米国死者年7万人…「ゾンビ」生む麻薬フェンタニル 日本も対岸の火事で済まない薬物事情

米サンフランシスコのテンダーロイン地区。体を「く」の字に曲げて立ち尽くすのもフェンタニル乱用者の特徴とされる=2023年12月(8bitNewsの堀潤氏撮影・提供)

医療分野で重宝される一方、米国では密造品の過剰摂取で毎年数万人規模の死者が出ている麻薬性鎮痛剤フェンタニル。脳などの中枢神経系を抑制する薬で、乱用すれば筋肉が弛緩(しかん)し無気力状態になるといった副作用もあり、上体を曲げて腕を垂らす「ゾンビ」のような行動を取ることも。日本で密造フェンタニルの流通は確認されていないが、若者を中心に薬物の過剰摂取は拡大。専門家は「対岸の火事とは言い切れない」と警鐘を鳴らす。

「く」の字で立ち尽くす人

繁華街から1本通りを外れると、上体を折り曲げた「く」の字で立ち尽くしたり、徘徊(はいかい)したりする人たちの異様な光景が目に飛び込んでくる。

歩道の隅では男女を問わず、数人ずつが集まって宙を見つめ、座り込んでいる。通りには店が立ち並ぶが、中をのぞけばもぬけの殻だ。

「ゾンビ映画でみたことがあるような街」。フェンタニル乱用者が多いとされる現地を取材したジャーナリストの堀潤氏(48)はこう語る。

堀氏は2023年末から24年初めにかけて3日間、米西海岸サンフランシスコのテンダーロイン地区を訪れた。地区はかつてデパートや商店などでにぎわったが、新型コロナウイルス禍で路上生活者が増え、店の閉店も相次ぎ、街は荒廃。フェンタニルは比較的安価で手に入り、貧困層にも広まったとみられる。

米サンフランシスコ・テンダーロイン地区では、路上で座り込んだり、倒れ込んだりする人の姿がみられる=2023年12月(8bitNewsの堀潤氏撮影・提供)

効果はモルヒネの100倍

ケシ由来のアヘンに含まれる「モルヒネ」と似た作用を持つ薬物は「オピオイド」と総称される。天然由来のものには呼吸抑制や便秘を引き起こすという欠点があり、フェンタニルはその点を改良するため、1960年代に合成された。モルヒネの100分の1の量で同等の鎮痛効果を発揮し、がんの緩和治療や手術時に使われる。

薬物乱用問題に詳しい武蔵野大の阿部和穂教授(薬理学)によると、米国では製薬会社の戦略もあって、30年ほど前からオピオイドが安易に処方され、依存症が広がった。効果が切れる際には強い不快感に襲われるといい、2010年代になると、より強い効果を持つフェンタニルが求められるようになった。

その後、コロナ禍で乱用が爆発的に増加。米疾病対策センター(CDC)のデータでは、21~23年に毎年7万人以上がフェンタニルを中心とする「合成オピオイド」の過剰摂取で死亡した。

この間に大量供給されたのは、正規の医薬品ではなく密造品。錠剤や粉末の形で出回っているとみられる。フェンタニルはごく微量でも一気に摂取すると死に至る危険性があるにもかかわらず、密造品に含まれる成分量や添加物は不明で、乱用が死に直結した。

「現代のアヘン戦争」に

米麻薬取締局(DEA)は昨年、フェンタニルが入った錠剤6千万錠以上とフェンタニル粉末約3・6トンを押収。米政府は原料が中国からメキシコに輸出され、そこで製造されて米国内に密輸されるというのが中心ルートとみており、トランプ政権の中国などに対する「関税戦争」の引き金の一つになっている。英国が中国・清朝にアヘンを密輸したことをきっかけに起きた戦争になぞらえ、「現代のアヘン戦争」と呼ぶ声もある。

米国ではこうした錠剤が「不安障害に効く」などと別の用途をうたってインターネットで販売され、若者らが知らずに摂取してしまった例も少なくない。日本でもネット上でさまざまな輸入品の錠剤などが売られているものの、現状それらの中にフェンタニルの混入は確認されていない。

国内でも「フェンタニル系危険ドラッグ」

ただ、フェンタニルの化学構造を少し変え、作用は同等の「フェンタニル系危険ドラッグ」(阿部氏)は近年国内で相次いで見つかっている。

一方、日本では若年層を中心に市販薬の過剰摂取(オーバードーズ)が社会問題化。国立精神・神経医療研究センターの調査によると、高校生で約60人に1人、中学生では約55人に1人が、過去1年以内に市販薬を乱用した経験があることが判明した。過剰摂取による死者も出ている。

フェンタニルのように「ゾンビ化」を引き起こす薬物として、香港や台湾で問題となっている未承認の麻酔薬「エトミデート」も沖縄を中心に乱用が広がりつつあり、薬物問題を巡っては日本も〝危険水域〟に足を踏み入れているといえる。

不況、孤立…乱用の背景に

その背景にあるのは、日本の社会状況だ。阿部氏によると、薬物の力を借りれば、満たされない思いや「何をしてもうまくいかない」という閉塞(へいそく)感を一時的に忘れられる。それが薬物で得られる「多幸感」の正体で、経済不況や社会的孤立、生きづらさは薬物乱用の動機になるという。

阿部氏は「仮に日本で密造フェンタニルが流通すれば、乱用が広まりかねない素地はある」と指摘。薬物自体を規制しようにも「いたちごっこ」にならざるを得ないといい、「どんな薬物にせよ、乱用を防ぐには社会的背景や『心の問題』へのアプローチが必要だ」と訴える。(西山瑞穂、喜田あゆみ)

■フェンタニル

天然に由来しない合成オピオイド。薬物としては酒や睡眠薬などと同じ「ダウナー系」に分類され、初めは酔ったような感覚で多幸感があるとされる。その後は無気力、不快感、眠気、嘔吐(おうと)などが生じる。多量に摂取すると呼吸が十分にできなくなり、昏睡(こんすい)し死に至る。日本では麻薬に指定され、麻薬取締法で許可のない所持や使用などが禁じられている。