「江夏巨人入り」報道は“ガセネタ”ではなかった…「江夏豊獲得に反対した巨人関係者は誰か?」運命を狂わせた西武トレード、年俸7800万円の決断―2025上半期 BEST5

1985年1月19日、多摩市営一本杉球場での「江夏豊たった一人の引退式」。当時36歳の江夏、引退試合を待つ控え室で

2024ー25年の期間内(対象:2024年12月~2025年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。プロ野球部門の第3位は、こちら!(初公開日 2025年2月14日/肩書などはすべて当時)。

「江夏豊たった一人の引退式」――阪神、南海、広島、日本ハム、西武を渡り歩いた当時36歳の大投手・江夏。なぜどの球団からも見送られずプロ野球を去ったのか? 40年前の“不思議な引退試合”の真相を探る。【全3回の前編/中編、後編も公開中】

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 昭和100年の今年は、記念イベントが各所で催され、特集記事も散見されるが、同時に「1985年40周年」でもある。「松田聖子・神田正輝結婚」「豊田商事・永野会長惨殺」「ライブエイド」「日航ジャンボ機墜落事故」「三浦和義逮捕」「夏目雅子死去」「プラザ合意・バブル経済スタート」等々、ありとあらゆる出来事が頻発したいわくつきの年である。

 それはスポーツ界にとっても同様で、1985年ほど数多くのトピックで埋め尽くされた年はないかもしれない。そこで、この年に起きた出来事を、この場を借りて可能な限り回想しておきたい。

 今回、採り上げるのが、1985年1月19日に行われた「江夏豊たった一人の引退式」である。新人時代から剛速球で鳴らし、リリーフ(救援)転向後には「江夏の21球」で伝説を創り、セパ5球団を渡り歩いた一匹狼の優勝請負人。そんな不世出の大投手・江夏豊の引退試合が多摩市営一本杉球場という本拠地とは無縁の野球場で行われ、主催は文藝春秋。これは一体どういうことか。

 何故、甲子園や後楽園といった所縁の深い球場ではなく郊外の市営球場で行われたのか。阪神タイガースや広島東洋カープといった在籍球団ではなく、出版社の主催で行われることになったのか。そこに至る経緯を全3回で振り返ってみたいと思う。

野村克也と「革命」を起こした

 江夏豊は1948年、尼崎市生まれ。大阪学院大高校を経て阪神タイガースに入団。「奪三振日本記録・世界記録(MLB未公認)」「オールスターゲーム9連続奪三振」「史上初延長ノーヒットノーラン」など数々の記録を打ち立て、阪神不動のエースとして活躍するも、75年オフに南海ホークスに移籍、野村克也監督(当時)の勧めもあってリリーフに転向、「先発→救援」という分業制を確立し、文字通り球界に「革命」を起こす。その後は広島→日本ハムファイターズと渡り歩き、それぞれの優勝に貢献していた。

 そんな江夏豊の人生の岐路は、当然いくつもあったはずだが、件の引退試合を結尾とすると、1983年秋こそ大きな転機だったと言える。この年のシーズン、江夏豊は日ハムのリリーフエースとして大車輪の活躍を見せていた。

 9月24日のロッテオリオンズ戦では日本新記録となる31セーブポイントを記録し、岡部憲章、坂巻明といった若手投手、大宮龍男といった捕手の教育係としても貢献するなど、日ハム球団にとって欠くことの出来ない存在だった。

 しかし、シーズン終盤に風向きが変わる。江夏にとって最大の理解者だった監督・大沢啓二の退任、フロント入りが決まったのだ。この措置はオーナーである大社義規たっての希望で、浪人中だった長嶋茂雄に監督要請をするためだった。そこで立教大の先輩だった大沢啓二直々に長嶋本人と交渉するも、すげなく断られ、10月下旬には一軍投手コーチだった植村義信の監督昇格が内定する。

 このとき「恩義のある大沢さんが現場からいなくなるのなら、俺が日ハムに残る意味はない」と江夏が発言したことで、11月9日、日ハム球団は江夏放出を決定。ここから“江夏争奪戦”が勃発するのである。

「巨人、江夏獲得へ」報道

 まず最初にラブコールをしたのがヤクルトスワローズだった。『日刊スポーツ』(1983年11月22日付)は1面で大きく「江夏ヤクルト入り」を報じ、オーナーである松園尚巳のコメントまで載せている。それに呼応するように、25日にはロッテの新監督に就任した稲尾和久も獲得を表明。江夏自身も「尊敬する稲尾さん直々にありがたいこと」と返すなど争奪戦の行方は混沌とする。

 しかし、実際に水面下で江夏本人と接触していたのはヤクルトでもロッテでもなく、実は巨人だった。さかのぼること2カ月前、『週刊ポスト』(1983年9月23日号)に「巨人、江夏獲得へ」と題した特集記事が載っている。そこには巨人のリリーフエース・角盈男の左肘の調子が思わしくないので新しいストッパーを欲していることと、当時のプロ野球最高年棒7800万円(推定)を支払える球団は巨人くらいであること、江夏自身も「最後の選手生活を巨人ですごしたい」と願っていることが書かれている。

 一見「どうせ、ガセネタ」と読み飛ばしてしまいそうになる軽めの特集記事だが、実際は記事の通りで、この時点で「江夏巨人入り」は既定路線となっていたのだ。

「とことんケンカしたいね、あの人と」

 これに待ったをかけたのが西武ライオンズだった。当時の球団代表だった坂井保之は後年『西武と巨人のドラフト10年戦争』(宝島SUGOI文庫)の中で、巨人が江夏獲得に先んじていた情報をキャッチし、すぐさま当時の日ハムの小嶋武士球団代表に1対2の交換トレードを申し込んだことを明かしている。

 また、江夏と親交の深かったフリーライターの永谷脩も同書で巨人が江夏獲得に具体的に動いていたことを明かすなど、その実現性の高さがわかる。しかし、翌季から巨人の新監督に内定していた王貞治が「若手を育てたい」と江夏獲得に難色を示したことで交渉が遅滞、その間隙を縫って、西武が江夏獲得に向けて巨人に追いつき、引き離したと回想している。

 興味深いことに『週刊ポスト』の報道から1カ月後、江夏自身もこうコメントしているのだ。

「たとえばの話ですよ、トレードされるんなら、ワシはジャイアンツよりか西武へ行きたいんですよ。面白いもん、野球すんのに。広岡さんとケンカできるもん。とことん喧嘩したいね、あの人と。そうした刺激があれば、ワシも変わるかもしれん。それにほんというと、個人的にはものすごい広岡ファンなのよ、ワシ。悲しいかな(笑)。個人的にものすごく魅力ある人やしね」(『週刊現代』1983年10月15日号)

 かくして、江夏豊の新入団先は西武ライオンズに決まった。年俸は現状維持の7800万円、背番号はエースナンバーの18、考えうる最高の条件と言ってよく、本人的にも大満足のトレードだったに違いない。

 しかし、結果的にこの選択が命取りとなってしまうのである。

<続く>