「上層部」から責任を負わされ、名前も戸籍も失ったまま生きた「人間爆弾・桜花」発案者の戦後
私は2023年、『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)という本を上梓した。大戦中、「人間爆弾」と呼ばれる特攻兵器桜花を発案し、戦後は戸籍も名前も失い、別人として生きた大田正一とその家族の数奇な運命を描いたノンフィクションである。その年の10月末、私は本書の取材のきっかけとなり、本の完成を待たずして亡くなった大田の義娘・大屋美千代の三回忌の命日に、丹波篠山の墓苑を訪ねた。墓石の下の納骨室には、マジックインキで名を記した大田正一、妻・大屋義子、そして美千代の骨壺が並んで埋葬され、墓石の裏には3人の名が並んで刻まれている。だが、1994年12月に大田が亡くなってからずっと、つい最近まで墓石にその名は刻まれていなかった。

大屋美千代の三回忌に墓前に供えた『カミカゼの幽霊』
「人間を乗せるグライダー爆弾」の素案
31歳の大田正一少尉が、「人間を乗せるグライダー爆弾」、のちの桜花の素案をもって、海軍航空技術廠(空技廠)を訪ねたのは戦局が悪化の一途をたどっていた1944年7月のことである。空技廠は、横須賀市の追浜に本廠、横浜市の金沢八景に支廠を置き、2000名の職員と32000名の工員を擁する、海軍の航空機開発、実験をつかさどる組織である。

大田正一。1944年11月の第三種軍装姿

大田正一。1944年12月の飛行服姿
桜花の機体設計を担当した三木忠直技術少佐が戦後、書き残したいくつかの手記や、元空技廠の技術大尉だった内藤初穂が三木に取材して書いた『極限の特攻機 桜花』(中公文庫)などによると、大田が「グライダー爆弾」の試案をもって空技廠に現れたときの模様はおおよそ次のようなものだった。

1940年頃の空技廠主要職員の記念写真
海軍航空技術廠長の和田操中将から設計課主任・山名正夫技術中佐のもとへ、
「グライダー爆弾の案を持ってきた者がいる。説明するから廠長室に来い」
との電話が入った。山名は、新型機の設計を担当する設計課第三班長だった三木忠直技術少佐をともなって、和田中将のもとへ赴いた。三木は当時34歳。双発の陸上爆撃機「銀河」の設計主務者として、急降下爆撃、水平爆撃、雷撃(魚雷攻撃)をこなす高性能かつ流麗な機体を生み出したばかりで、その手腕が高く評価されていた。
「そんなものがつくれるか!」
新型機の研究、開発の仕事に多忙をきわめていた三木は、
「どうせまた、すぐには実現困難な案にすぎないだろう」
と考え、あまり気乗りしないまま廠長室に向かった。無人のグライダー爆弾の構想はこれまでにも何度か浮上してきたが、問題はその誘導装置である。無線操縦をはじめ、目標に照射した光線のなかを飛行させるとか、熱線や超短波に感応して自動照準で目標に命中させるなど、さまざまなアイディアが出され、なかには実験室レベルで成功した例もあったが、いずれも実用化にはほど遠いシロモノだった。
廠長室には、和田中将と向かい合って大柄な男が座っている。差し出された名刺には「海軍少尉 大田正一」とあり、右肩のところに「第一〇八一海軍航空隊」とペン書きで添えられていた。
和田中将にうながされて、大田が鉛筆書きの設計図を広げる。そこにはプロペラも脚もないグライダー爆弾の姿が描かれ、頭部と尾部からのびた引出線の先には、それぞれ「爆薬」「ロケット」と記されていた。さらに図面の隅には、グライダー爆弾を双発の攻撃機(一式陸上攻撃機)の機体に吊るした図が添えられている。一式陸攻で運び、敵地上空で投下するということのようだった。ここまでは、従来出された案と比べて目新しいものはない。
「それで、誘導装置は?」
やや辟易しながら、三木は訊いた。
「人間を乗せます」
大田は答えた。
「なんだって?」
三木は思わず声を上げた。大田の説明によれば、一式陸攻で敵艦の近くまでグライダー爆弾を運び、人間が乗り込み、投下する。あとは滑空しながら搭乗員が操縦し、ロケットを噴かせて敵機の追撃をかわし、一発必中で敵艦に体当りする。つまり、人間が誘導装置になるのだという。
たしかにこれなら、誘導装置の問題は一挙に解決できる。だが本来、技術は人間を助けるためのものであるはずなのに、人間の命を機械の一部品として使うような兵器をつくるのは技術への冒瀆だ、と三木は感じた。

