【風営法「改正」史】赤線・青線の時代には接待飲食やダンス、ギャンブルだけが対象だった風営法

銀座のネオン(『大東京写真帖』1952年、国立国会図書館蔵)
実は38回も改正されている
今、風営法の改正が大きな話題となっている。6月28日から施行された改正風営法ではホストの色恋営業やスカウトバックが禁止となり、ガールズバーやメンズエステなどの罰則が強化された。これによって全国各地で摘発が相次いでいる。夜の業界の人々は大幅に強化された罰金に怯え、看板を塗りつぶしたり、業態を変えたり、店を移ったりと騒々しい。風営法の改正は、盛り場の雰囲気を一変させるほど大きな影響を与えている。
ところで「風営法」とは、どんなものなのだろう。
風営法は1948年に「風俗営業取締法」という名称で制定されたのが始まりである。その目的は公共の秩序や風紀を守り、青少年の健全な育成を図ることにある。規制の対象と範囲は時代に合わせて変わり、これまで社会のニーズや産業の変化に応じて38回も改正されている。
改正は基本的に、集客のためにサービスが過激になりがちな接待飲食店や性風俗店などを公序良俗の世界に差し戻すために行われてきた。今年の改正も、悪質なホストクラブやスカウトを取り締まることが契機となっている。
取り締まりが強化され、これから歓楽街や性風俗がどうなるのかを、多くの人々が知りたがっている。「未来を知りたいなら、過去を学びなさい」とは、古代中国の思想家・孔子の名言だ。それならば、風営法はこれまでに、どのような改正が行われてきて、業界はどう対応してきたのか。そして盛り場はその結果、どうなっていったのか。それらを知ることは、未来を予測するうえで大いに役に立つはずだ。
「過去は未来を解く鍵」である。当企画では風営法改正の歴史を紹介しつつ、そこから見える時代背景と風俗環境の変遷をたどっていきたい。
「法の空白」で売淫の店が乱立
まずは風営法が誕生した経緯から解説しよう。
風営法が制定された背景には、敗戦後に生まれた「法の空白」があった。大掛かりな民主化が遂行されて1948年3月に新たな警察法が施行された。その際に、警察に集中していた風俗営業取り締まりの権限を警察から分散させた結果としてできたものだ。
戦前の警察があまりに広範な規制対象と権限を持っていたことから「古い警察を一新せよ」とGHQに迫られ、管轄官庁の再編がなされたのである。旅館業法、公衆浴場法などが作られ、厚生省や通産省などに所管が移されて、戦前に比べ警察の規制範囲はずっと限定された。しかし、風俗関係の規制が実質的に失効した結果、カフェーやバーなど移管されなかった業種を規制する法のない「空白状態」が生まれてしまう。
風営法が公布・施行されるまでの間、飲み屋や連れ込み旅館を装って売春を行う店が都内で3000軒も誕生したという。無規制の状態は社会に混乱をもたらし、犯罪が増加し人心がすさむなど風紀が乱れた。このような繁華街や夜の街の秩序を回復するべく、新法によって法律の空隙を埋めようと、風営法は急ぎ足で制定されたのである。
風営法を作るにあたって、最初に警察は「売買春と賭博」が違法行為と指摘。これらを未然に防止するために、この種の営業にはある程度目を通すということを法案の趣旨とした。
こうして風営法は1948年7月10日に公布され、同年9月1日に施行された。戦前の法令で許可を受けていた業者の既得権は、そのまま保持されることが認められた。この後の度重なる改正後も、改正前の業者の既得権は保護される方向でまとまっていく。改正により新規出店を厳しく規制された店舗型風俗店(ソープ、ヘルス、ホテヘル)が現在も継続して存在しているのはこのためである。

銀座の社交喫茶店『ショウボート』。450人の女給がいたという(『大東京写真帖』1952年、国立国会図書館蔵)
「赤線」「青線」があった時代の風営法
当初規制された対象は、待合、カフェーなどの「接待のある飲食業」、キャバレー、ダンスホールなど「ダンスをさせる営業」、玉突場(ビリヤード場)、まあじゃん屋などの「ギャンブル」という3つの業態であった。
現在のものとの大きな違いは、性風俗店に関する規制が弱いことである。当時はまだ売春を規制する法令がなく、県や市町村などの各自治体は「風紀取締条例」「風俗保安条例」などといった条例を策定して売春を処罰した。売春防止法が完全施行されるのは、10年後の1958年であった。
ここで風営法誕生当時の性風俗について見てみよう。1946年にGHQの指示により公娼制度は廃止されていたが、遊廓の業者たちは「特殊飲食店」という形で売春稼業を継続していた。各地では特殊飲食店を集める地域が指定され、地図の上ではそれらの地域が赤い線で囲まれたことから「赤線地帯」と呼ばれた。一方で、表向きは旅館や飲食店を装い、ひそかに売買春が行われる場所は「青線地帯」と呼ばれた。「青線地帯」という名称は新聞記者がこう呼んだことから広がったという。
このような形で性売買行為を一定の空間の内部に封じ込める「囲い込み方式」が貫かれた。敗戦後の民主化の時代においても、警察と業者は「1ヵ所に集まっているほうが都合がよい」ことから、戦前の遊廓の仕組みを死守しようとしたのであった。
警察にとっては「取り締まりに必要なコストを小さくできる」「性病の拡散を抑えやすい」などの理由から、業者にとっては「市場の寡占がもたらされる」ことから、このような「集娼方式」が継承されたのである。この「空間規制」は、のちの風営法にも受け継がれることになる。
同時期に街娼が厳格に取り締まられたのに対し、旧来の遊廓地区内での自由意志による私娼は、「社会上やむをえない悪」とされ、黙認されていた。風営法の主目的は赤線以外の密売淫を取り締まるものであった。

