過酷な軍政を敷いた日本をフィリピンが赦したのはなぜか?戦って勝ったフィリピンと日本が無条件降伏した中国との差
いまのインパール(写真:AP/アフロ)
歴史、政治、時事問題など幅広いテーマで文筆活動を行う作家の古谷経衡氏はライフワークとして、国内外の太平洋戦争の戦跡を訪れ歴史を追体験してきた。日本軍は国外でいかに戦い、地獄を見たのか。『激戦地を歩く レイテ、マニラ、インパール、悲劇の記憶』(幻冬舎新書)を上梓した古谷経衡氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
──インド北東部のインパールを訪問された経験について書かれています。太平洋戦争について書く専門家でも、インパールを訪れない人が多いと書かれていますが、実際に訪れるとどのような場所ですか?
古谷経衡氏(以下、古谷):日本軍が占領していたビルマから徒歩で進軍して占領を狙ったのがインパール作戦です。1994年の3月に作戦が始まり、同年7月に作戦の中止命令が出されましたが、その後も地獄の撤退が続きました。
10万人の日本兵がこの作戦に参加し、そのうちのおよそ3万人から4万人が餓死したと言われる、とんでもない作戦です。昼間はイギリス軍が襲ってくるので動けない。そこで夜間だけ、70~80キロの荷物を背負って山道を歩くのです。
私はずっと実際のインパールはどんなところなのかと疑問に思っており、日本軍が入っていったアラカン山脈の山道の写真などを探しましたが、あまり見当たりませんでした。
インパールは現在およそ26万人が住む街です。私はインドのコルカタから乗り継いでインパールに行きました。ただ、インパールにはストレートにはいけないので、コヒマという街で車をチャーターし、ガイドの人に連れていってもらいました。
コヒマは、第二次大戦時のイギリスの補給ポイントで、日本軍が占領した一番奥地です。
今も当時も状況は変わりませんが、崖から車がしばしば転落するようなとんでもないところでした。
人が歩くような舗装された道はありません。昼間でも真っ暗な鬱蒼としたジャングルで、赤土がむき出しになっており、常に霧状の雨が降っていました。水分が土に溜まっていて、ボンとはじけるように土砂崩落も起こる。
そうした環境の蛇のようにグネグネした山道が、コヒマまで続きます。私とガイドさんと運転手の3人で進みましたが、到達まで車でも5時間ぐらいかかりました。
──インパール作戦の終盤、日本兵や女性たちが手榴弾で自決していったことについて書かれています。
マラリアやイギリス軍の追撃よりも辛かったこと
古谷:生き残った連隊の方々が戦後に回顧録に書いていますが、行きはかろうじて20日分ぐらい食料があったそうです。そこから先は現地で食料を奪ってなんとかしのげということだったようです。
ただ、マラリアが蔓延しており、かかると41度ぐらいの熱が出る。そうなると、平熱になったり熱が出たりを繰り返すうえに、帰りの食料はありません。さらに、イギリス軍から追いかけられながらの撤退ですから3重苦です。
何よりも辛かったのは、過酷な山道を歩くことで靴がボロボロになったことそうです。弱った体で、あんな岩だらけ、砂利だらけのところを歩けません。それがとにかく辛かったということが複数の回顧録に記されていました。
あまりにも苦痛なので、撤退線の脇にそれて、持っている手りゅう弾を自分で抜いて自決する人が続出しました。
最初は爆発音がすると敵の攻撃かと皆身構えたそうですが、1時間や2時間に1回ぐらいのペースで何度もあるので、やがて仲間の自決だと気づくのです。赤十字の看護師の女性たちも同行していましたが、やはり耐えられず、3、4人で一緒に自決したそうです。
──アメリカ自治領のサイパンも訪問されていますね。
古谷:私が学生だった頃は、サイパンには2万9800円で行けました。円高でしたしね。つい10年ぐらい前にサイパン航路はプツンとなくなりましたが、現在は少しあるようです。
