【太平洋戦争】1945年8月21日、終戦後に東京湾に消えた一人の零戦搭乗員がいた…厚木で起きた「徹底抗戦派」の叛乱

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

だが、陸海軍の全ての部隊が降伏に納得し、ただちに矛をおさめたわけではない。なかでも、神奈川県厚木基地に拠点を置く第三〇二海軍航空隊(三〇二空)は、司令・小園安名大佐のもと徹底抗戦を呼号、海軍上層部に叛旗を翻す。折しも連合軍は、最初の進出地として厚木基地を指定してきた。万が一、三〇二空が基地を占拠し、進駐のため飛来する連合軍機を撃墜するような事態が起きれば、講和は無に帰してしまう。三〇二空によるクーデターと、連合軍の無血進駐のために奔走した男たち。それぞれが信じた「正義」の行方は。そして8月21日、東京湾に謎の自爆を遂げた零戦搭乗員がいた――。

ポツダム宣言受諾までの道のり

昭和20(1945)年7月26日、アメリカ、イギリス、中華民国の首脳が日本に向け、無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」を発した。米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29や米英軍機動部隊の艦上機の空襲で主要都市や軍事施設の多くが灰燼に帰し、小笠原諸島の硫黄島、続いて沖縄も陥落、日本の敗戦はもはや秒読みとなっている。

日本政府は、日ソ不可侵条約を結ぶソ連の仲介による和平に一縷の望みを託し、またポツダム宣言が日本の国体、すなわち天皇の地位について不確定な内容であったため、一旦は黙殺を決めた。

ところが、米軍のB-29が8月6日、広島に、8月9日、長崎に原子爆弾を投下。9日にはソ連が不可侵条約を一方的に破棄して満州国に侵攻、対日戦に加わり、ポツダム宣言にも名をつらねる事態になると、もはや日本には、本土に敵大兵力を迎えての本土決戦か、ポツダム宣言を受諾しての降伏かのいずれかの道しか残されていなかった。

8月9日、ポツダム宣言を受諾するか否かを決める御前会議に先立って行われた最高戦争指導会議では、和平派の鈴木貫太郎首相、米内光政海軍大臣、東郷茂徳外務大臣と、なおも強硬論を唱える豊田副武海軍軍令部総長、梅津美治郎陸軍参謀総長、阿南惟幾陸軍大臣の意見がちょうど3対3に分かれた。その日深夜から翌10日未明にかけて開かれた御前会議では、「強硬派」3人と、東郷外相、米内海相、そしてこの会議に列席した平沼騏一郎枢密院議長の「和平派」3人の意見が一致せず、司会にまわった鈴木首相が、天皇の決裁を仰いだ。

そこでポツダム宣言受諾の聖断がくだり、日本から連合国に、天皇の大権を変更する要求が含まれていないとの了解のもとで受諾を申し入れる。連合国側の回答を受け、8月13日に行われた最高戦争指導会議でも、連合国に「国体(天皇を中心とする国家体制)護持」についてさらに説明を求め、保証を得よと主張する「強硬派」3人と、条件をつけることは外交上不利と考える鈴木、東郷、米内の「和平派」3人の意見が平行線をたどった。

8月14日、全閣僚と平沼枢密院議長、最高戦争指導会議の構成員が招集された御前会議で、なおも豊田軍令部総長、梅津参謀総長、阿南陸相は宣言内容について連合国への再照会を求めたが、ほかに意見を述べる者はおらず、鈴木首相は天皇に決裁を仰いだ。天皇は、

「私は世界の現状と国内の事情とを検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと思う」「このさい、先方の申し入れをそのまま受諾してよろしいと考える」

との最終的な判断を示され、

「自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい」

「日本が全く無になるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、また復興という光明も考えられる」

と、白手袋で何度も涙をぬぐわれた。ここでついに、天皇自らの意思でポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔書が発せられたのである。

終戦してもなお続く戦争状態

8月14日の深夜、国民に戦争の終結を告げる「玉音放送」の録音が宮中で行われた。この録音盤を奪取しようと、抗戦派の一部陸軍将校が叛乱を起こした。叛乱将校は近衛師団長・森赳中将に決起の要求を突きつけ、