桜花の設計者・三木忠直技術少佐。三木は戦後、鉄道技術者に転身、初代新幹線0系の車体デザインなどを手がける
「なにが一発必中だ。そんなものがつくれるか! 冗談じゃない」
憤然として首を振る三木に、和田中将が、
「技術的な検討だけでもしてあげたらどうか」
ととりなす。三木は大田に、
「体当りというが、いったい、誰を乗せていくつもりだ」
と疑問をぶつけた。
「私が乗っていきます、私が」
気迫に満ちた大田の答えに、三木は不意をつかれた思いがしたという。
三木は、戦後最初に書いた手記『桜花一一型試作概要』にこう記している。
〈技術者の至らざる処を尊き命をもって補って行こうと云うのだ。(中略)我が綜合国力と急速度で不利になる戦勢を考え合わせる時、最後には吾々も之で行こう、行かざるを得ない。部隊の要望するものを要望する時に間に合わさせねばと、其の火と燃ゆる熱に動かされたのであった。〉
結局、大田の案は採用され、発案者・大田正一の頭文字をとって○大(〇の中に大。マルダイ)と名づけられた「人間が操縦するグライダー爆弾」――のちの桜花――の設計を、三木が担当することになった。
大田は、実戦経験豊富な陸上攻撃機偵察員(偵察、航法、無線などを担当する)だが、兵隊上がりの「特務士官」にすぎない。「特務士官」は海軍のエリートである海軍兵学校、機関学校出身の正規将校より段違いに格下に扱われている。階級制度の厳しかった海軍にあって、一介のノンキャリアである特務士官、なかでも序列が最も低い少尉のアイディアが海軍を動かし、兵器を開発し、部隊を編成させることなど通常は考えられないことである。
大田の案が採用された理由
大田の案が採用されるには、それだけの下地があった。
1941年、太平洋戦争がはじまり、次第に戦局が日本側に不利になってくると、1943年6月頃から、人間が操縦する兵器で敵艦や敵機に体当りする捨て身の戦法が海軍の一部で本格的に議論に上るようになっていた。
航空機による体当り攻撃、人間魚雷……さまざまなアイディアが航空本部や軍令部などに上申され、当初はことごとく却下されていたのが、1944年2月17日、日本海軍の太平洋の拠点・トラック島が米軍艦上機の大空襲を受け、壊滅したことで潮目が変わる。
2月26日、先の「人間魚雷」の着想が見直され、広島県の呉海軍工廠魚雷実験部で「○六(〇の中に六。マルロク。以下同様)金物」の秘匿名で極秘裏に試作が始められる。これは魚雷に操縦装置をつけ、人間の操縦で敵艦に体当りするものだった。
さらに4月、海軍の軍備計画をつかさどる軍令部第二部長・黒島亀人少将は、作戦を統括する第一部長・中澤佑少将に、「体当り戦闘機」「装甲爆破艇」をはじめとする新兵器を開発することを提案し、中澤もそれを了承、その案をもとに軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行うよう海軍省に要望した。海軍省の命を受けた艦政本部はこれらの兵器に○一から○九までの秘匿名称をつけ、実験を急いだ。
これらのうち、黒島少将自らが考案した○四兵器(爆薬を装備し敵艦に体当りするモーターボート)はのちに「震洋」として、○六兵器(人間魚雷)は「回天」として実戦に投入され、それぞれ多くの若者が戦死している。
黒島は奇抜なアイディアマンで知られ、かつて連合艦隊司令長官・山本五十六大将の懐刀として真珠湾攻撃の作戦をまとめた先任参謀だった。1943年4月18日、山本五十六が戦死し、黒島は同年6月軍令部に転じたが、この頃から、
「モーターボートに爆薬を装備して敵艦に体当りさせる」
という自らのアイディアを軍令部の幕僚たちに説くようになった。さらに7月、軍令部第二部長に就任すると、8月には戦備の方針を定めるための会議で、「戦闘機による衝突撃(体当り)」の戦法を提案している。これは大田正一が「グライダー爆弾」の試案を航空本部に持ち込むよりも1年近くも前のことである。
航空機による体当り攻撃も着々とその準備が進められようとしていた。その中心となったのは源田実中佐である。1932年から34年にかけ、日本初の編隊アクロバット飛行チーム「源田サーカス」を率い、戦闘機パイロットの草分けとして有名だった源田は、1944年当時は海軍の作戦をつかさどる軍令部第一部の部員(参謀)を務めていて、航空作戦のすべてを動かしうる立場にあった。
航空特攻への流れをさらに加速させたのが、1944年6月19日から20日にかけて日米機動部隊が激突したマリアナ沖海戦での惨敗である。サイパン島をめぐるこの戦いで、日本海軍は、敵艦隊にほとんど打撃を与えることのできないまま、虎の子の空母3隻と基地航空部隊をふくめ470機もの飛行機、3000名を超える将兵を失った。
6月25日に開催された陸海軍の元帥会議で、サイパン島奪回を断念することが正式に承認されたが、このとき、海軍の長老、皇族元帥の伏見宮博恭王が、
「対米戦には特殊の兵器の使用を考慮しないといけない」
と発言。暗に体当り兵器の開発を促すかのような「宮様」の一言が「お墨つき」を与えた形となって、海軍の大勢は一気に特攻へと傾く。この時点で○四兵器(震洋)はすでに試作艇が完成し、量産に入ろうとしていた。○六兵器(回天)は、まもなく試作艇が完成して、航走試験を始めようとしている。陸軍でもすでに、体当り戦法が一部で検討されている。
大田正一が「グライダー爆弾(人間爆弾)」の構想を空技廠に持ち込んだ1944年7月は、まさに「特攻」が海軍の既定路線となり、そのための兵器の開発が進められている時期だった。これが半年早ければ大田の案が採用されることはなかっただろうし、半年遅ければ実戦に間に合わなかっただろう。あまりにも絶妙なタイミングだった。