第一次大戦当時はサイパン、トラック、パラオなどはドイツ領でしたが、第一次大戦でドイツが敗北し、戦勝国の日本が国際連盟の常任理事国になったため、こうした地域は日本の信託統治領に置かれ、「日本領南洋群島」と呼ばれました。
日本領南洋群の最大の軍事拠点はトラックで、ここに日本海軍の大きな基地がありました。
サイパン自体はとても栄えていたわけではなく、住民も2万人ほどしかいなかったので、開戦当初は大きな戦略目標ではありませんでした。ただ、サイパンやテニアンに航空基地を作られると、東京、名古屋、大阪などの工業地帯がB29による爆撃の射程圏内になってしまうため、1944年に入ってから、日米双方にとってサイパンが戦略的に重要な位置にあると認識されるようになりました。
その後、かの有名なマリアナ沖海戦が起き、そこで日本軍がボロ負けして、いよいよサイパン島にアメリカ軍が上陸してくるタイミングが1944年の7月です。日本海軍の南雲忠一中将の率いた2万人から3万人の日本海軍がサイパンで玉砕し、地元住民もおよそ1万人が戦死するという悲惨な戦いが1944年の夏にかけて続きました。
これは政治的にも衝撃的で、サイパン島を守り切れなかったという理由で東条英機は総辞職して、小磯國昭が組閣したほどです。
日本がフィリピンで繰り広げた過酷な圧政
──サイパンにある「バンザイクリフ」と呼ばれる岬について書かれています。
古谷:バンザイクリフはサイパン島の最も北に位置する岬です。アメリカ軍は、サイパン島のもう少し南の辺りから上陸を始め、北に日本軍や民間人を追い詰めました。
最後の突端にあるバンザイクリフという岬は断崖絶壁で、間違って落ちたら絶対に助からないすさまじい高さです。「捕虜になるぐらいなら」と、そこから身を投げて自決した日本の将兵が数多くいたことが米軍側の記録に残っています。
──フィリピンについても書かれています。太平洋戦争で、日本はいかにフィリピンを傷つけたのでしょうか?
古谷:戦前のフィリピンはアメリカの保護国で、アメリカの庇護のもとに一定の生活水準を保っていました。
ところが、太平洋戦争が始まると、日本軍が南方の資源を占領するために東南アジア進出を開始します。インドネシアの石油、ボーキサイト、ゴムなどの戦略物資がターゲットでした。フィリピンは日本とインドネシアの中間地点なので、合わせて占領しないと資源を日本へと輸送できない。そこで、日本は最初からフィリピンを取ることを計画していました。
フィリピンはアメリカの庇護にありましたから、在比米軍(フィリピン基地の米軍)とフィリピン軍が日本軍と戦いました。すさまじい攻撃で日本軍はこの地を落とし、フィリピンはおよそ3年間占領状態に置かれました。
この間、日本はフィリピンに対して過酷な軍政を行い、コメの作付けの強制転換、軍票を使った商品の奪取などによって、フィリピン経済は壊滅的な状況に陥りました。
餓死者も出ましたし、日本の憲兵による暴行、スパイ容疑での処刑などもありました。フィリピンはその反動で、東南アジアで最も抗日ゲリラが盛んな地域になりました。
抗日ゲリラは日本軍に直接、武装蜂起をしたり、フィリピンからオーストラリアに逃れたマッカーサーに日本の陣地の配置、弱点、武器や兵隊の配置などの情報を渡したりして、アメリカが日本軍を打倒するチャンスをうかがっていました。
そして、1944年の終わりに、マッカーサーのレイテ上陸とフィリピン奪還作戦があり、そうした激しい戦いが1945年の沖縄陥落あたりまで続きました。その間の日本兵の戦死者の数は約50万人、米兵の戦死者数は数万人、巻き込まれて亡くなったフィリピンの戦死者の数は100万人とも150万人とも言われています。
戦後の日本とフィリピンをつないだ民間交流
──フィリピン内の資料館や美術館を訪問し、そこにある太平洋戦争に関するさまざまな記録品や美術作品について書かれています。
古谷:日本がマニラを占領したときや、アメリカが奪還しようとして、マニラで大市街戦になり、市民が10万人ほど亡くなりました。マニラ中心部にあるフィリピン国立博物館には、1階の入ってすぐのところにその時の様子を描いた絵が展示されています。
