見えない「海の侵略者」の正体――年間50億トンの「海水」が運ぶ生態系崩壊とは
海運拡大が加速する生物移動問題
世界中の海を航行する貨物船の船底には、「見えない侵略者」が静かに運ばれている。それは船舶のバラスト水に混入した外来生物だ。毎年、約30~50億tのバラスト水が世界の海を移動している。そのなかには数千から数億もの海洋生物が含まれる。
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これらの生物は本来の生息地から遠く離れた海域に放出されることで、在来の海洋生態系に深刻な影響を与えている。現在、国際社会は「バラスト水管理条約」という新たな手段で、この見えない脅威と戦っている。
バラスト水とは、船舶が安全に航行するために船に装備されたタンクに積み込む海水のことだ。貨物を積んでいない状態の船は重心が高くなり、波の影響を受けやすくなる。船体の安定のために大量の海水を取り込む必要がある。この仕組みは船舶の安全運航に欠かせない。
問題はバラスト水を取り込む際に海水と一緒に吸い込まれる海洋生物だ。
・プランクトン
・細菌
・ウイルス
・魚の卵や幼生
など、目に見えない微小な生物から小魚まで多様な生命体が混入する。船が次の港で荷役を行う際、バラスト水の排出と共に全く異なる海域に放たれる。国際海事機関(IMO)によると、現在世界で年間約30~50億tのバラスト水が地域を越えて移動している。そのなかには数千から数億の生物が含まれる。つまり、海運業の発展は
「意図しない生物の大規模移動」
を加速させているのだ。
ムラサキイガイの被害拡大
バラスト水の処理基準(画像:国土交通省)
バラスト水により運ばれた外来種が新たな環境に定着すると、在来の生態系に予想外の変化をもたらす。日本近海も例外ではなく、各地で深刻な問題が起きている。代表的な例が
「ムラサキイガイ」
だ。欧州ではムール貝と呼ばれ、もとは地中海沿岸を中心に分布していた。だが船舶のバラスト水に混入し、世界中に分布を広げている。
ムラサキイガイは養殖のカキに付着して被害を与えるだけでなく、漁網やブイを汚損する。導水路や配管に付着すると、水の流れを妨げ詰まりの原因にもなる。これらは日常生活にも影響を及ぼしている。
外来種の侵入は単に在来種を圧迫するだけではない。食物連鎖の構造を変え、生態系全体のバランスを崩すことがある。例えば、植物プランクトンを大量に捕食する外来種が入ると、それを餌にする在来魚の餌が不足し、漁業に悪影響が出る可能性がある。
また、バラスト水を介した病原体の拡散も問題だ。
・病原性コレラ菌
・大腸菌
・腸球菌
などの菌がバラスト水とともに移動し、人間の健康や水産業に直接の脅威となる。
こうした外来種問題の深刻さを受け、IMOは2004年に「バラスト水及び沈殿物の管制及び管理のための国際条約」(バラスト水管理条約)を採択した。条約は2016年に締結国の合計商船船腹量が35%を超え、2017年9月8日に発効した。
条約の核心は、船舶にバラスト水処理装置の設置を義務付けることだ。新造船だけでなく既存船も段階的に処理装置の設置が求められている。2024年までにすべての対象船舶で設置を完了する予定だ。
バラスト水処理装置を搭載する際はサンプリング分析を実施し、船上でできる簡易分析手法でバラスト水を検査する必要がある。
バラスト水管理条約の対応策
貨物船(画像:Pexels)
バラスト水処理には複数の方法がある。現在実用化されている主な技術は、
・紫外線処理
・薬剤処理
・オゾン処理
・電気分解処理
などだ。基本的な流れは、まずバラストポンプで取り込んだ海水が処理装置に到達するまでの間にフィルターを通し、大きな微生物や浮遊物を除去する。その後、残った微生物を各処理方法で死滅させる。
紫外線処理は強力な紫外線を照射して微生物を殺す方法で、化学薬品を使わないため環境負荷が少なく、多くの船舶で採用されている。薬剤処理は次亜塩素酸ナトリウムなどの薬剤を投入して殺菌する手法だ。排水時には薬剤を中和するための中和剤も使う必要がある。電気分解処理は海水を電気分解して生成される次亜塩素酸などの酸化物質で微生物を処理する。船上で薬剤を生成できるため補給が不要だが、海水の塩分濃度に注意が必要である。
バラスト水処理装置は主に中国、韓国、続いて欧州や北米でシェアを拡大しており、紫外線処理や電気分解処理の採用が多い。
バラスト水管理条約は実質的にバラスト水処理装置の搭載を義務づけているが、対応基準は複数ある。従来のバラスト水交換法であるD-1基準は、タンク容量の3倍量の水を交換するか
「95%以上」
の交換を証明することを求める。一方、D-2基準は排出される水中の生物量を一定以下に抑えることを義務づける。条約はD-1規制からD-2規制への移行を促している。
バラスト水処理装置は搭載期限を迎え、船舶設計に欠かせない装備となったが、設計や運航面で課題も残る。まず機器のコンパクト化が求められている。船内の限られたスペースを有効活用するためだ。次に低コスト化だ。処理方式によっては薬剤費用、電力使用量、メンテナンス費用がかかり、いかにランニングコストを抑えるかが重要となっている。
海洋侵略者への国際対策
貨物船(画像:Pexels)
2017年に発効した「バラスト水管理条約」で、海の見えない侵略者への対策がようやく始まった。この条約により、新たな外来種の侵入リスクは確実に減るだろう。
しかし、真の勝利には技術力の向上、国際協力、そして個々の環境意識の強化が不可欠だ。海洋生態系の保護は環境問題にとどまらず、水産業や海運業、さらに人類の健康にも直結する重要課題である。
見えない侵略者への警戒を怠らず、持続可能な海洋利用の実現に向けて歩み続ける必要がある。