「貧乏人は麦を食え」の“失言”で反発を受けた池田勇人、受験失敗や壮絶な難病治療など数々の不運に見舞われた生涯
1960年8月、カレーライスを食べながら議員と懇談する池田勇人元首相(左/写真:共同通信社)
昭和20(1945)年8月15日の終戦の日から、今年で80年を迎えた。戦後80年の節目に改めて、戦後の日本を復興に導いた偉人たちを取り上げたい。本稿では戦後の日本経済を復興から高度経済成長へと転換させた、内閣総理大臣の池田勇人(1899─1965年)について、幼少期のエピソードから官僚時代の闘病生活、また大蔵大臣時代の失言の真相について、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。
身内から将来を有望視されるも受験でことごとく失敗
所得倍増計画――。高度成長期をひた走った日本を、そんな言葉でけん引した首相がいた。昭和35(1960)年に内閣総理大臣となった池田勇人(いけだ はやと)である。
池田は大蔵省(現財務省)の官僚を経て、戦後に政治家に転身。初当選で吉田茂内閣の大蔵大臣に抜擢されている。吉田の側近として地歩を固め、首相にまで上り詰めた。
「貧乏人は麦を食え」。そんな失言をしたことでも知られる池田は、どんな人物だったのか。
池田勇人は明治32(1899)年、広島県の瀬戸内の沿岸に位置する吉名村(現在は竹原市の一部)にて、裕福な地主の家に生まれた。
7人兄弟の末っ子だった池田は、長女とは20歳も年の差がある。皆に庇護されながら、やんちゃなガキ大将として育った。
それでいて頭が良かったため、周囲から将来を有望視されたようだ。両親のみならず、長男からも「お国のために役立つ人間に成長し、池田家の家名を上げてほしい」と望まれたという。
特に家業を継いで進学できなかった長男は「勇人には自分の分と合わせて2人分の勉強をしてもらう」と期待を寄せた。
だが、受験はことごとくうまくいかなかった。近眼によって陸軍幼年学校は不合格となってしまう。
進学した中学校では、記憶力がずば抜けていたことから、歴史の先生から養子にもらわれそうになったという逸話が残っている。優秀な成績を残しているが、希望した一高(旧制第一高等学校:現在の東京大学教養学部や千葉大学医学部・薬学部の前身となった旧制高等学校)には受からずに、熊本の五高(旧制第五高等学校)へと回されてしまった。
それでも池田は一高への思いを捨てられず上京。1年間、五高を休学して再度受験に臨むが、同じく不合格。五高に再入学することになった。
放蕩生活を送る池田に見られた「リーダーの資質」
受験勉強が終わった解放感からか、はたまた希望の進学が叶わなかった失望感からか、池田は実家から潤沢に仕送りをもらいながら、昼は授業も出ず囲碁を打ち、夜になれば友人を引き連れて飲み歩くという放蕩生活を送った。
ともに池田と青春時代を過ごした悪友の一人は、当時をこう振り返っている。
〈五高一年のとき、池田はすでに髪をのばし、大島の揃いなどを着こんで酒ばかり飲んでいた。時計を質に入れて、南山という熊本一流の料亭に乗りつけ、芸者をよんで遊んだ〉(林房雄著『随筆池田勇人』より)
むちゃくちゃな遊び方だったようだが、同時にこんな声も挙がっている。
〈その頃から池田は遊ぶ場合にも仲間の先頭に立つくせがあった。強引だったが愛嬌と人徳のようなものがあって、仲間は自然についていった。のちに宏池会(池田派の衆参両院議員)とか末広会(池田支持の財界人の集まり)とかの会合ができて、これが長続きしたのは、この人徳が作用したと思われる〉(林房雄著『随筆池田勇人』より)