沖縄で米軍に鹵獲された未使用の桜花
防衛庁防衛研修所編の公刊戦史『戦史叢書』によると、唯一の懸案は、「○六(回天)」や「○四(震洋)」の場合は、命中前に搭乗員を海中に脱出させる方法を考慮する余地があった(実戦に当たっては断念された)のに対し、航空機による体当り攻撃ではそれが100パーセント不可能なことだった。最初から人の死を前提にした戦法で、だからこそ軍令部も航空本部もそれまで採用をためらっていたのだ。
軍人が戦争で死ぬことはやむを得ない。だが「死」はあくまで任務遂行の結果である。たとえ指揮官であっても部下に「死」を命じることはできない、というのが近代軍隊の常識だ。「決死」の作戦は許されるが「必死」の作戦は許されない。そのうえで、命令は実行可能なものでなければならない。
だが、回天が黒木博司中尉、仁科関夫少尉という若手士官が考案したものであったように、上から死を命じるのではなく、「現場の将兵が発案」した体当り兵器を「自ら乗っていくという熱意」に動かされ、やむにやまれず採用する、つまり下からの自然発生的な動きから始まったという流れになることは、「上層部」にとって好都合だった。
海軍は、大田がじっさいに「人間爆弾」に乗って死ぬことよりも、歴戦の搭乗員による
「私が乗っていきます」
という、開発の引き金を引く言質を必要としていたのではないだろうか。
「人間爆弾」の発想は海軍全体を動かす大方針へ
大田正一がもたらした「グライダー爆弾」(人間爆弾)の着想は、すぐに航空技術廠から航空本部へとまわされた。航空本部では、総務部第二課で将来機の技術開発を担当する伊東祐満中佐が窓口となり、改めて大田の話を聞いた。大田の話に感化された伊東中佐は、航空本部総務部第一課長・高橋千隼大佐に大田の案を報告した。高橋は伊東に、軍令部の意向をただすよう指示、伊東は、海軍兵学校で1年後輩にあたる軍令部第一部の源田実中佐に連絡をとる。
源田の動きは早かった。まず、大田の着想を上司の軍令部第一部長・中澤佑少将に報告し、裁可を受けた上で、第二部長・黒島亀人少将に伝えた。特攻兵器を自らも考案し、その実現に執着していた黒島が、「人間爆弾」の開発を積極的に承認したのは言うまでもない。源田はさらに8月5日の軍令部会議でその構想を発表し、新任の軍令部総長・及川古志郎大将からも採用許可をとりつけた。
軍令部の方針は、源田からふたたび航空本部の伊東中佐に伝えられ、航空本部長・塚原二四三中将の裁可も得た。航空本部はこの兵器に、発案者大田正一の名をとって「○大部品」と仮名称をつけ、空技廠に研究試作を命じた。8月16日のことである。空技廠では○大に「MXY7」の試作番号をつけ、三木技術少佐が機体設計にあたり、さしあたって10月末までに試作機100機を完成させることとした。8月18日、軍令部の定例会議で、黒島は「火薬ロケットで推進する○大兵器」の開発を発表している。
もはや「人間爆弾」の発想は大田正一という一介のノンキャリアの手を離れ、海軍全体を動かす大方針となった。その責任は発案した大田より、多くの案のなかから大田案を採用、積極的に推進した軍令部の中澤佑少将や黒島亀人少将、源田実中佐、さらに航空本部をはじめとする「上層部」にあることは明白である。
大田は、軍令部で○大の開発が公のものになった8月18日、海軍航空技術廠附となって一〇八一空を去る。さらに10月1日、桜花を主戦兵器とする第七二一海軍航空隊(神雷部隊、司令・岡村基春大佐)が編成されると七二一空へ異動した。
桜花を題材にしたいくつかの書籍に、
「大田は、自ら桜花に搭乗するため操縦訓練を受けたが適性なしと判定された」
という主旨の記述が見られるが、たとえ桜花の操縦ができなくても、大田は歴戦の偵察員なのだから、命令ひとつで母機の一式陸攻の機長として出撃させることは容易くできたはずである。海軍がそれをしなかったのはなぜか。これは推測になるけれども、操縦適性のあるなし以前に、桜花の発案者であり、仮名称○大に頭文字を冠した「象徴」である大田を死なせるわけにはいかなかったのではないだろうか。大田が死ねば、桜花という非人道的兵器を開発した責任を、「上層部」の誰かが負わなければならなくなるからだ。

