夫婦げんかの度「お父さんは家族を見捨てた」、決死の満州脱出が物静かな女性を変えた…藤原てい・新田次郎の作家夫妻

家族の記憶<5>作家の藤原てい・新田次郎夫妻と次男の藤原正彦さん・美子さん夫妻(上)

 史上最多の犠牲者を出した第2次世界大戦が終結して80年がたった。戦争体験者が年を追うごとに減っていく中、最も身近な存在である家族は体験者の生きざまや思いをどのように受け止め、語り継ごうとしているのか。家族に刻まれた戦争の記憶をたどる。

「家族を見捨てましたよね?」, 驚いた姑の言いつけ, 満州から帰ったら猛女に, 子どもを生かすという使命感

藤原ていさん(左)と藤原寛人さん(新田次郎)

 80年前の8月、ソ連軍が日ソ中立条約を破って満州(現中国東北部)に侵攻した。多くの日本人の人生が一変した。幼い3人の子を連れて朝鮮へと逃れた壮絶な1年余をつづった「流れる星は生きている」で戦後に一躍脚光を浴びた藤原ていさん(2016年、98歳で死去)と、のち新田次郎の名で直木賞作家となる夫寛人さん(1980年、67歳で死去)もそうだった。いまは故郷の墓で寄り添うように眠る2人だが、まったく違う戦後を生きた。

「家族を見捨てましたよね?」

 東京・吉祥寺の自宅で夫婦げんかが始まると、次男で数学者の正彦さん(82)は、父親が黙って2階の書斎に逃げる結末が読めた。ていさんに、こうなじられるからだ。「お父さんは家族を見捨てましたよね? 誰が3人の子供を連れて帰りましたか?」

 1945年8月9日の深夜。満州国の観象台(気象台)課長だった寛人さんは、職場から呼び出された。気象情報は軍事機密でもある。急ぎ処分する必要があった。職員の家族は新京(現長春)駅に集め、鉄路で脱出させるという。寛人さんは、同行を懇願するていさんを振り切り、職場に向かった。これが「見捨てた」の意味だった。

 ていさんは、飢餓と寒さで衰弱していく5歳の長男と、2歳だった正彦さん、生まれて間もない長女を連れ、朝鮮へと逃れた。46年に帰国できたが、心臓を患い、寝たきりの状態。「精神も病んでいたようです。その年の秋に帰国した父と再会しても、すぐには誰だか分からなかったんです」(正彦さん)。床に伏せながら、遺書のつもりで書いた「流れる星」が世に出るのはその3年後だった。

驚いた姑の言いつけ

 正彦さんと79年に結婚した美子さんは、姑の言いつけと心構えに驚く毎日だった。

 玄関の靴を片づけると注意された。「男物は散らかしっぱなしにしなさい。賊が二の足を踏む」。子供を授かると「おんぶひもは近くに置いて寝なさい」、子供の好物を自分の皿から分け与えようとしても「ダメです。お母さんが倒れたら子供は全滅します」……。

 いつも戦時下にいるようだ、と美子さんは感じた。引きも切らず講演依頼が殺到し、戦

「家族を見捨てましたよね?」, 驚いた姑の言いつけ, 満州から帰ったら猛女に, 子どもを生かすという使命感

父母と戦争について語る数学者の藤原正彦さんと、妻の美子さん(東京都武蔵野市で)=鈴木竜三撮影

時の体験を話すたびに「あの日々にいつも戻ってしまうような人生なのだ」とも。

 寛人さんは違った。山岳小説などを精力的に手がけながら、抑留を描いたのは、自身をモデルに、主人公・沢田の視点から描いたフィクション「望郷」の一作のみ。戦後20年がたってからの発表だった。跋文で寛人さんは、「いざ書き始めると、その夜から、こわい夢ばかり連続して見る」「書いてはやめ、やめては書き」、完成に至ったと告白している。

  <沢田は彼の技術を呪った> (『望郷』)。寛人さんは中国・延吉で抑留されながら、工学に明るいため機器修理の仕事を任され、特別な待遇を受けていたという。家族にも抑留について詳しく語ろうとしなかった。「母に対する負い目だけでなく、重労働を強いられ、飢えに苦しんだ抑留者たちへの後ろめたさを、父はずっと引きずって生きたのだと思います」(正彦さん)