官僚で生涯を終えることなく政治家となり、内閣総理大臣にまで上りつめる兆しが、この頃からすでにあったようだ。
池田は東京帝国大学(現東京大学)の受験もあえなく失敗。それでも京都帝国大学(現京都大学)法学部へと進学している。兄は大いに失望したらしいが、母は「東大でビリになるより京大で一番になってもらいましょう」と激励したという。
京都帝国大学では、真面目な生活を送り、成績はトップクラスをキープ。在学中に高級官僚の登用試験である高等文官行政試験の合格を果たす。卒業後は大蔵省に入省することとなった。
十分エリートコースのように思えるが、東大出身者がゴロゴロいる大蔵省においては、そうではなかったらしい。池田自身、五高から京大に進んだ経歴を「赤切符の凡才コースを歩いたのだ」と自虐的に語っている。赤切符とは、当時の鉄道における三等車で使う低料金の乗車券のことだ。
ただ、池田が出世コースに乗れなかったのは、東大を出ていないことだけが理由ではなかった。入省して5年目にして難病を患ってしまったのである。
ミイラのように全身を白いガーゼで包んでの闘病生活
手足がむずかゆく感じるようになったのは、昭和5(1930)年、池田が30歳のときのことだ。
「昨夜、虫にでも食われたのかもしれない」
結婚したばかりの妻の直子にもそう話していたくらい当初は軽症で、膝のあたりに小豆ほどの小さな水膨れがある程度だった。ところが、水膨れは全身に広がり、膨張して潰れるとダラダラと出血。新たな水膨れを生むという地獄のような症状が続いた。
やがて30分熟睡することさえ難しくなり、いら立ちから池田はたびたび癇癪(かんしゃく)を起こしたという。ちょうど前年に宇都宮税務署長に就任したばかりだったが、とても仕事どころではない。
病名は「落葉性天疱瘡(らくようじょうてんぽうそう)」という難病だった。手の打ちようがなかったが、妻は「私の力で全快させてみせます」と池田を献身的に支えた。
ところが、過酷な看病は想像を絶するものだったらしい。夫のつらさを思うと、自分は弱音を吐くわけにはいかない。そんなプレッシャーも彼女を追い詰めた。
闘病生活が2年に及んだ頃、妻は狭心症で急逝。悲しみに暮れる池田にも、病魔は容赦なく猛威を振るい続けた。介護は妻から母へと変わる。
症状が重く、池田はミイラのように全身を白いガーゼで包まなければならなかったが、いやが応でも近所の目を引く。「池田のぼんぼんは腐っとる」。伝染病だという誤解にも苦しめられることになった。
もし、症状が広がり続けて、顔面や舌に現れたときには、もう命の保証はないと医師から告げられていた。毎日、自分の身体を見るたびに、生きた心地がしなかったことだろう。
だが、池田の症状は、首の下のギリギリのところでとどまり続けた。そして闘病4年の末、池田は奇跡的に回復を遂げている。
命があっただけでも十分に幸運だが、さらに池田は大蔵省に復帰も許された。ただ働けることがありがたかったに違いない。
その一方で、死を身近に感じたことで「命があるうちに仕事に打ち込みたい」という気持ちも湧いてきたのだろう。出世からはすっかり遅れてしまい、派閥からも弾かれてしまっている現状に、池田は闘志を燃やすようになる。
「省内で重要会議があっても、全然、俺を呼んでくれない。いつもポツンと取り残される。こんちくしょうと思った」
情熱の炎さえ消さなければ、時が思わぬ幸運を連れてくることもある。池田の場合は、戦後GHQにより公職追放、いわゆるパージが行われたことで運命が開けた。
重職にいた人物はことごとく失脚。池田は、出世の遅さが幸いして追放を免れている。生き残りさえすれば、あとはひたすら走り続けるのみだ。
大問題となった「貧乏人は麦を食え」の正確なニュアンスとは?
