太平洋戦争末期に落とされた「模擬原爆」、着弾地不明の3発はどこに? 全容解明へ大学院生研究、知られざる被害者追う#戦争の記憶

「模擬原爆」について独自研究を進めている神戸大学院生の西岡孔貴さん=神戸市

 太平洋戦争中、原爆投下の実験用に開発され、日本各地に49発投下された「模擬原爆」について、神戸大学院生の西岡孔貴(にしおか・こうき)さん(28)が独自研究を進めている。突き止めようとしているのは、80年を経ても着弾地点が定かでない3発。場所が分かれば、歴史に埋もれた被害者が明らかになるかもしれない。そう考え、全容解明に力を注ぐ。

 一方、投下地点の一つだった富山市では7月、追悼式典が開かれた。模擬原爆が自宅の庭に落ち、家族を亡くした男性が慰霊碑を建立した。惨状を語れるようになったのは、戦後40年以上たってからだったという。(共同通信=恒吉慧梧、野尻稀海)

▽模擬原爆、その目的と被害規模

 爆薬を詰めた模擬原爆は「パンプキン」の通称で知られ、全長約3・3メートル、重さ約4・5トンで長崎県に投下された「ファットマン」とほぼ同型、同重量とされる。1945年7月下旬から終戦直前までに米国が原爆の訓練や弾道予測などの目的で18都府県に投下。死者400人超、負傷者1300人超の被害が出た。

 18都府県の内訳は次の通り。福島、茨城、東京、新潟、富山、福井、岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、和歌山、山口、徳島、愛媛。

 大阪育ちの西岡さんは学校で「してはいけない」と習う戦争が現実になくならない矛盾に疑問を抱き、中高生時代は戦争関連の書籍や映画に没頭。大学1年の夏、広島県の平和式典に参加し、平和記念資料館の展示で模擬原爆のことを知った。「大阪や神戸といった、なじみのある都市にも投下されていたのは驚きだった」と振り返る。

▽米国でも分からない着弾地点

 大学2年で調べ始めると先行研究が少なく、3発の着弾地点が特定しきれていなかった。分かっていたのは福島県いわき市、神戸市、徳島県あたりのどこかということまで。西岡さんは神戸の1発について、住民らが残した日記や米軍の戦中資料などを多角的に分析した結果、米軍が広島に原爆を落としたB29爆撃機「エノラ・ゲイ」から沿岸部の神戸製鋼所を狙って投下し、神戸市東部に落ちた可能性が高いことを突き止めた。いわき、徳島の2発と合わせて場所の絞り込みを続ける。

 着弾地点の多くは米国が記録しているが、その米国でも分からない3発の行方を、日本発の研究で突き止めることに西岡さんは意義を感じる。

 講演や寄稿を通じ、研究成果を積極的に発信する。「原爆は広島・長崎だけの問題ではなく、全国に関係する。原爆や戦争を考えるきっかけの一つになれば」と願う。

▽退職金で建てた慰霊碑

「模擬原爆」の犠牲者を追悼する式典で、慰霊碑の前で読経する僧侶=7月26日、富山市

 模擬原爆が投下された地点の一つ、富山市では、7月26日に市内の住宅街で、犠牲者を追悼する式典が開かれた。遺族ら10人ほどが参列し、投下時刻に近い午前7時40分ごろ、慰霊碑の前で手を合わせて「惨禍の記憶を受け継ぐ」と誓った。

 富山市には7月20日と26日に計4発が着弾し、約60人が死亡した。両親と妹を亡くした故鈴木善蔵(すずき・ぜんぞう)さんが、1988年に退職金で慰霊碑を建立。中には爆弾のかけらと防空頭巾が納められている。息子の善作(ぜんさく)さん(74)が思いを継ぎ、毎年法要を執り行っている。

▽戦争の話をしなかった父が見ていた光景

「模擬原爆」の犠牲者を追悼する慰霊碑の前で、父善蔵さんの写真を持つ鈴木善作さん=7月18日、富山市

 式典には、当時国民学校2年生だった北村竹弘(きたむら・たけひろ)さん(87)も参列した。「ドーンという大きな音がして防空壕(ごう)に逃げた」と投下時の様子を振り返った。爆風で人の腕が飛んできたといい、こう語気を強めた。「戦争はだめだ」

 善作さんによると、1発の模擬原爆が鈴木さん宅の庭を直撃した。善蔵さんは当時、徴兵され戦地に赴く途中だった。自宅に爆弾が落とされたと知り、急いで富山に戻ると、家があった場所にはがれきが積み重なり、遺体が散乱していたという。

 慰霊碑を建てるまで、善蔵さんは戦争の話を一切しなかった。善作さんは「碑を建ててから、せきを切ったように話すようになった」と父の思い出を語った。式典で「日常的な平和の大切さを語り継いでいきたい」とし、今後も父の思いを受け継ぐ決意を口にした。