戦とともに空証文と化し、昭和27(1952)年の第十三通常国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が可決、成立するまでは1円の援助もなかった。しかも、50万人もの死者を出した民間人の空襲被害者に対しては米一粒、柱一本の補償もしてこなかったのが先の大戦における「祖国」である。
海の向こうのアメリカでは、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』などで知られる映画監督・俳優のクリント・イーストウッドが、
「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」
と言っている。これは歴史を踏まえた上での至言だと思う。同様に、「祖国」を持ち出して若者に「戦う覚悟」を問う評論家や為政者にも惑わされてはならない。彼ら、彼女らは決まって戦場に行かない者たちなのだから。