長嶋茂雄が「日本の大衆文化」の歴史を変えた瞬間

2003年に撮影された長嶋茂雄と松井秀喜(写真:Al Bello/Getty Images)
6月3日、長嶋茂雄が逝去した。89歳の高齢だったが、まさに「巨星墜つ」の感が深い。長嶋茂雄は「単なる野球選手、野球人」ではない。プロ野球、日本の大衆文化の歴史を変えたと言っても過言ではない。
【写真】1971年の長嶋茂雄
すでに昨年、『「引退から50年」長嶋茂雄は一体何が凄かったのか』では引退から50年に際して、長嶋茂雄の事績について総括しているが、ここでは「歴史を動かした偉大な人物」としての長嶋茂雄の生涯を振り返っていきたい。
「大学野球→プロ」への偏見を吹き飛ばした
長嶋茂雄は千葉県立佐倉第一高校(現千葉県立佐倉高)の出身。佐倉一高は進学校だが、夏の地方大会では2002年に準決勝まで進んだのが最高で、甲子園出場はない。名門校だけに政財界、学問分野で多数の人材を輩出しているが、プロ野球には長嶋茂雄のほかはわずかに3人を出したのみ。まったくの無名だった。
しかし高校3年の時に、南関東大会で埼玉県営大宮球場のバックスクリーンに達する大ホームランを打ったことから大学関係者が長嶋に注目。佐倉一高の監督が、現役の立教大野球部員だったこともあり、立教大学に入学する。
この時期、プロ野球は、まだ日本の「トップリーグ」とはみなされていなかった。「大学野球、とりわけ東京六大学が日本野球の頂点」という認識の野球関係者も多かった。
一般紙のスポーツ欄の紙面も、プロ野球と東京六大学や甲子園の高校野球などが同じくらいの面積になっていた。
また、一部に「プロ野球は日本野球の本筋からは外れる」という意識も残っていた。戦時中の1939年、東京六大学の花形三塁手だった法政大学の鶴岡一人が職業野球(プロ野球)の南海に入団した際には法政大OBを中心に「大学卒業生が、遊びを仕事にするとは何事だ」と言う声が起こり、鶴岡は一時期、法政大同窓会を破門された。
当時、大学からプロ野球に行く選手の多くは「中退」だったのだ。大学生はエリートであり、野球は大学時代まで。卒業すれば企業や役所などに勤め、社会に奉仕すべきという考えが主流だったのだ。
戦後になって、プロ野球に進む大卒選手も何人かは出ていたが、その一方で、東京六大学のトップ選手でもプロに行かず、社会人野球に進む選手も多かった。
そんな中で、東京六大学最大のスター選手だった長嶋茂雄は、南海との争奪戦の揚げ句に巨人に入団、1年目から本塁打王、打点王という華々しい活躍をした。
これによって、以後、大学からプロ野球に進む選手が増加し、それとともに「プロ野球に対する偏見」は消えていった。
長嶋茂雄の入団以降、世間の注目度でプロ野球は大学野球などアマチュア野球を凌駕するようになった。そして新聞などメディアの扱いも「プロ野球が一番」となり、アマチュア野球の存在感は、相対的に小さくなった。長嶋茂雄は「プロ野球」のステイタスを高めた、と言ってよいだろう。
プロ野球を「日本のナショナルパスタイム(国民的娯楽)」にした
長嶋茂雄が巨人に入団した1958年から翌59年にかけては、戦後日本のメディア、社会が大きく変貌した時期だった。
この年、皇太子明仁親王(現上皇)と正田美智子さん(現上皇后)のロマンスを各メディアが一斉に報じた。明るい話題に日本中が湧きかえる中、11月27日、宮内庁はお二人の婚約を発表、そして翌年4月10日に「ご成婚」「ご成婚パレード」を行うと発表した。
すでに民放テレビは1953年の日本テレビ開局を皮切りに、1955年TBSテレビ、1956年CBCテレビ(中京地区)、朝日放送(関西地区)と徐々に増えていたが、この1958年、12局が一挙に開局。さらにご成婚直前の1959年4月までに14局が駆け込み的に開局した。これらのテレビ局が、翌年の「ご成婚パレード」の中継に一斉に加わった。
日本国民は「世紀のご成婚」を見ようとテレビ受像機を先を争って買い求めた。
1957年のテレビ受像機の普及率は7%程度だったが、1958年には10%を超え、1959年には20%を超えるに至った。この時期は高度経済成長期の入り口にあたり、人々の所得は増加し続けていた。それもあってテレビ受像機は急速に普及したのだ。
「ご成婚」の熱気冷めやらぬこの年6月25日、後楽園球場の「巨人対阪神」の試合に、昭和天皇、皇后両陛下が来場。プロ野球史上初の「天覧試合」だった。日本テレビとNHKが全国中継する中、長嶋茂雄は9回に阪神、村山実からサヨナラホームランを打つ。
皇室の慶祝と時期を同じくした長嶋茂雄の快挙の瞬間、プロ野球は「ナショナルパスタイム(国民的娯楽)」になったと言ってよい。長嶋茂雄は、今風の言い方で言えば「持ってる」ということになるだろう。
4月10日の「ご成婚パレード」が終わって、各家庭の茶の間に収まったテレビ受像機で、人々は「長嶋茂雄が活躍する」巨人戦のナイターを見るようになったのだ。
巨人一極集中の「ビジネスモデル」を成立させた
長嶋茂雄が巨人に入団したころは、民放は日本テレビが「巨人戦」、他局は「パ・リーグ(南海、西鉄)など」のナイター中継を放映していた。まだテレビ受像機は少なかったが、巨人だけでなく他のプロ野球中継もテレビのコンテンツではあったのだ。
しかし1959年6月の長嶋の「天覧ホームラン」を境に、プロ野球人気は巨人「一極集中」へと変貌していく。
1960年代に入り、巨人の主催試合は日本テレビが中継し、他セ・リーグの主催試合の「巨人戦」は、他の民放各局が中継するという体制が整っていく。
長嶋茂雄の1年遅れで巨人に入団した王貞治が、1962年に「一本足打法」を完成させ、ここから13年連続で本塁打王。長嶋茂雄と王貞治の「ON砲」を中心とした巨人は、抜群の破壊力を持ち、1965年から1973年まで空前の「V9(セ・リーグ、日本シリーズ9連覇)」を果たした。

