【特集】資金はあるのか? 参戦できなかったF1チーム……その5つの事例を検証。今度はケータハム復活が画策されているとの噂も

 motorsport .comは今週、ケータハムの名がF1に復活するという噂を報じるメールを受け取った。

 このメールには、「サード・カシス-モハメド・キャピタルは、FIAの承認と商業権所有者の合意を得られることを条件に、2027年を目標に、新規参入企業SKMレーシングとして、休眠中のF1チームをグリッドに復活させる計画を進めていることを発表する」と記されていた。

 来季からはキャデラックがF1に新規参入することになっているが、これが認められるまでには紆余曲折があり、ある意味騒動とも言える状況にも陥った。そのことを考えると、このSMKレーシングのF1参入が認められる可能性は、高くないと言わざるを得ない。

 このプロジェクトを指揮しているのは、クウェート出身の起業家・投資家・そして慈善家であるサード・カシス-モハメドである。この人物は最近では、経営難に陥っていたイングランド・リーグ1所属のサッカークラブ”レディング”の買収候補としても名前が挙がった。しかしこの投資は実現しなかった。

 彼らが発表した新規F1チームの存在について、信じるべきではない理由が数多くある。本稿ではその実例をいくつか挙げる。

ラッキーサンズの事例(2021〜2023年)

ラッキーサンズの事例(2021〜2023年), ■ステファンGPの事例(2010〜2019年), ■チーム・ドバイF1の事例(2006年), ■フェニックス/DARTグランプリの事例(2002年)

LKY SUNZ logo

 ベンジャミン・デュランのF1における活動は、2019年にパンテーラ・チーム・アジアの結成を発表したところから始まった。直近では世界耐久選手権(WEC)に参戦するLMP2チーム、SMPレーシングのマネージャーを務めていたデュランは、ハースF1のモデルを踏襲する形……つまり現在のレギュレーションで許されている範囲内で、可能な限り他チームやサプライヤーから調達するコンポーネントを使い、F1への参戦を目指すと主張した。

 そしてデュランが主張したのはもうひとつ。リバティ・メディアが買収した後のF1は、アメリカでの視聴者/ファン拡大には成功しつつあったものの、アジアでの視聴者層の拡大には貢献できていないというものだった。

 2021年からの参戦を目指し、シルバーストンの拠点で人員を雇用し、運営するという話はあったものの、結局パンテーラは参戦申請にも至らなかった。当時F1のマネージングディレクターを務めていたロス・ブラウンは、早くても2022年までは新規参戦は検討しないと述べ、「歴史から学ぶ必要がある。これまで多くの小規模なチームが参入し、消えていったが、F1に貢献することはなかった」とも断じたのだ。

 デュラン氏は2020年に一時的に姿を現し、予備的な設計とエンジン供給契約の基礎作業に取り組んでいる人員がまだ存在すると主張したが、「F1側の動向を見てから、詳細をお伝えする」と語るにとどめた。

 その後2023年まで音沙汰がなかった。しかしFIAが新チームの入札プロセスを開始することを決定したことを受け、プロジェクトが復活。LKY SUNZ(多くのアジア文化圏で太陽が崇拝されていることにちなみ、”ラッキーサンズ”と発音)とブランド名も変更された。計画では、アジアに拠点を置き、「若者の文化に重点を置く」こと、そして地域社会の貢献にも焦点を当てることが盛り込まれた。

 10億ドルの予算、アメリカを拠点にするレジェンズ・スポーツ・アドボケーツ・グループからの支援、そして希薄化防止基金への6億ドル(当時の一般価格の3倍)の拠出を表明していたにもかかわらず、入札は却下された。技術面や財務面の詳細が欠如していたこと、そして同チームの実際の活動実績が伴っていなかったことが、入札却下につながった理由だと考えられる。

 同社は2023年の12月に解散した。

■ステファンGPの事例(2010〜2019年)

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Zoran Stefanovic, with a 2009 Toyota TF109

 F1が2010年代末に新規参入を受け入れなかった理由のひとつは、2017年のオーストリアGPの週末に、セルビア人の実業家であるゾラン・ステファノヴィッチと会談したことがあるかもしれない。