「近衛師団は私兵ではない。さがれ」

と拒否されると森中将を射殺し、偽命令を発して6時間にわたって宮城(皇居)を占拠したが、15日午前までに陸軍東部軍司令官・田中静壱大将の手で鎮圧された。叛乱の首謀者、陸軍省軍務局の椎崎二郎中佐、畑中健二少佐、近衛第一師団参謀・古賀秀正少佐(東條元首相の女婿)、航空士官学校の上原重太郎大尉ら4名の将校は自決した。阿南陸軍大臣も、明け方、三宅坂の陸軍大臣官邸で、

〈一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル〉

との遺書を残して自刃した。

ポツダム宣言受諾までの道のり, 終戦してもなお続く戦争状態, 「特攻」ではなく「生きて戦う」ことを第一に, 「徹底抗戦」の意も空しく, 大西中将が死に際に託した「一言」, 抗戦断念に舵を切るも…, 「空を飛んだら、もう命は惜しくない」, 三〇二空叛乱事件の収束, 厚木飛行場に残された機の片付け, 土をかぶされ“消えた”厚木基地の飛行機

厚木基地の第三〇二海軍航空隊。局地戦闘機雷電と隊員たち

戦争終結は決まっても、戦争状態はまだ終わっていない。8月15日午前5時30分、房総沖の敵機動部隊から発進した艦上機176機が、2波に分かれ、ダメ押しをするかのように関東上空に来襲した。早朝の東京湾は濃い霧に覆われていた。茂原基地を発進した日高盛康少佐率いる二五二空戦闘三〇四飛行隊の零戦15機、厚木基地を発進した森岡寛大尉率いる三〇二空の零戦8機、雷電4機がこれを邀撃、二五二空が英海軍のシーファイア(スピットファイアの艦上機型)1機、フェアリー・ファイアフライ複座戦闘機1機、TBFアベンジャー攻撃機1機、三〇二空が米軍のグラマンF6F 4機を撃墜した。この空戦で二五二空は零戦7機を失い、5名が戦死。三〇二空は零戦1機、雷電2機を失い、搭乗員3名が戦死している。

8月15日正午、天皇が国民にラジオを通じて終戦を告げた。「玉音放送」である。

「特攻」ではなく「生きて戦う」ことを第一に

それに先だって、8月11日、日本がポツダム宣言受諾を申し入れたことを報じる連合国側の無電を傍受し、終戦の気配を察知していた厚木基地の第三〇二海軍航空隊(三〇二空)司令・小園安名大佐は、「必勝の信念無きところ、国体の護持はあり得ない」として、近隣の各部隊に、徹底抗戦への同調を求める連絡に奔走していた。

小園大佐は、明治35(1902)年11月1日生まれでこのとき42歳。大正15(1926)年に飛行学生を卒業した生粋の戦闘機パイロットである。昭和16(1941)年、台湾に本拠を置く零戦の精鋭部隊・台南海軍航空隊副長兼飛行長として日米開戦を迎え、フィリピンの米軍航空基地空襲を皮切りに、日本軍の緒戦の快進撃を支えた。

台南空はその後、東南アジアを経て南太平洋の要衝・ニューブリテン島ラバウルに進出、ニューギニアの連合軍拠点・ポートモレスビーや、米軍が反攻上陸してきたソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる攻防戦に参加。相次ぐ激戦に戦力を失い、昭和17(1942)年11月、他部隊と交代で内地に引き揚げる。そして、第二五一海軍航空隊と名を変え、こんどは小園が司令となって、昭和18(1943)年5月、ふたたびラバウルに進出した。小園はここで、敵の大型爆撃機を撃墜するための新兵器として自ら考案した「斜銃」(通常、機体の軸線方向に装備される戦闘機の機銃を斜めに取り付け、防備の薄い敵機の腹の下から撃ち上げる)を装備した夜間戦闘機月光を初めて実戦に投入、日本軍基地へ夜間、空襲に飛来する米軍の大型爆撃機・B-17を次々と撃墜、その威力を実証している。

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生粋の戦闘機乗りだった小園安名(昭和2年、中尉時代)