新橋駅付近のネオン。「こゝらには簡便安直な酒場や食堂が多いので夕方会社商店の退け時間になると銀座裏のサラリーマン達がよくこゝらまで足をのしてくる」とある(『大東京写真帖』1952年、国立国会図書館蔵)
売春が多発していたダンスホールの取り締まりを強化
射幸心をそそり怠業や離婚の原因として社会的な批判を浴びていた「ぱちんこ屋」が規制の対象とされたのが、1954年に行われた第1回の改正である。流行っていたので徴税の対象にしたいという意図があったともいわれている。
一方で翌1955年の改正では賭博行為の場として見られていた「玉突場」が〝健全なスポーツ〟として対象から除外される。背景には公営競輪やパチンコといった他のギャンブルに人気が流れていたことがあった。
売春防止法が完全施行された翌年の1959年には風営法の大改正が行われた。当時は社交ダンスが全国的なブームとなった一方で、風紀上の問題が起きていた。ダンスは男女の享楽的な雰囲気を醸し出し、ダンスホールで売春事犯が多数発生していたのである。
これを解消するため規制対象となる業種が追加、細分化され、キャバレー、バー、ダンスホール、まあじゃん屋などの7種類とされた。この改正により、遊興のためのダンスの空間と、ダンスのレッスンだけを行うダンス教授所が峻別された。
当時はキャバレーとダンスホールが融合しており、夜はキャバレーとして営業するが、昼間は教授所としてダンスのレッスンだけをする店もあった。また同じ女性従業員が、昼間はダンス教師になり、夜はダンサーとして接客をすることも多かった。東京ではダンスホールがキャバレーに飲み込まれていた。キャバレーが昼間にダンスホール的な営業をしていたため、両者の区別があいまいになっていたのである。
こうした状況の中で風営法が改正され、「キャバレー」と「ダンスホール」のどちらの営業許可を取るかなどで、東京のキャバレー・ダンスホール業界は大混乱に陥る。キャバレーがダンスと飲食、接待のすべてを提供したのに対し、接待と飲食を提供せずにダンスだけをさせる施設は「純ダンスホール」と名乗った。
「ダンスは健全なスポーツだから取り締まり対象から外してほしい」という運動も起こったが、その要求は通らなかった。遊びとして地味で商売にうま味のない純ダンスホールは次第に衰退し、多くの店はキャバレーに転じていく。キャバレーは大型化、大衆化し、高度経済成長期の歓楽街の花となり、大いににぎわった。
さらに少年非行の温床として問題があった深夜喫茶に規制がかけられた。1956年には男女同伴の条件で入店できる「アベック喫茶」(カップル喫茶の旧称)、店内がロウソクの灯りで照らされている「ロウソク喫茶」などの深夜喫茶が大流行し、同年6月には警視庁が「青少年の不純交友の場になっている」として33人の業者を検挙、少年・少女16人を補導していた。この改正以降、「子どもを守る」というレトリックが、規制の中で重視されていくようになる。
【後編】では売春防止法制定後に過激化していったトルコ風呂などの性風俗が規制の対象となっていく過程などについて触れている。
〔参考文献〕
『定本 風俗営業取締り』永井良和、河出書房新社、2015年
『性風俗史年表 昭和[戦後]編』下川耿史(編)、河出書房新社、2007年
『昭和 平成 ニッポン性風俗史』白川充、展望社、2007年
『性の国家管理』藤野豊、不二出版、2001年
『近現代日本の警察と国家・地域』大日方純夫、日本評論社、2024年
この他、多数の書籍、ネット媒体などを参照しました。
【後編】トルコ風呂、ヌードスタジオなど「性風俗」が初めて規制された’66年の改正

キャバレー。昼間はダンスホール、夜はキャバレーという店も多く、両者の線引きはあいまいだった。また売春の温床でもあった(『大東京写真帖』1952年、国立国会図書館蔵)
取材・文:生駒明