追悼「長嶋茂雄より有名だった」天才ストライカー・釜本邦茂秘話

サッカー界のスーパースター

去る8月10日未明。日本サッカー界を代表するスーパースター釜本邦茂氏が亡くなった。かねて闘病中とは聞いていたが、まだ81歳。あまりに早いお別れとなった。

1964年の東京五輪で日本代表は南米の強豪アルゼンチンを下した。第2次世界大戦後、低迷を続けていた日本サッカーが立ち直るきっかけとなった試合だ。翌65年にはプロ野球以外では初となる団体競技の全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)が発足して、“第1次サッカーブーム”が訪れる。そして、68年のメキシコ五輪で日本代表は銅メダルを獲得することになる。

その後、低迷期はあったものの、当時の日本代表の活躍によって少年サッカー人口が爆発的に増えたことが、1993年のJリーグ発足以後の発展につながっていくのだ。

サッカー界のスーパースター, 長嶋茂雄氏の逝去に続いて, 釜本氏の空前絶後の活躍, 伝説の「アーセナル・ゴール」, 新たな逸材を探して

Photo by gettyimages

その、1960年代から70年代初めにかけてのサッカー人気を支えたのが、日本代表CF(センターフォアード)の釜本氏だった。

しかし、今の若いサッカーファンは釜本氏のことをほとんど知らない。釜本氏逝去の直後には、Jリーグ第25節の試合が各地で行われ、多くのチームの監督たちが釜本氏について語っていた。だが、監督の多くも50歳以下の年齢なので、釜本氏のプレーを実際に見たことのある人はほとんどいないようだ。

長嶋茂雄氏の逝去に続いて

今年の6月には、野球界のスーパースター長嶋茂雄氏が89歳で亡くなった。

長嶋氏については、マスメディアで長嶋氏のエピソードが繰り返し報じられ続けたから、直接プレーを見たことのない世代でもかなり知られていたようだ。

サッカーというスポーツは当時の日本では野球ほどメジャーでなかったので、釜本氏のことを覚えている人が少ないのだろう。

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ただ、国際的知名度という意味では、釜本氏は長嶋氏を上回っていたかもしれない。

当時、ベースボールの本場米国でも現在のように日本野球に対する関心は高くなかったはずだ。一方、サッカーが盛んな東南アジア諸国では「カマモト」の名を知らない男性は少なかった。また、メキシコ五輪での活躍(7ゴールを決めて得点王)後、釜本氏には世界各国のプロクラブからオファーが届いた。

残念ながら、メキシコ五輪の翌年に釜本氏はウイルス性肝炎に罹ってしまい、海外移籍は実現しなかった。だが、当時の釜本氏なら欧州のどこの国のどんなクラブに入っても、大スターになっていたことは間違いない。

左右両足、さらにヘディングでも点が取れる万能型CFなど、世界でも数少ない存在だからだ。

実際、その後もヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)の一員としてJSLでプレーを続けた釜本氏のことを、世界のサッカー界は忘れることはなかった。

釜本氏の空前絶後の活躍

1980年には、スペイン・バルセロナで行われたチャリティーゲームで世界選抜の一員に選ばれた釜本氏は、ヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニといった世界のサッカー史を彩るスターたちに交じって堂々のプレーを披露している。

そして、1985年8月、東京・国立競技場に6万の大観衆を集めて行われた「引退試合」には、“サッカーの王様”ペレ氏や西ドイツ代表のスター、ヴォルフガンク・オフェラート氏も駆け付け、試合後には2人が釜本を肩車して場内を一周した。

釜本氏逝去を受けて、多くのメディアでは日本代表のAマッチ(公式国際試合)に75試合出場して、76得点という記録が紹介されている。ほぼ1試合1得点というのだから、とんでもない得点率だ(ちなみに2位は三浦知良の89試合55得点)。

だが、当時の日本代表はW杯に出場することはできず、欧州遠征でも下部リーグのチームとの試合が多く、各国トップリーグのクラブと対戦することは珍しく、まして欧州・南米の代表との対戦はほとんどなかった。

