兵庫・加西「鶉野飛行場」から飛び立った63人の特攻隊員の若い命が犠牲に——98歳の戦争体験者らが語る記憶

太平洋戦争の戦況が悪化する中、兵庫県加西市に作られた飛行場がありました。
終戦から80年、体験者が語る当時の記憶とは?
兵庫県加西市鶉野町に長さ1200mの滑走路跡があります。ここは姫路海軍航空隊の飛行場だった場所。昭和18年(1943年)、戦局の悪化で不足してきたパイロットを養成するために建設され、「鶉野(うずらの)飛行場」と呼ばれました。

敷地内には姫路海軍航空隊の庁舎や居住施設などがあり、併設された工場では戦闘機の組み立ても行われていました。小谷裕彦さんは(98)この工場の元工員。川西航空機の社員として、16歳のころから組み立てに従事していました。

兵庫・加西「鶉野飛行場」から飛び立った63人の特攻隊員の若い命が犠牲に——98歳の戦争体験者らが語る記憶
©ABCテレビ手がけていたのは、川西航空機が開発した局地戦闘機「紫電」、その改良型の「紫電改」。スピードもパワーもゼロ戦を上回り、日本海軍最後の切り札といわれました。工場には小谷さんら社員のほか、地元の女学生なども多数動員されていました。
食べる物もほとんどない中、昼も夜も戦闘機を作り続ける毎日。「忘れられへん」と当時を振り返る小谷さんは、「若いもんでも、アルマイト(の弁当箱)にご飯ちょっと。かわいそうなもんでっせ…」と涙で声を詰まらせます。

【動画】工場では466機の「紫電」と44機の「紫電改」が組み立てられて前線へ。その後、姫路や加西に空襲があり、生産は中止となりました。
鶉野飛行場の跡地には、2022年にミュージアム「soraかさい」がオープン。戦闘機の実物大の模型を展示しているほか、貴重な映像や資料で鶉野飛行場の歴史を伝えています。

今年7月、アメリカのワシントン州から教育関係者や弁護士らが「soraかさい」にやって来ました。戦後80年を機に日本の戦争資料館などを巡って歴史や文化などを知り、日米の平和への相互理解を深めようと来日した視察団です。
「紫電改」の実物大模型に目を見張り、巨大な防空壕跡など飛行場周辺の戦争遺跡を興味深げに見学する一行が、ガイドの説明に特に熱心に耳を傾けていたのが特攻隊の慰霊碑。80年前、ここ鶉野飛行場から、16〜27歳の若者たちが飛び立っていきました。

「soraかさい」に「紫電改」ともうひとつ展示されている実物大模型が「九七式艦上攻撃機」。姫路海軍航空隊に全国から集められたおよそ500人の若者たちの訓練機として使用されていた戦闘機で、当時、飛行場のそばで暮らしていた三枝輝行さん(84)が模型の製作に協力しました。

太平洋戦争末期、追い詰められた日本軍は、戦闘機に爆弾を積んで敵艦隊に体当たりする「特別攻撃隊」を各地で編成。わずか半年後に終戦を控えた昭和20年(1945年)2月、ついに鶉野でも志願者が募られました。
部隊は姫路城の別名「白鷺城」にちなんだ「白鷺隊」と命名され、前線基地へ。4〜5月にかけ、63人もの尊い命が失われました。「soraかさい」には、生きて帰ることのない特攻作戦に臨んだ隊員たちの遺書が展示されています。

「十億の人に十億の母あれど わが母に優る母はあらめやも」という言葉を残したのは、関西学院大学出身の湯川俊輔海軍少尉。4月6日、鹿児島の串良基地から沖縄に向け、まさに出撃というとき、姉と姪からの手紙が届きました。
すでに機上にいた湯川さんは、封筒の裏に「俊輔之(コレ)ヨリ征(ユ)キマス 元気デ」と短い返信を書き、飛び立っていきました。手紙には、小学校低学年だった姪がこんな一文を綴っていました。「早く敵の軍艦につきあたって敵の軍艦をしずめてください」「さやうなら」。まもなく、沖縄周辺の海で戦死した湯川さん。26歳の若さでした。

多くの若者たちが青春を過ごした鶉野飛行場。その記憶をつなぎ、80年前の戦争について多くの人に学んでもらうため、「soraかさい」では若いスタッフが中心となってさまざまなイベントを開催しています。
今なお世界で続く争いに心を痛める98歳の小谷さん。「戦争というもんはほんまに人殺し。やめてもらわな」と訴え、悲劇を繰り返さないため、鶉野飛行場の記憶を「後世に残してもらいたい」と願っています。

戦争体験者が語る鶉野飛行場の記憶は、8月15日(金)放送の『newsおかえり』(ABCテレビ 毎週月曜〜金曜午後3:40〜)で紹介しました。
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