沖田総司をしのぐ剣の使い手 池田屋事件の「生き証人」だった二番隊組長、永倉新八

大正2年5月に札幌で撮影された永倉新八(前列中央)と栗田鉄馬(同右)ら剣術仲間との集合写真=札幌市厚別区(北海道博物館蔵、池田祥子撮影)
動乱の幕末を駆け抜けた新選組。隊士の中でも一、二を争う剣の腕前だったとされるのが、二番隊組長の永倉新八(1839~1915年)だ。結成メンバーの一人で、池田屋事件をはじめとする最前線で活躍。仲間の多くが命を落とす中、明治維新後は数少ない生き残りの隊士として新選組の存在を後世に知らしめた。死去から今年で110年。ゆかりの北海道を舞台に2回にわたって永倉を追う。
「四天王」の一角
JR札幌駅の北西に位置する北海道大。正門近くの歩道に「誠」の旗が描かれ、「新選組隊士永倉新八来訪の地」の銘文が立つ。永倉の剣の腕前は、元新選組隊士が「一に永倉、二に沖田総司…」と評したほどだ。
「北大の学生に請われてこの地で剣術を披露した際、倒れたとのエピソードがあります」。永倉のひ孫、杉村和紀さん(58)が、永倉の晩年について明かす。高齢だったため家族に反対されたが、往時を思い出し血が騒いだのか、真剣を大きく振りかぶった際に卒倒したという。
松前藩家臣の次男として江戸で生まれた永倉は、神道無念流の道場で剣術を学ぶ。その後、天然理心流の近藤勇の道場に出入りするようになり、文久3(1863)年に近藤らと浪士組の一員として上洛。新選組創設メンバーとして活躍したが、明治新政府軍と江戸幕府勢力が戦った戊辰戦争中に近藤らと決別した。
明治に入り、松前藩の藩医だった杉村家の婿養子となり、「杉村義衛」として生きる。北海道・小樽で晩年を過ごし、大正4年に亡くなった。

北海道大近くの永倉新八来訪の地。永倉のひ孫、杉村和紀さん(右)と木村幸比古さん=札幌市北区(池田祥子撮影)
「永倉は客分ながら、近藤、土方歳三、沖田とともに『新選組四天王』と称される。知識や教養もあった」。同行する幕末維新史研究家、木村幸比古さん(76)が説明する。
活動後世に残す
永倉は晩年、小樽新聞の取材を受け、大正2(1913)年3~6月に70回にわたり回顧録が掲載された。また、長年幻の手記とされてきた「浪士文久報国記事」が平成10年に発見され、永倉によって新選組の存在が後世に伝えられた。木村さんは「近藤らと異なり、武士として教育を受けていたため、自分たちの行動を何らかの形で残そうという気持ちが強かったのだろう」とみる。

現在、北海道博物館で開催中の特別展「新選組永倉新八と会津藩士栗田鉄馬」。展示品の一つに、大正2年5月に札幌の写真館で撮影された1枚の写真がある。剣術仲間6人の集合写真で、前列中央の白いあごひげの人物が永倉だ。
杉村さんによると、身長165センチと当時としては背が高く、がっちりした体格。写真では、高齢ながら背筋がピンと伸びている様子がうかがえる。
動乱を生き抜いた新選組の剣士も、晩年は家族に囲まれ穏やかに過ごした。永倉ゆかりの展示品は、池田屋事件などで負った7カ所の傷について孫に向けて伝える手記など、家族が保管してきた貴重な品ばかり。愛用したチョッキは、もともと京都の呉服商・大丸で仕立てた黒羅紗(らしゃ)の陣羽織だったものを、戊辰戦争で会津に転戦した際にチョッキに仕立て直したことなどが記されている。

北海道博物館で開催中の特別展。近藤勇や土方歳三が使用した防具など、新選組ゆかりの品も多く展示されている=札幌市厚別区(池田祥子撮影)
杉村さんは「幕末は日本が一番動いていた時代。最前線で戦って生き残った曽祖父について知ってもらえたら」と話している。
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特別展は15日(月曜休館)まで。
もう一人のサムライ 栗田鉄馬
北海道博物館で開催中の特別展で、焦点が当たるもう一人のサムライ、会津藩士の栗田鉄馬(1839~1917年)。6人の剣術仲間の集合写真で、永倉新八の向かって右側、腕を組むあごひげの人物だ。
戊辰戦争で敗れた会津藩士らの一部は、当時は未開の地だった北海道に入植。慣れない開拓作業で苦しい生活を強いられた。そうした中で、明治11(1878)年に栗田は、開拓使札幌本庁勧業課に「画工」として雇われる。写真が一般的ではなかった時代、報告書などの公文書に栗田の絵が添えられた。
明治20~30年代には、札幌で出版された石版画の原画制作に取り組み、アイヌ民族の文化や神社の祭礼をテーマにした数々の作品を生み出していった。
会場には、栗田が手掛けた約40点の精巧な作品が並ぶ。「日本画だけでなく、西洋技法の製図も描いている。会津などで絵を学んだのではないか」。特別展を企画した北海道博物館の学芸部長、三浦泰之さん(51)は推測する。
当時、栗田は札幌では有名だったとみられるが、日本史としては歴史に埋もれた存在となった。その生涯に三浦さんはひかれた。
「栗田の絵が好きで興味を持ったことがきっかけだった」。23年前から栗田について調べ始め、後に永倉の集合写真に写る人物の一人が栗田だと知り、特別展の着想を得たという。
栗田は絵師として活躍する一方、剣術家としても名をはせていた。道場で指導し、明治44(1911)年には北海道を訪れた皇太子の前で御前試合を披露したほどだった。
「永倉とは幕末に交流が始まり、激動の時代を生き抜いた末、大正時代に同じ写真に納まっている。おもしろいと思いませんか」。特別展では幕末を生きた2人のサムライの交錯した人生を描き出している。(池田祥子)