「天狗になっていた」20歳逸材日本人がオランダに来て“一番悪い日”に噛み締めた母校・慶大での日々。「高校で輝いて消えていく選手がいる。僕もそうなりかけていた」【現地発】
「天狗になっていた」20歳逸材日本人がオランダに来て“一番悪い日”に噛み締めた母校・慶大での日々。「高校で輝いて消えていく選手がいる。僕もそうなりかけていた」【現地発】
5月3日のヴィレムⅡ戦(1−1)で、会心のヘディングゴールを決めた塩貝健人(NECナイメヘン)は、「ドンピシャヘッドでした」と胸を張った。
ストライカーらしい精悍な面構え。しかし20歳の青年はオランダでのひとり暮らしに「たまにちょっと寂しいな。コミュニケーションが取れないし、日本人として悔しいこともある」と感じる時もある。試合に出ても、思うようにいかないことも多々あった。それでもNECでの練習中、ふと「俺、このメンバーの中でやってるんだ」と贅沢な環境に身を置いていることを痛感するという。
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「大学サッカーでプレーしていた自分が今、こうしてオランダリーグのクラブにいて、隣には日本代表の選手(小川航基)がいるし、ラッセ(・ショーネ/元デンマーク代表MF)とかすごい実績のある選手ばかり。そんな彼らがみんな当たり前のようにここでサッカーをやっている。それはすごい」
昨年8月25日、国立競技場で行なわれた早慶戦を終えると、プロサッカー選手としてオランダに渡った。
「プロは厳しい世界だなと思います。でもプロ1年目が海外というのは普通のことではない。キツイことも多いですけれど、恵まれているなと思います。日本だといろいろな誘惑もあると思うんですけれど、こっちではサッカー以外のことを変に気にする必要がない。結果がすべて。特に今日は何かをしたわけじゃないけれど、ゴールを取ったので監督から『ウェルダン!(よくやったぞ)』と声をかけられました」
欧州でプレーする同年代の選手たちは仲間であり、良きライバル。3月に成人を迎えた2005年生まれの塩貝は彼らとの仲をこう語る。
「道脇豊(ベフェレン/2006年4月生まれ)、後藤啓介(アンデルレヒト/2005年6月生まれ)、保田堅心(ヨング・ヘンク/2005年3月生まれ)も、海外でいろいろあると思うんです。道脇なんて高校生で来ている(注:今年3月卒業)。小杉啓太(ユールゴーデン/2006年3月生まれ)は一昨日、欧州カンファレンスリーグでチェルシーとやりました。僕もすごく刺激を受けます。お互いによく連絡を取り合っている。みんなA代表でやりたいと思っているし、いいチームに行きたいと思っている」
慶応の仲間たちの勇姿も塩貝の闘志をかき立てる。筑波大対慶応の4対4という壮絶な試合を見て、勇気をもらってからヴィレムⅡ戦に挑み、会心のゴールを叩き込んだ。
「筑波は大学サッカーで特別な存在です。逆に慶応はスポーツ推薦がないなかでみんな、オンもオフもこだわってやっている。今日、最後まで4対3で勝ってたんですが失点しちゃった。自分の同期で出ている選手もたくさんいた。僕がいた時を思い起こすと、同期の成長した姿は信じられないようでした。この試合を映像で見て、『今日は頑張んないとな』と思いました。日本からの刺激もあるので、もっと僕は頑張らないといけない」
それから1週間半後。5月14日にNECはNAC相手に3−0で大勝し、スタジアムはお祭り騒ぎとなったが、先発した塩貝は前線でボールを収めることができぬまま、前半いっぱいでベンチに退いた。
「チームとしてはプレーオフの懸かった試合で勝てたので良かったですが、個人的には何もできなかった。悔しいです」
――今日は明らかにCBに競り負けることが多く、ボールが収まった時もパスが定まらなかった。今日はこのふたつに尽きる。
「はい」
NAC戦についてそれ以上、私は塩貝に訊くことがなかったし、彼にとっても答えることが無かっただろう。
――今日の試合のことはこれで終わり。慶応と筑波の試合を見ました。3年生が同期ですよね? 彼らのプレーが「自分がいた時より成長したな」と感じたんですね?