小園が横須賀鎮守府管区の帝都防空部隊・三〇二空司令になったのは、昭和19(1944)年3月1日。横須賀基地で編成された三〇二空は、やがて本拠地を厚木基地に移し、零戦、局地戦闘機雷電、夜間戦闘機月光、さらに斜銃を装備し夜間戦闘機に仕立てた艦上爆撃機彗星、陸上爆撃機銀河、艦上偵察機彩雲などを装備する大部隊となった。やがて米軍による日本本土空襲が始まると、その邀撃戦に明け暮れた。

小園は、闘志あふれる熱血漢でありながら、鼻の下にちょび髭をたくわえた風貌はどこか愛嬌があり、情が深く、多くの部下から父のように慕われていた。あくまで生きて戦うことを第一とし、搭乗員もろとも敵艦に体当りする「特攻」には反対の立場だった。また、偵察機に「三号爆弾」(空対空爆弾)を積ませて敵爆撃機を撃墜したり、斜銃を考案、戦果を挙げるなど、独創性と作戦指揮能力にも秀でている。官僚的なエリート軍人とは対極の「実戦派」の軍人として、有能な指揮官だったことは間違いない。

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昭和17年、台南空の集合写真(部分)。前列左から、司令・齋藤正久大佐、副長兼飛行長・小園安名中佐、分隊長・河合四郎大尉

ただ小園は、「天皇に降伏はない」との、やや神がかり的とも言うべき、強すぎる信念をもっていた。政府や陸海軍上層部が、戦場で戦う将兵に最後の勝利を信じさせ、大勢の若者を死地に追いやってきたいっぽうで、ひそかに敵国と和議の交渉を進めていたことにも、強い憤りを感じている。ポツダム宣言を受諾し、降伏することは、日本の国土と、日本人の魂を、敵に明け渡すのに等しい。まずはクーデターを起こして海軍上層部を追放、さらには政府を更迭し、「大詔の再降下」(再開戦の命令)を得ることが、日本を守る唯一の道であると考えていたのである。

「徹底抗戦」の意も空しく

玉音放送が終るやいなや、小園大佐は、前日に準備していた檄文を全海軍部隊に向け、優先度のもっとも高い「作戦緊急」として、無線で発信させた。〈赤魔ノ謀略ニ翻弄サレタル重臣閣僚等ハ〉で始まる電文の大意は、

「重臣たちの謀略にしたがって降伏すれば、天皇を滅ぼす大不忠になる。停戦や武装解除を出す司令部には従わなくていい。各部隊の蹶起への同意を求める」

というものである。次に国民向けにも抗戦を呼びかける数種類のビラを大量に用意し、16日から18日にかけ、飛行機を飛ばせて、北は北海道の函館から、南は九州の福岡、長崎までの日本各地に撒く。陸海軍の主要な航空部隊には直接、飛行機を差し向けて、決起への参加を呼びかけた。17日には、日本占領に備え、関東上空の偵察に飛来した米陸軍の四発爆撃機・コンソリデーテッドB-32ドミネーター4機を、三〇二空の零戦12機が邀撃している。

(この時点では「自衛のための戦闘は可」とされていて、翌18日にも2機のB-32を、横須賀海軍航空隊の戦闘機10数機が邀撃した。大本営が、自衛のためをのぞく停戦命令を出したのは8月16日夕刻、支那方面艦隊をのぞく全部隊に戦闘行動を停止する命令を出したのは19日で、その刻限は22日午前0時である)。

――だが、小園の信念とは裏腹に、呼びかけに対する他部隊の反応は、はかばかしいものではなかった。

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厚木基地。三〇二空の夜間戦闘機月光。小園が発案した斜銃を装備し、B-29邀撃に活躍した

長崎県の大村基地に展開していた第三四三海軍航空隊飛行長・志賀淑雄少佐は、厚木から銀河で飛来した使者・浜野喜作大尉を、

「わが隊は行動をともにしない。余計なことをするな、帰れ!」

と一喝したと私に語っているし、京都府の福知山基地にいた筑波海軍航空隊飛行長・進藤三郎少佐も、

「厚木から、降伏の軍使を乗せた飛行機を撃墜しろ、と要請してきましたが、味方機を撃てるか! と断りました」

と、回想している。

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厚木基地の局地戦闘機雷電。大型爆撃機の邀撃を主とする戦闘機で、三〇二空の主力機種のひとつだった。