展示品の中で、私が特に記憶に残っているのは、黒い髑髏(どくろ)のレリーフです。説明書を読むと『バターン死の行進』と書かれていました。
マニラ北西部にあるバターン半島に、コレヒドール要塞に付属した米軍の陣地がありました。日本がフィリピンを占領しようとしたときに、マッカーサーを含めた10万人ほどがそこに立てこもりました。
半年ほど戦って最終的に降伏するのですが、捕虜になった米比軍の兵隊たちは、大した手当もされず、真夏に遠くにある捕虜収容所に向けて、数百キロも歩かされました。脱落すると鞭で叩かれたそうです。
数千人から1万数千人がこの行進の途中で亡くなったと記録されています。フィリピンではバターン死の行進と言えば、真っ先に日本がやった悪行が思い出される。それを形にするとあのおどろおどろしい髑髏になるのだと思います。
──それでもフィリピンでは、日本への怨嗟が表面化しづらいと書かれています。
古谷:確かに、フィリピン側の被害や死者数はすさまじい数ですが、最終的に、在比米軍とフィリピン軍が「自分たちの力で侵略者である日本軍をやっつけた」という意識があるからだと思います。
対して、中国の場合は中国が戦って勝ったのではなく、日本軍が武装解除して降伏したのです。この違いは重要です。
さらに、戦後の日本とフィリピンの間には民間交流がありました。
戦争が終わった直後のフィリピンは世界で最も反日感情が盛り上がった国で、日本人はマニラでは外を歩けないと言われるほどの状況でした。戦中に日本の憲兵から暴力を振るわれて障害を負った人もいましたから、「憲兵」という言葉が悪口でした。
ただ、日本人もフィリピンで約50万人が亡くなっていますから、遺族が遺骨収集団となって日本からフィリピンを続々と訪れました。フィリピン側の反応は「侵略者の家族が来た」「許せない」という感覚だったそうですが、フィリピンには大家族的な側面があり、肉親を思う遺族団の気持ちが伝わり、両者の交流が少しずつ進んだのです。
当時はまだGPSはありませんから「自分の夫がここで死んだ」と地図を指して説明されても、現地の人の地理感覚がなければ、その場所まで辿り着けません。ですから絶対に交流が必要になる。そのような形で草の根の交流が広がったということが、非常に大きかったと聞いています。
そして戦後の復興後は、フィリピンの方々が日本に出稼ぎに来て、そこで次の世代にも日本を好きになる気持ちが継承されました。
さらに、これもとても重要な点ですが、フィリピンはカトリックの教えが強く根付いている国です。普通は、人から何か嫌なことをされたら、相手がちゃんと謝罪や賠償をしたら許そうかどうか考えるものですが、カトリックにおける許しの概念は違います。被害を受けた者が先に許しを出すのです。
すべての罪人を許した上で、悔い改めのほうへと導く。カトリックの非常に寛容な考え方が、日本とフィリピンの関係を形作っていると思います。
古谷 経衡(ふるや・つねひら) 文筆家 一九八二年北海道札幌市生まれ。立命館大学文学部史学科(日本史学)卒。一般社団法人日本ペンクラブ正会員。一般社団法人令和政治社会問題研究所所長。時事問題、政治、ネット右翼、アニメなど多岐にわたる評論活動を行う。テレビコメンテーターのほか、ラジオМCとしてもメディア出演多数。『敗軍の名将』(幻冬舎新書)、『シニア右翼』(中公新書ラクレ)、『毒親と絶縁する』(集英社新書)、長編小説『愛国商売』(小学館文庫)、『日本人の7割が知らない世界のミカタ』(佐藤優氏との共著、時事通信社)など著書多数。
長野光(ながの・ひかる) ビデオジャーナリスト 高校卒業後に渡米、米ラトガーズ大学卒業(専攻は美術)。芸術家のアシスタント、テレビ番組制作会社、日経BPニューヨーク支局記者、市場調査会社などを経て独立。JBpressの動画シリーズ「Straight Talk」リポーター。YouTubeチャンネル「著者が語る」を運営し、本の著者にインタビューしている。