 ステファノヴィッチはその会談の際、イタリアに拠点を置くF1チームを設立する意向を発表したのだった。

「オーストリアに来る前に、いくつかの非常に重要な合意をまとめた」

 ステファノヴィッチは当時、motorsport.comの取材にそう答えている。

「風洞から適度な距離があるパルマに、拠点を置くことを決めたんだ」

「またこのプロジェクトに協力してもらうために、空力の専門家とも契約を結んだ」

 その専門家とは、ウイリアムズFW11やフェラーリ640といった伝説的F1マシンの開発に携わった実績を持つ、エンリケ・スカラブローニだったと言われている。

 多くの続編小説や映画は、基本的に原作の筋書きを踏襲している。それと同じように、ステファノヴィッチの提案は、既視感に満ちていた。

 2010年、F1は世界金融危機の影響によりホンダやトヨタ、そしてBMWといったメーカーが撤退した後を受けて、新規参入枠を3枠募集した。ステファノヴィッチはそこに入札したが、ロータス・レーシングやヴァージン、そしてHRTに敗れる格好で、参戦権を獲得することはできなかった。

 しかしステファノヴィッチは諦めなかった。彼はトヨタの中止されたF1プロジェクトの一部を取得し、トヨタのドイツ・ケルンの拠点からF1参戦する計画を推進した。開発はアロウズやマクラーレンのデザイナーを務めた経験を持つ、マイク・コフランが担当する計画だった。このコフランは、2007年に発生したスパイゲート事件の主要人物だったひとりである。

 マシンは、トヨタが2010年用に開発していた、TF110と名付けられるはずだったモノを使う予定だった。トヨタの撤退発表は、2009年シーズン閉幕後に行なわれたため、すでに翌年用マシンはほぼ出来上がっている段階だったのだ。

 2010年の2月、ステファノヴィッチはmotorsport.comの電話インタビューに応じ、ジャック・ビルヌーブと交渉中であること、また中嶋一貴との契約は既に締結済みであることを明かした。また、ステファン01(つまりTF110になるはずだったマシン)の初始動も完了していることも明言された。しかし実際に参戦するかどうか、またタイヤ供給契約の有無など重要な点については、かなり曖昧な回答に留まった。

「現時点でブリヂストン(当時のF1タイヤ単独サプライヤー)から得ているのは、F1に参戦しているチームにのみ、タイヤを供給するという回答だった」

 そうステファノヴィッチは語った。

「しかし、GP2タイヤなら供給してくれる可能性については否定しない」

 結局このプロジェクトは何も実現しなかった。そんなステファノヴィッチが2017年に再びF1のパドックに姿を見せた際に、多くの反発が起きたのも決して不思議ではない。

 ちなみに翌年、TF110は組み上げられ、中嶋一貴の手によってケルンのファクトリー敷地内でデモ走行を披露している。一説にはかなりのポテンシャルを秘めたマシンだったとも言われており、これが日の目を見なかったことは残念でならない。

■US F1の事例(2010年)

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Bob Varsha hosts the USF1 Press Conference with Ken Anderson and Peter Windsor

 2008年の初冬、世界的な金融危機が発生。自動車業界は大打撃を受けた。これにより自動車メーカーの多くがF1から撤退する可能性が生じたため、当時FIAの会長を務めていたマックス・モズレーは、低価格の公認パワートレインの導入やグリッド上での新たなポジションなど、様々な入札プロセスを発表した。そして2009年のル・マン24時間レースの週末に発表された落札チームのリストは、大きな動揺を引き起こした。

 マノーとカンポスによる落札は、ジュニアフォーミュラで着実に実績を積み重ねていたため、納得できた。しかし、ハースの元テクニカルディレクターであるケン・アンダーソンと、元ジャーナリストのピーター・ウインザーが率いるUS F1は、いったいどうやって高い実績を誇るプロドライブやローラを凌駕したのだろうか……と。

 モズレーにとっては、政治的な問題は常に身近であった。彼とF1の”ボス”でもあったバーニー・エクレストンは、独自の新しいシリーズを立ち上げることを目指して発足したF1チーム協会(FOTA)に加盟する8つのエントラントと、F1の主導権を巡って激しい争いを繰り広げていた。

 そんな中でUS F1が、新たな参戦権を手にすることになった。彼らはYouTube創設者のチャド・ハーレーの支援を受けているとされ、チームがF1に参戦するまでにあらゆる側面を動画で記録し、F1史上かつてないほど門戸を開放したチームになると確約されていた。拠点も、アメリカの”モータースポーツ・バレー”と呼ばれるカリフォルニア州シャーロットに置いていたため、設備の面でも困ることはなかった。