「そうです。責任感みたいのもあって、それがプレーに出ていた。上から目線からしれませんが、めっちゃ成長しているなと感じました。僕がいた時、僕の代は誰も試合に出てなかったんですよ。だから3年生が関東1部リーグで筑波相手にあれだけやれているというのが、すごい成長だと思うんです。僕にとってもすごい刺激になります」
筑波戦で先発した3年生は3人、途中出場が1人だった。うち1人はGKを務めた渡辺快。ビルドアップ時にはCBふたりとアンカーでダイアモンドを作ったり、CBの1人と横並びになったりしながら積極果敢にパスワークに関わることで、11人の全員サッカーを具現化していた。
「キーパーの選手は去年、CチームとかDチームにいて僕は1回も一緒にプレーしたことがないので、あんまり分かんないんです。でも見ていてすごくやれてるなと思いました。嬉しかったし、負けてられないと思いました」
塩貝の入学時、慶応は関東大学リーグ3部だった。それが毎年昇格し、今年から1部の檜舞台に返り咲いた。
「1部→2部→3部と2年連続降格から3部→2部→1部と2年連続昇格で戻ってきたんです。僕の入学時は3部のどん底でした。でも1部にふさわしいくらい、サッカーに対する姿勢はあったと思います。他の大学がスポーツ推薦で選手をたくさん獲っているなかで、慶応はスポーツ推薦がない。その差を埋めるために、学生が主体的にやるべきことをどんどん上回りながら取り組んでいる。中町公祐監督も、その前の淺海友峰監督も理解のある指導者です。すごい僕のサッカー観を変えてくれたと思います」
國學院久我山高から入学した塩貝に対し、淺海前監督はピッチの内外で厳しく、熱く接したという。
「高校まで僕は点だけ取っていればいいというスタイルだったんですけれど、それ以外の守備のことも教えてくれる人でした。チームのために走ったり潰れたり、サッカー面もそうですが、人間的な面でもすごく熱い指導をいただきました。喝を入れられまくったし、練習でも2時間、監督と喧嘩して終わることもありました」
なんで喧嘩をしたのか。
「早慶戦前のことでした。自分で言うのもあれですが、高校選抜でプレーした選手が慶応に入ってくるというのはあんまりないので、やっぱり周りからの期待もあった。しかし自分が出てもあまり活躍できてなかった。サッカーのやり方に対しても、僕は怒りを示してしまった。その悪い雰囲気が周りに伝染してしまって、自分もめちゃくちゃになってしまった。今、こうやって海外で腐らずやれているのは、そこでやっぱり締めてくれた監督のおかげです。高校で一回輝いて消えていく選手が一定数いるじゃないですか。それで満足しちゃったり。僕もそうなりかけていたと思う」
もしかすると少し天狗になりかけた節もあったのか?
「そうです。天狗になっていたと思います。その前に初めて代表に選ばれて、満足していたところもあったと思います。そこからちょっと踏ん張って、大学リーグからオランダリーグというところまで来れたのは監督のおかげです。中町監督も元サッカー選手で理解のある方でしたし、人にすごく恵まれたなという思いがありますね」
塩貝が退部したときは中町氏が監督だった。
「ここに来れたのは中町さんの理解もありましたが、それだけではなくやはり横浜F・マリノス(注:塩貝は卒業後の内定含みの特別指定選手だった)の理解もすごく必要でした。マリノスが今、ちょっとうまくいってないけれど、心のなかではすごい上がっていってほしいクラブですし、マリノスのサポーターはすごく熱狂的だし、上がっていくべき存在だと感じてます。
大学に来て天狗になっていた自分を引き締めてくれた人がいて、やっぱりプロサッカー選手とかそういうのに理解のある監督に出会えて、マリノスには僕のことを気にかけてくれた強化部の人もいた。その人は自分に『絶対に世界の選手になれるんだ』と言ってくれていた。マリノスを経由してから世界に行きたかったところではありますが、次のワールドカップを視野に入れた時に時間がなかった。だからこそ、そういった人たちの理解のもとでここに来ることができました。だから、今日の結果はすごく不甲斐ない」
――私が見たなかで、今日が一番悪かったと思う。
「そうですね。自分のサッカーキャリアのなかでも、ここ数年で一番悪い日だったと思う。
ロヒール・マイヤー監督にも言われました。『それがサッカーだ』と。その通りだと思います。サッカーには良い時もあれば悪い時もある。今日は自分が悪かったなかでブライアン・リンセンが出て2点取り、悔しさに追い打ちをかけてきたんですけれど、でも次は自分の番だと思う。こうやって沈みがあったほうが僕は燃えます。また上がっていけばいいので。今日は悔しいですけれど次に向けて今から準備していきます」
筑波のFW内野航太郎は塩貝にとっては年代別日本代表のチームメイト。そんな大型ストライカーは慶応相手に1ゴール・1アシストを記録した。
「内野とは一緒にプレーしているし、すごい選手というのは分かっていたけれど、それをしっかり止めていた部分もあった。点は決められたけれど、自信を持つべきことだと思う。ちょっと関東1部で下位に沈んでいる(慶応は12チーム中11位)けれど、内野はやっぱりリーグで抜けている存在だし、慶応は彼に対してそのくらいやれるということを自信にして戦ってくれれば絶対に1部でも上位に食い込めると思う。まだリーグは始まったばっかりなので、これから僕も期待しています。慶応の人たちに刺激を与えられるような活躍を自分ができたらなと思います」
大学サッカーの春・夏・秋という季節の移り変わりは早くて濃い。夏に行なわれる早慶戦前、監督と喧嘩していたという塩貝は、秋の2部・3部入れ替え戦で4年生の思いを背負って戦った。
「青山学院との入れ替え戦も自分にとっては印象的な試合で。その年、僕はリーグ戦では得点王を取りました。青学戦は勝ったんですけれど、自分は何もできなかった。僕の兄貴(塩貝亮太)にとって最後の試合だったんです。責任感というのがサッカーに出ると思ってますが、そういう大事な試合で活躍できたのは俺じゃなくて兄貴だった。実力的には俺のほうがあったと思うんですが、最後はそういう気持ちの部分だと思うので、それをすごく感じた試合でした。
4年生にとっては最後の試合。最後の最後に足を出す先輩の姿だったり、めちゃくちゃな体勢でシュートブロックに行ったり、1年間ずっと型としてやってきた形そのままで得点したシーンもあったし、そういう意味でサッカーに対する姿勢は嘘をつかないと思います。明らかに熱量で相手との差があったと思う。すごく印象的な試合でした。前年は慶応がプレーオフで2部から3部に落ちた。(塩貝が入学した時の)4年生はそれがトラウマみたいになっていたので勝ててすごく良かったです」
1年半にも満たなかった“慶応ソッカー部”での日々。それでもそこで培った義塾の若き血は、遠くオランダ・ナイメヘンの地でたぎっている。
取材・文●中田 徹