フロリダ州マイアミで1971年3月に撮影(写真:Diamond Images/Getty Images)
この間に「巨人一極集中」はさらに進み、民放全国ネットでの他球団のプロ野球中継は、ほぼ絶滅した。
セ・リーグ球団は「巨人戦」主催試合の放映権収入を収益の柱にするようになった。一方で、巨人戦がないパ・リーグ球団は、親会社の補填に頼るようになり、1970年代以降、身売りが相次いだ。
これにより巨人は「球界の盟主」として、発言力を強めるようになる。
1965年、MLBに倣って日本もドラフト制度が導入される。新人選手獲得の費用の高騰に根を上げたパ・リーグ西鉄の西亦次郎オーナーらが提案、他球団もそれに同意したが、MLBのように前年の下位チームから指名権がある「完全ウェーバー制」の導入に、巨人は強硬に反対し、くじ引き制度となった。
江川卓の「空白の1日」が象徴したこと
また、1978年には法政大卒の有望投手の江川卓をめぐり、巨人は「空白の1日」を主張し、ドラフト指名を経ずに江川を獲得しようとした。結局、この事件では最終的にコミッショナーも巨人側の主張を容認し、巨人のエース小林繁を、ドラフトで江川の指名権を獲得した阪神に移籍させる見返りに巨人は江川を獲得した。この事件は、巨人の権勢がプロ野球全体に及んでいたことを象徴している。
巨人戦のナイターは「視聴率20%前後」を確実に稼げる「打ち出の小づち」であり、民放各局は巨人に頭が上がらなかった。また他のセ・リーグ球団も「放映権収入」があるために巨人に強く出られなかった。こうした「巨人戦放映権」を中心としたビジネスモデルは、2004年の「球界再編」まで40年も続くことになる。
もちろん「巨人一強体制」は、長嶋茂雄だけで成ったわけではない。しかし1958年の長嶋入団、そして翌年の「天覧ホームラン」が「ご成婚」という国家的慶事とシンクロしたこと。
さらにそれ以後も人気絶頂の長嶋が王貞治と共に巨人を最強チームに押し上げたことを考えると「巨人一強体制」の中心に長嶋茂雄がいたことは、ゆるがせない事実だろう。

2008年に幕張メッセで行われた「長嶋ジャパンドリームプロジェクト」に出席した長嶋茂雄(写真:Koichi Kamoshida/Getty Images)
プロ野球を「子どもの夢、憧れ」にした
筆者は関西に生まれ育ったが、子どもたちが被る「野球帽」は、関西でもYGマークの巨人しかなかった。
長嶋茂雄が巨人に入団した1950年代後半、「少年雑誌」の創刊が相次いだが、その表紙には「長嶋茂雄」の写真が踊った。また連載漫画でも長嶋を主人公にしたものが数多く出た。
それ以前から野球漫画は存在したが、実在の選手を主人公にした漫画は「長嶋もの」が最初だった。中には長嶋がバットで宇宙人を撃退するといった荒唐無稽なものもあったが、子どもたちはこうした漫画を読んで、長嶋に親近感と憧れを抱いた。
1966年に「週刊少年マガジン」に連載が始まった「巨人の星」は、主人公の星飛雄馬が巨人の川上哲治監督、長嶋茂雄、王貞治らに励まされてエースとして試練を乗り越えて成長する物語。これまでの「野球漫画」とは一線を画するリアリティのあるストーリーだったが、全国の野球少年は、自身を星飛雄馬になぞらえて長嶋や王のいる巨人の一員として野球をすると言う「夢」を見たのだ。
長嶋茂雄は「プロ野球のステイタス」「放映権ビジネス」など、大人のシビアな世界にも大きな影響を与えたが、同時に子どもたちに「夢」を与えた。よく言われるように昭和の野球少年は、銭湯の下足札の「3番」を求めて争ったのだ。
2021年、長嶋茂雄に野球界初の「文化勲章」が授与されたのは、まさに野球、スポーツを超えた長嶋茂雄の影響力、貢献度によるものだと言えよう。
長嶋茂雄と大谷翔平の共通点
長嶋茂雄に「憧れ」「夢」を抱いたのは、長嶋の現役時代を知る60歳より上の世代だ。今はそんな存在はいない、と思ったら、大谷翔平が出てきた。彼の舞台は日本ではなくアメリカ、世界に広がっているが、その痛快な活躍と、爽やかな言動は、タイプこそ違えど長嶋茂雄をほうふつとさせるものだ。
今春、大谷翔平と長嶋茂雄が出演するCMが放映されたが、半世紀以上の時を超えて、最後の最後に二人が親交を深めたのは、本当によかったと思う。