桜の枝を持って桜花の操縦席におさまった搭乗員
1945年3月21日、四国沖に現れた米機動部隊を攻撃するため、神雷部隊ははじめて、鹿児島県の鹿屋基地を発進した。一式陸攻は野中五郎少佐の率いる18機、うち15機に桜花を懸吊している。だが、当初72機が予定されていた護衛戦闘機は前日までの空襲で消耗し、じっさいに出撃できたのは30機に過ぎなかった。神雷部隊は待ち構えた米軍戦闘機グラマンF6F約50機の襲撃を受け、米機動部隊にたどり着くことなく全滅した。

1945年5月2日、新聞各紙に掲載されたリスボン発同盟通信の記事。この時点では海軍当局から桜花の存在は公表されていない

1945年3月21日、桜花を吊って鹿屋基地から出撃する神雷部隊の一式陸攻。この日が桜花の初出撃だった

1945年3月21日、米軍戦闘機のガンカメラが捉えた神雷部隊の一式陸攻。胴体の下に桜花を吊っているのが見える。この日、出撃した18機は全機が撃墜され、攻撃は失敗に終わった
以後、桜花の出撃はのべ10回におよび、米側記録との照合で、駆逐艦1隻撃沈、6隻に損傷を与えたことが判明しているが、神雷部隊は桜花搭乗員55名をふくむ715名もの特攻戦死者を出した。地上の整備員や特攻以外の戦死、殉職者114名を合わせると、神雷部隊の戦没者は829名に達する。沖縄に上陸後、未使用の桜花を手に入れた米軍は、この兵器に「BAKA」あるいは「BAKA Bomb」(バカボン=馬鹿爆弾)と名づけた。