 しかし数ヵ月と経たないうちに、US F1のプロジェクトが大幅に遅れているという噂が飛び交い始めた。約束されていた動画が公開されなかったことも、その噂に拍車をかけた。

 夏の終わりに、GPレーシング誌の取材班は、シャーロットの拠点に招待された。しかし記者は、困惑した様子で帰国することになった。記事のネタとなる写真がほとんどなく、アンダーソンに至っては常軌を逸した様子で、奇妙なほど定期的にスターバックスに駆け込んでいたという。

 そんな噂があったにもかかわらず、チームは2010年のドライバーとして、ホセ・マリア・ロペスを起用することを発表。彼はそれまではルノーのテストドライバーであったが、母国アルゼンチンから800万ドルとも言われるスポンサーマネーをもたらすことで、US F1のシートを得ることができたと言われた。

 2010年2月、シーズン開幕まで数週間を切った頃、オートスポーツ誌は匿名を希望するチーム関係者へのインタビュー記事を掲載した。その内容は衝撃的で、開発のプロセスが根本的に崩壊していたことを示唆していた。マシンは完成にはほど遠く、スポンサーも全くついていなかったのだ。

 アンダーソンは設計のあらゆる側面を自分に提出するよう強く求め、それが開発を妨げるボトルネックになっていたとも報じられた。

「正式な計画や文書はほとんど存在しなかった」

 そう匿名の関係者は語った。

「生産のスケジュールなどなく、計画そのものがほとんど存在しなかったのだ」

 この記事を読んだエクレストンは、親しい人物をUS F1のファクトリーに派遣した。そこで彼が目にしたものは、モノコックといくつかの空想、そして積み上げられたスターバックスのレシートの山くらいだったという。

 エクレストンはすぐにFIAの新会長になったジャン・トッドに連絡。トッドはレースディレクターのチャーリー・ホワイティングをファクトリーの視察に派遣した。彼は必然的に、US F1が行き詰まっているという結論に達した。

 開幕2週間前、テストを欠席したチームはFIAに対して、参戦開始を2011年に延期することを申請した。しかしその申請は忽然と消え去り、ロペスが調達した800万ドルも使い果たされた。そして、何も残らなかった。

■チーム・ドバイF1の事例(2006年)

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Russell King

 2004年10月、「チーム・ドバイF1」と名乗る企業が、メルセデスのエンジン供給とマクラーレンの技術支援を受け、1シーズンあたり1億ドルの費用で、2006年からF1に参戦する計画を発表した。このチームは、ドバイを拠点としていた。

 関係者の多様さと当時の状況を考えると、この提案は当初から強い懐疑的な見方を招いた。チームの代表者であるティモシー・フルトンは、ドバイの王家アル・マクトゥーム家の広報担当者でもあった。そのため、王家という超強力なバックボーンがあるようにも見えた。

 ただ当時、少なくとも3つのF1チームが売りに出されていた。そのうちのひとつを買収する形が、もっとも効率的なF1参入への道であるのは明らかだった。しかしフルモーは、その道筋を辿ろうとはしなかった。

「既存チームを買収する形では、成功は必然的に既存チームのブランドと価値観に結びつくため、我々のコミットメントと卓越性を十分に発揮することはできないと、最終的に結論づけた」

 フルトンは当時、そう声明で語った。

 しかし最も懐疑的な見方を招いたのは、チームを支える周りの人物たちの存在であった。

 プレスリリースを送付したのは、ベルグレイヴィア・グループと名乗る企業で、計画中のチームの背後にいるグランプリ・インベストメンツに助言していると謳っていた。しかしこのふたつの企業は、登記上の住所が同じというだけでなく、いずれもジョン・バイフィールドとラッセル・キングという人物が関与していた。

 このキングという人物は、当時のF1界で厄介な人物と見られていた。この頃、ジェンソン・バトンがBARホンダおよびウイリアムズと二重契約してしまうという事件が発生したが、キングはこの件にも関与したとされる。結局バトンは、ウイリアムズに約3000万ドルとも言われる巨額の違約金を支払うはめになった。