昭和20(1945)年に主税局長の要職に就いた池田は、昭和22(1947)年、第1次吉田内閣で大蔵事務次官に抜擢される。
そして、昭和24(1949)年に衆議院議員に初当選し、政界へと転身を果たす。そればかりか初当選でありながら、第3次吉田内閣で大蔵大臣に就任という異例の出世を果たすことになった。
難病で命を脅かされながら、一度は終わったかに見えた池田の人生だったが、まだ始まってもいなかったのである。
大蔵大臣になった池田に課せられたのは、日本経済をいかに自立させるか、という難題であった。
前年の暮れにGHQが「日本経済安定と復興を目的とする9原則」(経済安定九原則)を発表。アメリカからの援助に依存する状態から脱却せねばならなかった。また価格統制のための、農家への補助金も政府の財政を苦しめていた。
そんな状況の中で行われた昭和25(1950)年の衆院予算委員会において、後に問題となる発言が飛び出した。労農党の木村禧八郎議員が、麦に比べて米の価格を大きく引き上げる政策について質問したところ、池田はこう答えた。
「所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような経済の原則に沿ったほうへ持っていきたい」
池田は経済の原則を述べたに過ぎなかったが、野党側からは「重大問題だ」とヤジの集中砲火を浴びた。その発言を引き出した木村は、広川弘禅農相に追い打ちをかけた。
「所得の多いものは米を食え、所得の少ないものは麦を食えというような答弁だったが、農相はどう考えるか」
これには農相も「少し言葉が過ぎたと思う」と言わざるを得なかった。これが池田勇人の「貧乏人は麦を食え」発言として広まることになる。
大意はそうだとしても、かなり極端な言葉に変えられており、本来の言葉のニュアンスとは大きく隔たりがある。しかし、そんなニュアンスの違いなど関係なく、不景気に苦しむ国民は、池田発言に大いに反発したことは言うまでもない。
だが、池田の「失言」とされる言葉は、これにとどまらなかった。
ある記者会見では「(国家財政の建て直しという)大きな政策の前に多少の犠牲が出るのはやむを得ない」「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒ではございますが、やむを得ないということははっきり申し上げます」などと発言。
それが「中小企業が倒産してもやむを得ない」「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」などと報道され、波紋を呼ぶこととなった。
池田は通算で4回も閣僚不信任案が提出され、「中小企業の5人や10人~」の暴言については、戦後初めて不信任案が可決されることになる。昭和27(1952)年のことだった。
それから8年後の昭和35(1960)年、池田は内閣総理大臣に就任。所得倍増計画を発表して、高度経済成長を背景に長期政権を担うことになる。
時には野党に誇張された池田の暴言は、日本の厳しい経済状況を見据えていたからこその発言だったのかもしれない。
池田内閣誕生(1960年7月19日、写真:共同通信社)
「死ぬ気でやったら辞めなくてもいいのではないか」
昭和39(1964)年、がんの治療のために池田は総理大臣を辞職。東京オリンピックを花道として政界を引退すると、その翌年の昭和40(1965)年8月13日、65歳でこの世を去った。
引退の決断にはずいぶんと迷いがあったようだ。医師から止められたときには「死ぬ気でやったら辞めなくてもいいのではないか」と語ったこともあった。辞職直前にもなお、秘書官にこんなことを漏らしている。
「農業と中小企業の近代化が残っている。これを予算化したい。だから、ゆけるところまでゆこう。俺は問題から逃げたと思われるのがいやだ」
政界入りしてたった16年で、これだけの経験をした政治家はほかにはいないだろう。受験失敗や壮絶な難病治療など数々の不運に見舞われながらも、立ちはだかる難題と格闘し続けた人生だった。
池田勇人元首相(写真:TopFoto/アフロ)
【参考文献】
『日本宰相列伝(21)池田勇人』(伊藤昌哉監修、時事通信社)
『随筆池田勇人―敗戦と復興の現代史』(林房雄著、サンケイ新聞社出版局)
『池田勇人::所得倍増でいくんだ』(藤井信幸著、ミネルヴァ日本評伝選)
『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか 視野が広がる40の考え方』(真山知幸著、PHP研究所)
「名言迷言 所得の少ない人は麦を多く食う」(日本経済新聞、2008年11月6日付)