廃止の危機もあった神戸「六甲山上への足」の現在

山へ向かう公共交通機関, ケーブルは参詣鉄道だった, 戦後にロープウェーが開業, 夜景は震災復興の象徴

神戸市灘区の摩耶ケーブル駅。三宮などからのバスが到着すると大勢の客でにぎわう(編集部撮影)

大阪と神戸を結ぶ鉄道はJR西日本、阪急、阪神の3路線があり、これらを中心に鉄道の枝線や路線バス網が延びている。

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このため大阪、神戸という2つの大都市に挟まれた阪神間は、国内でも最も公共交通機関が充実した地域とされる。その充実した公共交通網は六甲山上にも延びている。

山へ向かう公共交通機関

六甲山上のにぎわいの源流をたどると、1868年の神戸開港以来、神戸を訪れた外国人たちにとって六甲山が、狩猟や登山など格好のスポーツと娯楽の場だったことがある。

人工雪のスキー場、高山植物園などを阪神が相次いで開発。戦後は企業が相次いで六甲山上に保養所を開設した。おかげで気軽に標高700〜800メートルほどの地点まで登り、夏場であれば下界の暑さを忘れて気軽に涼を取ることができる。

さらに現在でも阪急神戸線の六甲駅から路線バス、ケーブルカー、ロープウェーを乗り継ぎ、公共交通機関だけを使って六甲山を越え、車窓から季節ごとに移ろう景色を楽しみながら有馬温泉に到着することもできる。

【地図と写真を見る】六甲ケーブル、まやビューライン(摩耶ケーブル・摩耶ロープウェー)、神戸布引ロープウェイ……神戸には六甲山地へ向かう交通機関が複数ある。昭和初期の摩耶ケーブルの姿を写した貴重な写真も

ただ、そうした阪神間の都市化とは少し異なる文脈で語らねばならないのが「まやビューライン」だ。1995年に発生した阪神・淡路大震災後、「摩耶ケーブル」「摩耶ロープウェー」をまとめて、まやビューラインと呼ぶようになった。

摩耶ケーブルは2025年に開業100年を迎えた。開業は有馬へと越える主要ルートの「六甲ケーブル」の開業(1932年)より7年も早い。一方、摩耶ロープウェーは今年で開業70年。なぜロープウェーができるまでに30年かかったのか。

山へ向かう公共交通機関, ケーブルは参詣鉄道だった, 戦後にロープウェーが開業, 夜景は震災復興の象徴

六甲ケーブル、まやビューライン(摩耶ケーブル・摩耶ロープウェー)、六甲布引ロープウェイの地図

ケーブルは参詣鉄道だった

ケーブルカーのある場所といって思い出すのは人それぞれだろうが、けわしい山を登った先に多くの人が訪れる目的地がある場合に、建設されるのがケーブルカーだ。

典型的には京都の比叡山、和歌山の高野山、東京でいえば高尾山など、いわば寺社参詣が現代よりも観光の色合いを濃くしていた時代の名残で、参詣者を運ぶために建設されたケーブルカーは意外に多い。

摩耶ケーブルも比叡山、高野山などと同じころに建設された。つまり摩耶ケーブルは、かつて全国に聞こえた霊場「摩耶山天上寺」への参詣客を運ぶ鉄道だった。

摩耶山天上寺は飛鳥時代の646年(大化2年)の創建とされる。孝徳天皇が勅願してインドから来た法道仙人が開いたという古刹だ。最盛期には約3000人の僧を抱える摂津国で最も大きな寺だった。

本尊は十一面観音菩薩と、仏母摩耶夫人尊。釈迦の生母である摩耶夫人を本尊とする日本で唯一、世界的にみても珍しい寺院だ。五穀豊穣の祈願寺とされたほか、浄水を司る仏とされていたため、灘五郷の酒蔵からも信仰があつかった。

山へ向かう公共交通機関, ケーブルは参詣鉄道だった, 戦後にロープウェーが開業, 夜景は震災復興の象徴

まやビューラインのケーブルカーとロープウェーを乗り継いだ先にある摩耶山天上寺(編集部撮影)

戦後にロープウェーが開業

初午の縁日には、天上寺で授かった飾りで馬の頭を飾る珍しい行事が全国に知れ渡っていたという。このため「摩耶詣(まやもうで)」は春の季語として歳時記にも掲載されている。「菜の花や月は東に日は西に」という有名な句は、与謝蕪村が天上寺を訪れたときのものだ。

近代までは意外に身近な寺だったにもかかわらず、天上寺のにぎわいの記憶は、ほぼ現在に引き継がれていない。参詣者が減り始めたのは摩耶ケーブルができた後だったようだ。

その後は1938年(昭和13年)に阪神大水害のため運行休止。1944年(昭和19年)には軍事転用するためのレールを供出した。戦後に運転を再開したのは1955年(昭和30年)のことだ。

戦後の運転再開のとき、併せて開業したのが奥摩耶ロープウェイ(現・摩耶ロープウェー)だ。摩耶ケーブルの摩耶駅(現・虹の駅、上側の終点)と、摩耶山の頂上付近にある掬星台(きくせいだい)を結んだ。

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1995年の震災によって運休した際、このまま廃止になる可能性もあったが、地元の要望もあって「まやビューライン」として2001年に運行を再開した。

それからも乗客数の低迷などから、まやビューラインはケーブルカー、ロープウェーとも改めて廃止が検討された。その際に地元住民らで構成する「摩耶山再生の会」が中心になって、習い事やイベントなどの市民活動を摩耶山上で実施する部活ならぬ「マヤカツ」で需要を作り出したり、年間パス「MaSACa(マサカ)」の販売に乗り出したりと、住民の利用を増やして路線を維持してきた。

何度も廃止の危機を乗り越えて開業100年を迎えた摩耶ケーブル。開業100年のシンボルマークをデザインしたのは、摩耶山や六甲山を抱える神戸市灘区で、豊かな「灘ライフ」を創造する街あそびの達人としても知られる、デザイナーの慈憲一(うつみ・けんいち)さんだ。

夜景は震災復興の象徴

慈さんは3月20日に開いた摩耶ケーブル開業100年を記念した出発式で、自らデザインを解説。「数字の100の両側に描いたのはヒゲではなくて羽根。戦争、水害、震災と何度も廃止になりかけながらよみがえってきたので、不死鳥とされるフェニックスの羽根をイメージした」という。

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背景のブルーは、ナガサワ文具センター(神戸市中央区)が展開する神戸市内各地をイメージした色のインク「Kobe INK 物語」から、摩耶山をイメージした色「摩耶ラピス」を採用。日本3大夜景の1つである掬星台からの夜景で、数々の明かりを浮かび上がらせる背景の色だ。

「今年は震災から30年ということで、震災後は真っ暗になった街にどんどん明かりが戻り、美しい夜景になった」と慈さんは振り返っていた。