茨城県の谷田部海軍航空隊の特攻要員だった小野清紀中尉は、

「谷田部にも、三〇二空から予備学生出身の中尉が2~3人来て、徹底抗戦のアジ演説をしました。そのとき、飛行長・下川有恒中佐が、谷田部空の若手士官を全員集めて、思う存分言いたいことを言え、と、三〇二空の使者を囲んでディスカッションをさせたんです」

と言う。この場にいた木名瀬信也大尉によると、三〇二空からの抗戦の使者の一人は、戦後社会党に所属、第二代武蔵野市長となる後藤喜八郎中尉だった。小野は、米国通でのちに女子大の英語教師となる木名瀬が、厚木の使者が叫ぶ抗戦の主張を、完膚なきまでに論破したことが印象に残っているという。後藤中尉はこの物語の後半にも登場する。

大西中将が死に際に託した「一言」

海軍中枢も、早々に小園の説得に乗り出した。横須賀鎮守府司令長官・戸塚道太郎中将が戦後、回想したところによると、8月15日午後、軍令部次長・大西瀧治郎中将から、

「海軍はご聖断に従う。横須賀鎮守府は三〇二空の動きに同調しないよう。ただし武力鎮圧は避けてほしい」

との要請があったという。地上兵力をもたない三〇二空がいかに騒ごうが、飛行機だけで東京を占拠し、クーデターを成就させることはできない。横須賀鎮守府麾下の陸上部隊さえ抑えておけば、大事にはなるまい、と大西は考えたのだ。「特攻生みの親」とも称される大西は、激越な徹底抗戦論を主張したことでも知られる。だが、大西が最後まで強硬姿勢を崩さなかったのは、つねに戦う気構えをアピールすることで、連合軍に日本本土上陸を思いとどまらせ、敵国から講和を引き出すためだった(このことは、軍令部総長だった豊田副武大将が戦後、戦犯容疑で丸ノ内の法廷で裁かれた裁判で証言している。豊田は約300回もの公判ののち、無罪)。

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厚木基地から離陸する局地戦闘機雷電

大西は8月16日未明、戦死した特攻隊員への謝罪とともに、若い世代に後事を託し、世界平和を願う遺書を遺して自刃した。なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断り、半日以上も自らの血の海で悶えた末の最期だった。自刃の一報を受けて駆けつけた児玉誉士夫(海軍のために軍需物資を調達する「児玉機関」を率い、大西とは昵懇の仲だった)に、大西は、

「貴様に頼みたいことがある。厚木を抑えてくれ。小園大佐に軽挙は慎めと、大西がそう言っていたと伝えてくれ」

と、絶命前の苦しい息の下で託したという。大西にとって最後に気がかりだったのが、海軍航空隊で信頼していた戦闘機乗りの後輩・小園大佐が率いる厚木の叛乱だったのだ。

抗戦断念に舵を切るも…

16日午前、海軍総隊参謀長・菊池朝三少将が厚木基地を訪ねたのを皮切りに、第三航空艦隊司令長官・寺岡謹平中将も、斬られるのを覚悟で厚木に乗り込んだが、小園にとっては、彼ら将官こそが日本を敗戦に導いた元凶だから、会談は物別れに終わった。午後4時、海軍は小園を解職し、三〇二空の上部組織である第七十一航空戦隊司令官・山本栄大佐が三〇二空司令を兼任する人事を発令した。

小園に異変が見られたのは16日夜のことである。士官室で今後の作戦を練っていた小園は突然、高熱を発し、正常な意識を喪失して惑乱した。これはかつて、ラバウルで戦っていた頃に罹患したマラリアの再発の症状だったと言われる。小園はしばしば、この再発に悩まされていた。いったんは正気に戻ったが、17日午後になってまた、小園は高熱を発し、錯乱状態になった。以後、小園が正常な姿で部下の前に現れることはなく、クーデターはその意志を受け継いだ若手士官の手に委ねられた。徹底抗戦を呼びかけるビラ撒きは18日にも続けられ、基地には普段どおり、飛行機の爆音が鳴り響いていた。

