<訃報> さようなら、ミスターモトクロス ~東福寺保雄さんが託したモトクロスの未来

日本モトクロス史上最強のライダー

悲しいニュースが届きました。日本モトクロス史上最強の男と呼ばれた東福寺保雄さんが、6月8日、午前9時27分にご逝去されました。68歳でした。

東福寺さんとは昨年秋にインタビューさせていただく機会があり、その時も一度、予定が伸びたのですが「ごめんなさい、体調が悪くてさ」なんて軽くおっしゃるものだから、ご病気だと思わず、その後も療養されているとは知らず、年末にヨシムラの世界耐久チャンピオン獲得パーティでお会いした時も、あまり体調がよくないみたいだよ、とあとから聞いたような状態でした。

モトクロスのレジェンドですから、フィジカルも強靭なものだとばかり思っていたんですが……。

ゼッケン2をつけているから1984年か86年の写真だろうか

東福寺さんは1956年(=昭和31年)10月、山梨県に生まれました。

全日本モトクロスには75年、19歳のときにデビュー。デビューイヤーにEJ=エキスパート・ジュニアの125/250ccクラスのチャンピオンとなり、76年に国際A級(IA)に昇格。79年に250ccクラスのランキング5位に入ると、80~81年にIA125ccクラスのタイトルを獲得。82年にはIA250でも勝って、現役を引退する1992年までに9つの日本タイトルを獲得。それが「レジェンド」と呼ばれるゆえんです。

現役ライダーを引退してからは、後進の指導が東福寺さんの仕事となります。

「現役を退いてから、Hondaから『若手向けのスクールをやってほしい』って言われたんです。それから、全国あちこちにスクールイベントに出かけるようになってね。Hondaとしては、現役を退いた僕らのようなライダーを『親方』にした、相撲部屋のような構想を持っていたみたいだね。全国にいくつもチームがあって、それが日本のモトクロスの底辺を作ることだって考えていたみたい」(東福寺さん)

80年にIA125のタイトルを獲得すると、現役を引退するまで9つの全日本タイトルを獲得した

それから東福寺さんは、自分があちこちに出かけるより、常設の場所が必要だと考え、埼玉県の川越にTEスポーツ(=トウフクジ・エンタープライズ・スポーツ)ワークショップを設けることになります。

「モトクロスの未来を考えたら、大事なのは子供たちだな、って思ったんです。それまで使っていた東所沢の倉庫から川越に越してきたのは、建屋の横に三角の空き地があって、ここなら建物が建てにくいな、と思ったからなんです」

TEスポーツのオフィスに隣接している川越のその土地は、長辺が50mほど、短辺が15mほどの未舗装路。決して広いとは言い難い敷地だけれど、東福寺さんはそこがいい、と思ったのだといいます。

「広い敷地でばんばん走る、スピードに慣れるって方法もあるんですが、僕は少しの距離の中で、アクセルワーク、ブレーキ操作、ギアチェンジやバイクを曲げるアクションをしなきゃいけないスペースのほうがいいと思ったんです。アメリカのライダーがモトクロスで強くなったのは、70年代中盤にスーパークロスが始まってから。スーパークロスも、始まった当初は狭いスタジアムをくるくる回る、いろんな操作が必要な環境だったからだと思ったんです」

23年、2度目の全日本レディスモトクロスチャンピオンとなった川井真央選手(右)と

それから、TEスポーツ隣の練習場でモトクロスデビュー、いや初めてバイクに乗ったキッズたちは、どんどん日本のトップライダーに育っていきます。全日本選手権だけではなく、関東選手権や東北選手権でも走り、選手権でなくても、イベントレースに出たり、趣味としてモトクロスをしているライダーもたくさんいる。

そのひとりが、現在の日本レディスモトクロス最強の川井真央(=かわいまなか)選手です。

川井選手は4歳のころ、父・勇一さんの運転するクルマの中でTEスポーツ隣の敷地で走り回っているちびっこたちを見て「お父さん、あれやってみたい」と叫んだのだといいます。それが、日本レディスモトクロス最強の女王の第一歩。

「私はぜんぜん覚えてないんですけど、そう言ったみたいです(笑)。たぶん、小さいバイクに乗った私と同じくらいの背格好のコたちが走り回って、ぴょんぴょん飛んでいるのを見たんですね。もちろん、レジェンドライダーがやっているキッズスクールだなんて知らずに、よく通る道沿いにあったから、TEのスクールに通い始めたんです」(川井選手)

スクールに通い始めたころ、走行時間が終わっても、まだ終わりたくない、まだ走るんだー、って大泣きしていた真央ちゃんが、5歳になったら初めてレースに出て、小学6年生に全日本選手権にデビュー。中学2年生の14歳で初優勝して、18歳で全戦全勝で初めて全日本タイトルを獲得。21年も連覇し、22年には背骨を圧迫骨折、足も骨折しながらチャンピオンと同ポイントでランキング2位、23年、24年にもチャンピオンを獲得し、25年もここまでランキングトップを走っています。だから最強、だからレディスモトクロスの女王。

「僕が大好きなモトクロスを広めるためには、トップチームを運営して選手権に出るのはもちろんだけど、それよりイベントレースや草レース、レースじゃなくてもオフロード走行を楽しむ人たちを増やしたいし、もっともっとさかのぼって子どもたちを指導したい、初めてバイクにまたがる、初めてバイクで走る、って子どもたちを増やしたいと思ってるんです」

トウフクジファミリーたちと まぎれもなく日本のモトクロスを支え続けてくれたのが東福寺さんでした

東福寺さんも、EJやIAに上がりたての頃、先輩ライダーたちに可愛がってもらったことを今でも強く覚えているのだといいます。

「レース中でも、先輩に『ついてこい』ってアクションされて、走り方を覚えて、ラインを覚えて、速くなって、レースにも勝つようになったんです。そういう存在は必要だし、そういう伝承みたいなことは全日本モトクロスのなかで、先輩ライダーがいろんな形で後輩ライダーに伝えているんだと思う。だから僕は、もっと底辺をね。モトクロスやってみたいな、っていう人たちの背中を押してあげたい」

そう語っていた東福寺さん。68歳で亡くなるなんて早すぎるけれど、東福寺さんの想いは、きっとたくさんの後輩たち、教え子たちがどんどん広めていってくれます、きっと。

今はただ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

長い間のライダー生活、本当にお疲れさまでした。

文責/中村浩史 写真はTEスポーツのプレスリリースからお借りしました

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