鹵獲した桜花をもとに、米海軍が作成した透視図。桜花は米軍から「BAKA」あるいは「BAKA Bomb」と呼ばれた
大田正一は、桜花搭乗員の訓練部隊である第七二二海軍航空隊で、飛行長を補佐する飛行士として、茨城県神之池基地で終戦を迎えた。1945年8月18日、大田は、基地にあった零式練習戦闘機に飛び乗り、よたよたと飛びながら鹿島灘の沖に消えた。海軍は大田をテスト飛行中の「航空殉職」と認定し、のちに戸籍も抹消された。
戸籍も名前も失った大田
――だが、大田は生きていた。神之池基地を離陸後、鹿島灘の沖に消えた大田機は、海面に不時着水し、たまたま操業中だった漁船に救助され、宮城県の鳴子陸軍病院に収容されたのだ。
その後、大田は、各地で旧海軍の関係者の前に姿を現し、「大田が生きている」ことはいわば公然の秘密となっていた。だが、「茨城で牧場をやっている」「新橋の闇市に連れて行った」「北海道で会った」「密輸物資をソ連に運んでいる」……など、断片的な目撃談や噂はあったものの、その足取りは判然としなかった。大田は、1949年に家族のもとから消え、1951年を最後に、海軍関係者の前からも完全にその姿を消してしまう。闇屋同士の争いに巻き込まれて殺されたのだ、という噂も立ったが、その行方は杳として知れなくなった。
海軍から死んだことにされ、戸籍も名前も失った大田は「横山道雄」を名乗り、日本各地を転々としたのち、1950年、大阪に流れついた。繊維業界の仕事をしながら、そこで出会った大屋義子と結婚し、3人の息子をもうけた。終戦直後、戦死したはずの軍人がじつは捕虜になっていて生きて還ったり、戦死公報が誤って同名の別人のもとに届いたりしたこともあり、戸籍がないことはさほど不自然ではなかった。義子は「そのうち復籍するのだろう」と、軽く考えていたという。そのため、子供たちはみな戸籍上は義子の私生児とされたが、父の偽名である「横山」姓を名乗り、大田が自ら大工仕事をして建てた要塞のような家から大阪市内の公立小、中学校に通った。

1959年頃、就職するさいに撮られた証明写真。当時本人は「横山道雄」と名乗っていて、家族もそれを信じていた
だが、長男の隆司が高校に上がる頃になって、改めて義子が大田に戸籍の回復を頼んだところ、大田は軍事雑誌の記事に掲載された「大田正一」の名を示し、「これがわしなんや」と、はじめて正体を明かしたのだ。それは、義子はもちろん、これまで自分の姓は「横山」だと疑うこともなく育ってきた隆司にとっても青天の霹靂だった。息子たちはそれぞれ、高校に上がるタイミングで母方の「大屋」姓を名乗ることになった。
大田は、横山道雄と名乗ったまま、さまざまな職を転々とする。洋服地の見本づくりからセールスマン、鉄工所の金属加工の下請け、既製服の背広の袖だけを縫う仕事、染物工場、玉子豆腐工場、ガードマン……隆司の記憶にあるだけで20以上の仕事に就いたという。働く意欲も体力もあるが、戸籍がないので、身元の証明を求められたりすると辞めざるを得なかったのだ。一家の家計を支えたのは、つねに妻の義子だった。

自分で建てた家で餅つきをする大田正一。後ろにいるのは孫。名前も年齢も偽っていたが、よき家庭人の一面もあった
やがて隆司は美千代(旧姓・高根)と出会い、結婚。大田正一(横山道雄)、大屋義子夫妻と隆司、美千代夫妻が同居するようになる。美千代の目に映った義父は、大柄な体で声の大きい、世話好きな好々爺だったという。美千代が拾ったり、ペットショップで買ってきた犬たちも、家族のなかで大田にしかなつかなった。大阪・梅田で働く美千代が帰宅するとき、急な雨が降ったりすると、最寄り駅の前で自転車にまたがった大田が傘を手に待っていて、傘を美千代に投げるように手渡すと、一緒に帰るでもなく自転車を漕いで先に帰ってしまう。遅れて帰宅した美千代が「さっきはありがとう」と礼を言っても、照れくさいのか知らん顔をしている。美千代は大田の晩酌につき合い、息子たちも知らない過去の話を聞かされたりするようにもなった。
突然の失踪
ところが1994年5月、愛犬を散歩につれて出た大田は、犬を木に繋いだまま、突然失踪する。和歌山県の白浜警察署から隆司に、
「三段壁から飛び降りようとしたところを保護している」
との電話が入ったのは、失踪から3日後のことだった。隆司が急いで迎えに行くと、大田は泣きながら、
「多くの戦友が命を落とした沖縄で死のうと残波岬に行ったが、すっかり観光化されていて、こんなところでは死ねないと思い、高野山に行った。そこで宿坊の若い僧侶に親切にしてもらって今日、こんどこそ死のうと白浜に来た」
と言う。自殺騒ぎのあと、大田の身体はみるみる衰え、家の裏に椅子を出して黙って空を見上げることが多くなった。やがて歩くこともできなくなったため、見かねた隆司は大田を淀川キリスト教病院に診せた。診断は、末期の前立腺がんで、余命3ヵ月だという。あとからわかったことだが、大田は高野山で出会った僧侶・宮島基行に、はじめて家族以外に自分の正体を明かした上で、「戸籍がないので保険にも入れず、もし入院などしたら家族に迷惑をかけてしまう」と、悩みを吐露していた。大田は自分の寿命が近いことを察し、沖縄と高野山で戦友たちに詫びた上で死のうとしたのだ。