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終戦直後、三〇二空が一般国民に向け、飛行機から撒いたビラ。元隊員が保管していたもの。このほかにも数種類のビラがつくられた

19日、新司令・山本栄大佐が厚木基地に着任するが、小園に心酔する隊員たちは山本に従おうとしない。だがこの頃より、副長・菅原英雄中佐、飛行長・山田九七郎少佐ら主要幹部の間には、現実的な判断として、降伏やむなしの空気が広がっていった。さらに20日、菅原副長と整備主任・吉野實少佐が霞が関の軍令部に呼ばれ、天皇の弟宮である高松海軍大佐宮から直接、「ポツダム宣言受諾は陛下の大御心によるもの」であることを告げられ、説得を受けたことで、三〇二空は抗戦断念に大きく舵を切る。21日朝、軍医の判断で小園大佐は三浦半島の野比海軍病院に移送され、強制入院させられることとなった。

ところが――。

小園が自動車で連れ去られ、飛行場に並ぶ飛行機の武装解除が始まろうとしたまさにそのとき、実戦配備された士官のなかではもっとも若い、海軍兵学校七十三期、そして学窓から海軍に身を投じた予備学生出身の若い中尉、少尉を中心に、数十名の搭乗員、整備員が、零戦21機、彗星6機、彩雲3機、九九艦爆1機、九〇機練2機、銀河1機に分乗し、次々と厚木基地を離陸していった。彼らが向かった先は、いずれも埼玉県下の陸軍基地で、狭山飛行場(第三十九教育飛行隊)と児玉飛行場(飛行第九十八戦隊)。この両飛行場が選ばれたのは、厚木基地を訪れた抗戦派の陸軍少尉2名の手引きによるものとされる。脱出したのは、トラックで陸路、移動した整備員もふくめ、狭山に士官10名と下士官兵15名、児玉に士官17名と下士官兵44名だった。厚木がダメなら、抗戦派の陸軍部隊に合流し、なおも戦い続けようと考えたのだ。

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三〇二空司令の頃の小園安名大佐。横須賀鎮守府参謀を兼務していたため、参謀飾緒をつけている。胸には功四級金鵄勲章

離陸後、1機の零戦が右に旋回し、東京方面に消えた。海軍飛行専修予備学生十三期出身の改田義徳中尉機である。改田機は東京湾に自ら突入した。

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昭和20年8月21日、零戦を操縦し東京湾に自爆した改田義徳中尉

この改田中尉の自爆は、昭和49(1974)年の東映映画「あゝ決戦航空隊」にも描かれている。映画が描いたところによると、渡瀬恒彦演じる改田中尉には壇ふみ演じる婚約者がいた。彼女が面会にきたところで同期生たちがガンルーム(若手少尉、中尉が入る公室)に仮祝言の席をセットし、「戦闘機乗りはいつ死ぬかわからない。20歳の後家を作るわけにはいかないから結婚はせん」と拒む改田をなだめすかし、結婚式を挙げさせる。

「空を飛んだら、もう命は惜しくない」

――今年になって私は、改田中尉のご遺族・藤田耕介氏と会い、遺品を見せていただくとともに、さまざまなエピソードを聞くことができた。

改田中尉は大正7(1918)年10月14日、6人きょうだいの4男として生まれた。本籍地は高知県だが、日本郵船で海外航路の客船の機関長などを務めた父の仕事の関係で東京都北豊島群南千住町、次いで横浜市菊名町に育つ。一浪して神奈川県師範学校を卒業、徴兵検査を受け高知の連隊に召集される。中支(中国)戦線に出征、北支に転戦するも昭和15(1940)年、負傷して帰国した。改田家のアルバムには「改田上等兵ら 白衣の勇士歸還 直に高知〇〇病院へ」との当時の新聞記事の切り抜きが貼られている。

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改田海軍中尉は陸軍で実戦を経験、負傷した経歴を持っていた。昭和15年、高知の病院で(左)。入院服の左胸に陸軍上等兵の階級章がついている