 この件に関連して、BARのチーム代表を務めていたデビッド・リチャーズは、キングのパスを取り上げるようエクレストンに進言したという。

 バイフィールドも、後にキングを距離を置くべく躍起になった。それもそのはず。キングは詐欺罪で有罪判決を受けており、さらなる有罪判決が加わる可能性があった。

 FIAの参加保証金として、4800万ドルを用意していると主張したにも関わらず、チーム・ドバイF1はそのあと何の音沙汰もなく、姿を消していった。しかしキングは引き続き暗躍。2009年にBMWザウバーを買収しようとしたカドバックの立役者として、再びパドックに姿を現したのだ。この時、当時マクラーレンのチーム代表を務めていたマーティン・ウィットマーシュが真っ先に警鐘を鳴らした。

 結局BMWは、チームをカドバックではなく、創設者のペーター・ザウバーに売却することになった。

 キングはその後、バーレーンに潜伏していたが、ジャージー島へと身柄を引き渡され、詐欺と窃盗の罪で懲役6年の判決を受けた。

■フェニックス/DARTグランプリの事例(2002年)

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Gaston Mazzacane, Prost AP04

 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、F1のエントリーリストは定員オーバーになっており、下位チームは金曜日の朝に行なわれる予備予選を戦わねばならなかった。ここで負けた者は、正式なレースが始まる前に、機材を片付けなければいけなかった。

 しかしそれ以前に、サーキットへの入場を一切許されない……そんなチームもあった。

 それは、チャールズ・ニッカーソンが率いる、フェニックス・グランプリの運命だった。ニッカーソンは実業家だが、1980年代初頭には、トム・ウォーキンショーと共にTWRジャガーを駆って実際にレースをしていた。

 ニッカーソンは2001年の後半、この年限りでF1から撤退することになったプロスト・グランプリの資産の一部を、自身の会社であるフェニックス・ファイナンスを通じて買収。2002年からフェニックス・グランプリとしてF1に参戦しようとした。

 しかしフェニックス・グランプリは、プロストの2001年マシンAP04のマシンとその知的財産権を所有していたものの、それ以外には何も持っていなかった。

 2001年の開幕戦には、旧プロストのマシンがまだファクトリーに到着していなかったため、チームはノーズコーン2個を車検に提出した。第2戦マレーシアGPには、最小限のスタッフがサーキットにやってきたが、パドックへの入場を拒否された。

 FIAとしてはフェニックス・グランプリは新チームであるため、必要なエントリー保証金を支払うよう求めた。これに対してニッカーソンは、フェニックス・グランプリはプロストの後継チームであるため、エントリー保証金を支払う必要はないはずだと主張した。

 ウォーキンショーはこの事業からは公には距離を置いていたものの、そのマシンは実際には、イギリス・リーフィールドにあるTWR(トム・ウォーキンショー・レーシング)アロウズのファクトリーで準備されているのは周知の事実であった。フェニックス・グランプリのクルーも、元アロウズのテストチームから抜擢されてきた面々であり、それも含めて見せかけに過ぎなかった。

 マシンも大変なものだった。プロストAP04には、エイサーのブランド名がつけられたフェラーリV10エンジンが搭載されていたが、それを入手できず。そのためフェニックス・グランプリのマシン”AP04B”は、AP04のモノコックにアロウズの3人乗りF1マシンAX3のギヤボックスとサスペンション、そしてTWRチューンのハートV10エンジンが無理やり搭載されていた。なんとエンジンは、1998年に開発されたものであった。

 ウォーキンショーは、チームのエントリー権は、数周でもいいから軽くサーキットを”流す”だけで、継続できるという信念を持っていた。実際、ウォーキンショーが所有していたアロウズもこの年資金難に陥り、終盤には同様の手段を取った。

 ただ第2戦の開催サーキットであるセパンに入れなかったことで、ドライバーに決まっていたガストン・マッツァカーネとトーマス・エンゲは、不名誉な走行を強いられずに済んだと言えるかもしれない。

 混乱はその後も収まらず、チームの名称は突如DARTグランプリへと変えられ、混乱に拍車をかけた。

 ニッカーソンはF1参戦権の有効性を巡ってFIAとFOMを相手取り、裁判所に訴えを起こした。しかしこの訴えは棄却され、チームにエントリー保証金の全額を支払うように命じた。

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