1994年6月6日、白浜での自殺未遂の後、隆司と美千代に付き添われて再訪した高野山で。宮島基行(左)と大田正一。大田はこの約半年後に世を去った
大田はそのまま入院することになったが、無保険のため、莫大な医療費がかかる。これでは経済的にもたないと思った隆司は、なんとか父の戸籍を回復しようと、これまでのことを根掘り葉掘り訊いてみた。そこで隆司が驚いたのは、父が10歳も年齢を若く偽っていたことである。本人は大正11年12月生まれと称していて、それだとまだ71歳のはずだが、じつは大正元年8月生まれの81歳だという。「正一」は「大正元(一)年」からとった名前だった。病に倒れる前は肌つやもよく、背筋もピンと伸びていて、家族でさえ71歳と信じていたのだ。本人はずっと「北海道出身」と称していたが、それも詐称で、出身地は山口県だった。隆司は、区議会議員の口添えを得て、区役所を通して父の元の戸籍を取り寄せた。そこに書かれていたのは、さらに驚くべき事実だった――。
大田は余命3ヵ月の診断のあと、なおも半年生き、1994年12月7日に世を去った。戸籍の回復はならなかった。遺骨は、母・義子が購入していた丹波篠山の墓所に葬られた。だがその墓石には「大屋家」とだけあり、「大田正一」の名はどこにも刻まれなかった。
桜花を発案したノンキャリアの大田が名前も戸籍も失い、別人を名乗ってひっそりと生きたのに対し、「特攻」という戦法を採用、実行した「上層部」の責任者たちは、特攻で死なせた部下に謝罪し割腹した大西瀧治郎中将や鉄道自殺した神雷部隊司令・岡村基春大佐などごく一部の例外をのぞき、戦後、自決することも身を隠すこともなく、それぞれが平穏に生き、天寿を全うした。
私のもとに、「大田正一の家族」を名乗る女性から、講談社を通して突然、電話があったのは2014年春のことだ。大屋美千代と名乗るその女性は、桜花を発案した大田正一の息子の妻だという。聞けば、テレビの戦争関連番組で、桜花を抱いた一式陸攻が米軍機に次々と撃墜される実写映像を見て、大好きだった義父が発案した兵器のために多くの若者が死んだことに改めて衝撃を受け、書店でたまたま手に取った『祖父たちの零戦』(講談社)の著者である私に話を聞いてほしいと電話をかけたのだという。
そのことを機に私は大田正一についての調査を始め、陸攻搭乗員を祖父に持つNHKのディレクター・久保田瞳にも美千代を紹介(久保田は2016年、大田と家族を題材にした番組『名前を失くした父』を完成させ、同年3月19日、NHK-Eテレで放送)したりしながら取材を続け、今年(2023年)6月30日、ようやく『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』を刊行することができた。だが、執筆中の2021年4月7日に大田正一の妻・義子が96歳で亡くなり、同年10月29日には美千代も、病がもとで本の完成を見ることなく世を去った。私は2022年春、義子と美千代の納骨式にも参列したが、そのときは本が未完成で、三回忌にはどうしても墓前に本を供えたかったのだ。
美千代の三回忌に参列したのは夫の大屋隆司、隆司の弟・三郎、そして美千代の親友が2人、私の計5名である。
隆司は、父・大田正一が眠る墓に母と美千代を埋葬するにあたって、これを機に3人の名前を墓石に刻むことを決心した。2022年夏、死後30年近くを経て、初めて父の名が「大田正一」の本名で刻み込まれた。美千代の三回忌の日、墓石の裏に刻まれたその名を見て、私は、ようやく大田正一の長かった戦争に一つの区切りがついたように思った。大田を利用し桜花を採用、開発した「上層部」の責任者たちも、すでに全員が故人である。
(文中敬称略)
連載第1回<玉音放送の翌日に割腹した「特攻の父」とは対照的…「特攻」採択の責任者が放った「無責任な言葉」>の記事もぜひご覧ください。