つまり「75試合」のほとんどは、アジアの代表チームだったのだ。

だから、釜本氏の全盛時代を知る僕たちの世代のファンが記憶しているのは、Aマッチのゴールではなく、欧州や南米の強豪クラブ相手の試合でのゴールばかりだ。

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当時、毎年夏のシーズンオフを利用して、イングランドや西ドイツなど欧州の強豪クラブが来日していた。

最近も、欧州クラブの来訪は多い。今夏もイングランド・プレミアリーグ王者のリバプールFCなど多くのクラブが来日した。最近は来日したクラブチームは、Jリーグクラブと対戦する。しかし、Jリーグクラブにとってもプレシーズンマッチの扱いで、必ずしもベストメンバーで戦うわけではない。

だが、1960年代、70年代は、強豪クラブの来日はビッグイベントであり、日本代表チームが事前合宿をして万全の状態で戦ったものだ。

伝説の「アーセナル・ゴール」

1967年にはブラジル・サンパウロの名門パルメイラスがやって来た。そして、日本代表はパルメイラスと3試合戦って、2戦目で勝利を収めた。その立役者はもちろん釜本氏だった。

0対0のまま迎えた74分に、日本は空中戦の競り合いで、相手のファウルを誘ってPKを獲得(決めたのは小城得達氏)。さらに、81分にも体勢を崩しながら、角度のないところからシュートを決めて釜本氏は勝利に貢献した。

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翌68年にはイングランドの名門アーセナルが来日。第1戦では、試合開始からわずか13秒でアーセナルが先制して観客の度肝を抜いたのだが、8分には釜本氏が同点とする。右サイドの渡辺正氏からのクロスに対して、釜本氏がニアサイドに飛びこみ、アーセナルのDFに競り勝ってヘディングシュートを決めたのだ。

その後、日本ではこういう形のシュートは「アーセナル・ゴール」と呼ばれるようになった。

僕が個人的によく覚えているのは、アーセナルと同じロンドンの名門トッテナム・ホットスパーとの試合だった。やはり右サイドからのクロスを釜本氏が完璧にとらえたヘディングシュートを放った。僕は「絶対に決まった!」と思ったが、トッテナムのゴールを守っていた世界的なGKパット・ジェニングス(北アイルランド代表)が横っ飛びに飛んで両手で釜本氏のシュートをはじき出してしまったのだ。

僕は、本当のワールドクラスのFWとGKの勝負を見た気がしたのだ。

新たな逸材を探して

まだ日本でサッカー人口が少なった当時、釜本氏のような天才が現われたのは奇跡のように思える。同時に、その突然現れた才能を見逃さずに成長させた周囲の大人たちもすごかった。東京五輪時にようやく20歳になる少年の成長を見越して、日本代表に招集して起用し続けた長沼健監督などのスタッフの慧眼。あるいは、まだサッカー界の国際交流が今のように盛んでなかった当時、入団2年目の釜本を西ドイツのクラブ、ザールブリュッケンに留学させたヤンマー・サッカー部の決断。こうした周囲のサポートがなかったら、釜本氏がワールドクラスのFWになることはなかったかもしれない。

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同時に、自分に足りないものを補うためにトレーニングに励んで、左右両足と頭で得点できる万能型FWに自らを進化させていった釜本氏の努力も忘れてはならない。

高校時代は右足だけの選手だった釜本氏は、代表入りしてからそれだけでは通用しないと考え、ヘディングの練習を繰り返し、左足のキックを上達させるために左手で箸を持って食事する生活を送ったという。

そして、西ドイツ留学の間にザールブリュッケンのユップ・デアバル監督(後に西ドイツ代表監督)の指導を受けて、ゴール前のスピードを身に着けて釜本氏の才能は一気に開花した。

釜本引退以来、日本のサッカー界は「釜本二世」を探し続けたのだが、いまだにそのような選手は現われていない。だが、これだけサッカー界の裾野が広がっているのだ。いつかは釜本氏を超える選手が現われることだろう。

その逸材を見逃さずにワールドクラスに成長させることに成功した時に、日本代表は本当にW杯優勝を狙えるようになるはずだ。