その後、藤田氏によれば伍長で陸軍を除隊した改田は、逓信省高等無線講習所(現・東京電機大学)に入学し、昭和18(1943)年9月、第十三期海軍飛行専修予備学生を志願、戦闘機乗りとなる。陸軍で実戦経験があり、なおかつ海軍飛行専修予備学生を志願するというユニークな経歴だった。当時満25歳になる直前で、予備学生志願者の年齢制限28歳にはまだ少し余裕があったが、陸軍で回り道したぶん、大正10年前後の生まれが多かった一般的な同期生よりも年長である。

昭和19(1944)年5月31日、海軍少尉に任官すると第三〇二海軍航空隊に配属される。同年11月、内地と台湾、朝鮮半島の航空隊の搭乗員を対象に特攻志願が募られたが、三〇二空が11月25日付で海軍省人事局宛に提出した書類を見ると改田は「熱望」としている。家族構成は「父母、兄二、妹一」、「人物総評」には「明朗ナリ」とある。

改田中尉と無二の親友だったのが、のちの武蔵野市長・後藤喜八郎中尉(前出)である。後藤中尉も特攻を「熱望」として志願していた。藤田氏が平成5(1993)年、改田中尉の五十回忌の席で後藤氏に聞いたところによると、映画で描かれたように、同期生たちが計って改田中尉に仮祝言を挙げさせたのは事実だという。

「婚約者がいたのに、なぜうちの叔父貴は死んじゃったんですか?」

と聞く藤田氏に後藤氏は、

「あの時代は空を飛んだら、もう命が惜しいとか、そんなことは考えなかったからなぁ……」

と答えた。

三〇二空叛乱事件の収束

8月21日、混乱する厚木基地を離陸し、編隊から単機離れた改田機は、菊名の実家上空を低空で3度旋回した。家にいた家族には「義徳の飛行機だ」とわかったという。そしてさらに東に向かい、皇居の周囲を旋回して、東京湾に突入した。敗戦に対する慚愧の念か、前途に望みを失ったためか、戦死した多くの仲間の後を追ったのか……改田中尉の心の内は、いまとなっては確かめるすべがない。

部下たちの脱出行を止められなかった飛行長・山田少佐も、24日、妻とともに服毒して自決した。

厚木基地から脱出した隊員たちのうち、狭山飛行場に着陸した者たちは、陸軍部隊の協力が得られなかったこともあり、説得に応じて22日、厚木に帰った。児玉飛行場組は、なおも抗戦の姿勢を崩さなかったが、23日、厚木から飛来した恭順派の手で全機のタイヤがパンクさせられたことで、戦力を失った。25日、脱出組のリーダーだった岩戸良治中尉が海軍省法務局に出頭し、隊員たちを東京・芝の白金国民学校に移すことを同意。26日、隊員たちは海軍省差し回しのバス2台に分乗し、白金に着くとそのまま東京警備隊に拘束された。三〇二空の叛乱事件は、ひとまずこれで収束したことになる。

ポツダム宣言受諾までの道のり, 終戦してもなお続く戦争状態, 「特攻」ではなく「生きて戦う」ことを第一に, 「徹底抗戦」の意も空しく, 大西中将が死に際に託した「一言」, 抗戦断念に舵を切るも…, 「空を飛んだら、もう命は惜しくない」, 三〇二空叛乱事件の収束, 厚木飛行場に残された機の片付け, 土をかぶされ“消えた”厚木基地の飛行機

雷電の操縦席に座る改田義徳中尉

だが、厚木の騒動は、このあと別の展開を見せた。19日、フィリピンに飛んだ河辺虎四郎陸軍中将を全権とする使節団に対し、米軍が、8月26日に厚木基地に進駐すると通告してきたからだ。日本政府は急遽、有末精三陸軍中将を委員長とする「厚木終戦連絡委員会」をつくり、厚木基地に派遣した。だが、厚木基地にはなおも多くの飛行機が残り、滑走路にも残骸が放置され、このままだと米軍機が安全に着陸することもおぼつかない。広大な基地には地下壕が張り巡らされていて、雑木林もあり、そのどこかに抗戦派が潜んでいるかもしれない。もし、抗戦派の残党が米軍に発砲でもしたら、平和進駐は壊れてたちまち武力進駐となり、湘南海岸が空襲や艦砲射撃で制圧され、最悪の場合、講和が無に帰することも考えられた。

