人を襲わなかった「知床のヒグマ」が凶暴化した“3つの原因” 専門家が「ついに起きてしまった」と語る予兆とは…
8月14日、北海道・知床半島にある羅臼岳の登山道を下山中だった男性がヒグマに襲われ、15日に遺体が見つかった。200メートルほど後方を歩いていた友人が駆け寄って抵抗したものの、クマは男性を茂みに引きずり込んだという。
知床は世界有数のクマの高密度生息地域として知られ、クマと人との距離も近い。一方で、これまで人が襲われる人身事故はまれだった。死亡事故は1985年にクマ駆除にあたっていたハンターが逆襲されて亡くなって以来40年ぶりで、一般住民や観光客が犠牲になるのは北海道が記録を公表している62年以降初めてのこと。87年から2016年までの約30年は負傷事故すら1件も起きていない。
知床半島のヒグマを研究する北海道大学の下鶴倫人准教授は言う。
「今回の事故の直接的な原因はまだわかりませんが、非常にショックな事故です。ただ、多数の観光客が訪れるエリアで人里にも近い知床半島の状況を考えると、これまで起きなかったことが、ある意味、幸運だったとも言える。ついに起きてしまったか、という感覚です」
知床半島に生息するヒグマは、20年の調査では推定約400~500頭だった。ただ、23年に秋の主要食物資源が不作となった影響で多数のヒグマが人里に近づき、結果として180頭超が駆除された。推定生息数の4割から半数に迫る数字だ。
「23年の大量捕殺をへて、いまは過去20~30年の間で最もクマが少ない状態です。クマをめぐっては事故防止のための頭数管理が各地で計画に組み込まれていますが、個体数管理だけでは必ずしも事故を防げないことを示しています」(下鶴准教授)
これまで、「奇跡的」と言われながらも知床で深刻な事故が起きてこなかった背景には複数の要因がある。
まず、地元の側の対策だ。人が利用するエリアに接近したヒグマに対しての威嚇のほか、危険行動を起こしたクマは人を襲う前にハンターらの手によって捕殺されてきた。クマの生息域と隣接する集落では電気柵を設置したり、ゴミ出しのルールを厳しく定めてクマには開けられない特殊なゴミ置き場を整備したりするなどの対策も行われてきた。観光客に対しては、地元自治体や国立公園管理団体である知床財団が中心になり、ヒグマと適切な距離をとる、エサをやらないなど、さまざまな普及・啓発活動に力を注いできた。
■クマが人を襲うようになった「要因」
もう1点、クマの人に対する「許容度」が高いことも特徴として挙げられる。下鶴准教授はこう指摘する。
「観光客がよく来るエリアで暮らしているクマは人を見慣れています。個体差はありますが、他の地域のクマと比べると、人間と接近・遭遇してもパニックになったり、興奮して襲いかかったりしにくい個体が多いと言えると思います」
一方で、その「人慣れ」が危険行動につながる下地にもなっていた可能性も否めない。
知床を含めた北海道各地ではかつて、春先にハンターが山に分け入って見つけたヒグマを撃つ「春グマ駆除」が行われてきたが、個体数減少や保護意識の高まりから1990年に廃止された。春グマ駆除には個体数を減らすこと以外に、クマに対して人への警戒心を強く植え付ける効果があったという。
春グマ駆除が廃止され、クマの世代も入れ替わって人間への恐怖心を持たなくなったほか、2000年前後から世界自然遺産登録に向けた機運が高まり(実際の登録は05年)、観光客も増加の一途をたどった。それによりクマと人の接近・遭遇事例が増え、クマを見るために一時停止する車が連なる「クマ渋滞」も、シーズン中は連日のように発生している。
下鶴准教授は続ける。
「知床に観光に来た方がクマを見かけて車をいったん止めるのは自然なことだと思います。ただ、クマにしてみると連日それが続き、少しずつ距離感がおかしくなってしまう可能性はあるでしょう。また、中には必要以上に接近したり、クマにえさを与えたりするモラルのない観光客もいて、ずっと問題視されてきました。22年に改正自然公園法が施行されたことで、これらは明確に違法行為になりましたが、なくなっていません」
ヒグマなどの野生動物が人間から与えられた食べ物や、人間が放置した食べ物を食べると、動物は同じ味を求めて再び同じ場所に現れたり、人間に付きまとったり、場合によっては人間を襲うなどの行動をとりやすい。
■車内からスナック菓子を与えるケースも
環境省や道などでつくる「知床世界自然遺産地域科学委員会」のまとめによると、24年シーズンには、知床国立公園を訪れた観光客が意図的にヒグマに近づいた「危険事例」が過去最多の70件に上った。また、知床財団によると、今年7月29日には車内からヒグマにスナック菓子を与えているとの目撃通報があったという。
今回の事故の直接的な要因は明らかになっていないが、道の調査では道幅が狭く見通しの悪いカーブで母グマに遭遇したと見られ、子グマを守ろうとした「防御反応」との指摘もある。また、加害個体は地元では比較的よく知られ、過去に危険行動などは確認されていない個体だと報道されている。ただ、同一個体かはわからないが、羅臼岳では事故の数日前にもヒグマが登山者に付きまとう事例が報告されている。
数十年にわたるクマと人間の接近で、知床半島全体でのリスクが蓄積されている一面はあるだろう。
事故を繰り返さないために、できることはあるのか。
「例えば特定の時期やエリアにおいて自家用車の通行を制限し、バスによる乗り入れに限定するアクセスコントロールや、悪質な危険行為に対して実効力のある取り締まり体制を取ることは必要でしょう。ただし、これらは目新しい対策ではなくて、すでに一部で試行されていたり、法律としてあったが実行力が伴わなかったものです。今回の事故を機に、スピード感を持って取り組んでいく必要があると思います」(下鶴准教授)
微妙なバランスの上にかろうじて成り立っていた知床半島でのクマと人の共存が、崩れ始めているのかもしれない。
(AERA編集部・川口穣)