満州から帰ったら猛女に

  <赤い 紐(ひも) を出して腰にしっかり結んだ。私は最後の時が来たらこの紐で子供たちを殺し自分も死のうと考えていた> (『流れる星は生きている』)

 夫寛人さんと口論になるたび、満州での一件を蒸し返した藤原ていさんは、子供にも容赦なかった。生意気な口をきけば、「北朝鮮の山の中に置いてくればよかった」と痛罵するのだ。次男の正彦さんは一度、父親からこっそり打ち明けられたことがある。「センチメンタルで、めそめそするような女が、満州から帰ってきたら、猛女になっていた。すっかり変わってしまっていたんだ」

 勇ましい姑、という印象しかなかった正彦さんの妻美子さんものち、1年余の経験が性格ごと変えたことを、ていさんの実家がある長野県茅野市で知った。幼なじみが話すのだ。「おとなしく、物静かな、どちらかというと目立たない人で」。うつむきかげんでカメラの前に立つていさんの写真も見た。

子どもを生かすという使命感

 正彦さんは想像することがある。「引き揚げ途中の飲まず食わずの時、母は畑の野菜を盗むくらいのことをしたんじゃないか。どんなことをしてでも子供だけは生かすという強い意志があったから。その点、ひきょうなことをするくらいなら死ぬほうがまし、という考えの父が、ぼくたちを連れていたら、きっと全員死んでいただろう」

 ていさんも、美子さんにこう話している。あの極限の中で一番弱いのは独身の男だった、と。「その言葉を聞いて分かったんです。子を生かして帰るという使命、あるいはその子たちに母も生かされたんだと」

  <前には私はよく泣いた。しかし今は私は泣かない。戦争だ戦争だ、生きるための戦争だ> (『流れる星は生きている』)

思い出の白樺

 ていさんが寛人さんと結婚したのは1939年。結婚6年の若夫婦の人生を、満州と戦争が変えた。それでも、繰り返される口論や激しい気性の奥に隠された、寛人さんへの思いを家族はいつも感じていた。

  <指させば 蛍の光ふと消えて 夕べは涼し利根の川べり> 。満州赴任前の千葉で、寛人さんが即興で詠んだ短歌という。「そんなところにもひかれた」と、正彦さんらに教えて聞かせたのは、ていさんだ。

 寛人さんの取材旅行にもよく同行した。お金に糸目をつけずにタクシーを使うと怒って、途中で一人で帰ることになるのに、またついていった。

 東京・吉祥寺の自宅は、寛人さんが愛した富士山が見えるからと、印税と、寛人さんの懸賞小説の副賞で買った。その庭に2人が植えた木々の中に 白樺(しらかば) があった。特別な木だった。

 寛人さんが80年に急死した後も、気丈に生きたていさんが、80歳になる頃、認知症の症状が出始めた。美子さんの発案で、ていさんを連れて旧満州国の首都新京(現中国・長春)を訪ね歩いたとき、記憶がおぼろげだったていさんが、「ここには白樺がありました」と指をさした。「こんなところに白樺?」と疑って、旧新京動植物園に入った正彦さんらの目の前に間もなく、白樺の林が広がった。

「家族を見捨てましたよね?」, 驚いた姑の言いつけ, 満州から帰ったら猛女に, 子どもを生かすという使命感

東京・吉祥寺の自宅の庭に立つ正彦さんと美子さん。藤原家の戦後の思い出が詰まっている(東京都武蔵野市で)=鈴木竜三撮影

 新京で生まれたばかりの正彦さんらを連れ、夫婦で出かけた場所だった。ソ連軍の侵攻を受け、慌てて逃げ出す際に、ていさんがアルバムから引きはがしたのも動植物園の写真だった。

 「母が通った諏訪の女学校の敷地にも立派な白樺並木があるんです。見知らぬ満州で暮らしながら、日本や故郷や少女時代に思いを寄せられる木々でもあったんでしょう」(正彦さん)

 ていさんは生前、自分の骨は、諏訪のお墓にある寛人さんの骨つぼに入れてほしい、と遺言を残していた。納骨の日、家族が中を開けると、寛人さんの骨の上には、ていさんが収めた2人の思い出の品がのせられていた。

編集委員 清水美明、編成部 板倉孝雄、デザイン部 藍原真由が担当しました。