そんななか、厚木基地で米軍機を迎え入れる準備を任されたのは、海軍機関学校出身で、航空機整備のエキスパートだった佐藤六郎大佐である。佐藤は、三〇二空と同じく厚木基地に本部を置く第一相模野海軍航空隊(整備員の養成部隊)で副長を務めたことがあり、基地内のことは熟知している。しかも、小園大佐とは旧知で、親友とも呼べる仲だった。

海軍航空本部の監督官として中島飛行機大宮工場にいた佐藤に、厚木基地への派遣が発令されたのは8月24日。海軍省に自動車の空きがなく、工場疎開の機械運搬などで業務を委託していた「大安組」社長・安藤明の車を借りて厚木に向かった佐藤は、厚木基地南西の雑木林に、三〇二空抗戦派の残党らしい大勢の航空隊員が、日本刀と小銃、機銃まで持ち、篝火(かがりび)を囲んでいるのを見た。その数、約200名。士官の姿は見えず、下士官兵だけのようだった。

厚木飛行場に残された機の片付け

飛行場には、残骸もあわせて200機を超える飛行機があるという。これを翌25日中に片づけ、安全に着陸できるようにしなくてはならない。しかし、基地の隊員のうち、抗戦に与しなかった者はすでに復員が始まっていて、いま基地に残っている者は、そもそも危なくて使えない。佐藤は、ここは安藤の力を借りるしかないと考えた。

安藤は明治34(1901)年、東京生まれで当時44歳。23歳で運送業を始め、朝鮮、満洲にも進出。35歳で土建会社「大安組」を設立、軍需品輸送や飛行場建設を手がけ、一代で財を成した。学歴は小学校中退だが才覚でのし上がり、軍の仕事で急成長したのだ。児玉誉士夫などと同じく、裏社会にも通じる人物だが、終戦の混乱のなか、一声で数百人の作業員を集められる「親分」はそうはいない。ただし、これは命がけの作業である。武装した隊員が付近の雑木林に潜んでいるのを見ても、発砲される可能性は十分に予測された。

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戦後、厚木基地に残された飛行機の残骸。手前に零戦、次に「雷電」、奥には「月光」などが見える。「ヨD」は、三〇二空の部隊記号。進駐してきた米軍が撮影したカラー写真

「いま見た厚木飛行場の飛行機を片づける作業をやりませんか」

佐藤の依頼に、安藤が提示した謝礼は500万円(日本銀行の企業物価指数をもとに現代の貨幣価値に換算すると約100億円)。作業員200人、そのうち死者10人、負傷者50人が出ると予測して、これらの手当と諸費用に充てるという。佐藤はこれを受け、現金を渡したときが契約成立、ただちに作業にかかるという約束を安藤とかわした。

佐藤大佐は、25日、海軍省に赴き、安藤に支払う500万円の支出を談判するが、海軍省軍務局は、「金を渡して逃げられたらどうする」と言って、首を縦に振らない。厚木基地の後始末の重要性を誰よりも知る米内光政海軍大臣は了承したが、閣議のため外出してしまい、あとを任された主計大佐が、詳細な見積書もなく現金は渡せないと言う。いま、そんなことをしている時間はない。佐藤は手ぶらで厚木基地に戻るしかなかった。

すでに夕闇が迫っていた。作業に使える時間は今晩だけである。厚木基地の格納庫内には、大安組の作業員250人が待機し、安藤はその前で、幹部数名と焚火を囲んでいた。佐藤は安藤に、

「安藤さん、すまない。今日は残念ながら約束の金をもらえなかった。これは弁解ではない。もし大安組がこの仕事をやってくれたら、私と契約したことになり、私が支払いの義務を負う。やらなければ、契約はしなかったことになります。そして、明日の米軍進駐に間に合わなければ、私が責任をとります」

と言った。安藤は、幹部の子分たちと二言、三言相談すると、佐藤に、

「佐藤大佐を信用する。払うなら500万円、耳を揃えて払ってもらいたい。しかし、見積がないとかなんとか言うのならタダでやる」

そして、

「作業を始める前に見せたいものがある」

と言い、赤茶色の大きな革のトランクを車から出して佐藤に見せた。なかには札束がぎっしりと詰まっている。200万円、大安組の全財産だと言う。安藤は、こうなることを見越して、自ら現金を用意していたのだ。

「この金で、小園部隊を買収できないか」

とも、安藤は言った。佐藤は、

「それはできません。日本海軍の最強部隊ですよ」

と答えた。

土をかぶされ“消えた”厚木基地の飛行機

いよいよ飛行機の撤去作業が始まる。機体の捨て場は厚木基地南端の谷間とし、離着陸に支障のない場所に放置されている機体には手をつけない。ガソリンに引火する可能性があるので煙草は絶対に吸わないことと、機銃、爆弾には手を触れぬよう、作業員に注意した。作業を始めると、予想通り、雑木林の方角から銃弾が飛んでくる。そのために負傷者も出た。だが、射撃はだんだん散発的になり、作業も順調に進んで、26日早朝には滑走路はきれいに片づけられた。

作業が終わると、佐藤は安藤を伴い、拳銃を持って、残党が潜んでいた雑木林に行ってみた。おとなしく投降する者には、安藤が持っている200万円のなかから現金を与え、郷里に帰らせようと考えたが一人も出てこなかった。佐藤は手帳に、〈大安組の安藤明社長に金500万円を支払う様御配慮下され度〉と海軍省軍務局第二課長宛にしたため、その頁を破いて安藤に手渡した。安藤は、

「お別れだ。おぬし、死ぬんじゃないぞ。これからだ」

と言って、佐藤の手を握った。

米軍の先遣部隊は、25日、四国に上陸した台風のため、予定より2日遅れで8月28日午前8時28分、15機の輸送機に分乗して厚木に飛来した。連合国軍最高司令官に任命されたダグラス・マッカーサーが、輸送機バターン号で厚木に降り立ったのは、8月30日午後2時5分のことである。

三〇二空の叛乱に加わり、厚木基地を脱出した隊員たちのうち、児玉組は、8月27日に軍法会議(軍の裁判)の予審訊問がはじまり、9月1日、巣鴨拘置所に身柄を移される。10月10日から12日までに開かれた横須賀鎮守府臨時軍法会議で、リーダーの岩戸中尉には禁錮8年、ほか16名の士官は禁錮5年、下士官兵には執行猶予付きで禁錮1年の判決が下された。罪名は「党与抗命罪」である。さらに士官は全員、官位を剥奪され、下士官兵は3階級降等(上飛曹→飛行兵長)となった。狭山組は、当初、不問にふされたものの、やがて次々に出頭要請が発せられ、出頭に応じた8名の士官が、11月8日の軍法会議で禁錮4年の判決を受けた。

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昭和20年8月30日、厚木基地に降り立つマッカーサー元帥

野比海軍病院から横須賀海軍刑務所に身柄を移された小園大佐を裁く軍法会議は、10月15日、16日と行われ、裁判長に任じられた小柳冨次少将は、小園に無期禁錮を言い渡した。11月30日には陸軍省、海軍省ともに消滅するから、まさに駆け込み裁判である。出頭に応じなかった狭山組のなかには軍法会議が開かれず、一切の罪に問われなかった者もいた。公平性とはほど遠い、まさに海軍のメンツを保つための裁判だった。

脱出組の刑は、その後特赦で順次短縮され、昭和21年12月から翌22年1月にかけ、全員が出所するが、小園は横浜刑務所、宮城刑務所、熊本刑務所と身柄を移されながらその後も服役した。無期禁錮が禁錮20年、10年と減刑され、仮出所が許されたのは昭和25(1950)年12月のこと。郷里の鹿児島県に帰った小園は、昭和31(1956)年、脳溢血で倒れ、昭和35(1960)年11月5日、世を去った。享年58。

――現代の視点から、小園大佐が主導した三〇二空の叛乱を責めるのはたやすい。だが、彼らが裁かれるなら、自らは安全地帯にいながら若者たちに「必勝の信念」を説き、降伏を許さず、戦意を駆り立て、死地に送り込んできた為政者や将官たちもまた、責任の一端を負うべきではなかっただろうか。

厚木基地に残された飛行機は、米軍の手によって飛行場内の谷底に落とされ、上から土がかぶせられた。戦後80年が経ったいまも、米軍厚木基地の敷地には、多くの日本海軍機が埋められたままになっているという。

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