日本語を学ぶ外国人が「日本人の話し方」に驚愕…「誰も教科書通りに話していない…」
ハイコンテクストな日本語
「日本語は感情表現に富んだ言語だ」と言われることがある。確かに日本語ならではの情緒や感情の機微を示唆する表現は諸外国語に比較するととても多く、微妙に異なる言い回しを使い分けることで、私たちの日常のコミュニケーションは成り立っている。
日本語は世界に数ある言語の中でも、最もハイコンテクストな言語の一つだ。「ハイコンテクストな言語」とは、文脈や会話の状況、会話する人間同士の関係など、文章内に明記されていない事柄に大きく依存する言語のことを指す。つまり、「いちいち全てを言葉で明示せずとも、最低限の表現だけでお互いに正確なコミュニケーションが成り立つ」のが日本語の特徴だ。
日本語のハイコンテクストさに関して、簡単な例を挙げるとすれば、「明日メール送るね」だろうか。
この短い一文だけで、私たち日本人は「明日(私は)(あなたに)メールを送るね」という意味であると理解できる。むしろ、主語や目的語をきっちりと明示して「明日私はあなたにメールを送るね」と言うのは、文法的に何の間違いはないにせよ、どうにも変な感じがする。発話しているのは「私」で相手は「あなた」という状況なのだから、いちいち人称を明示しなくとも伝わるのは当然のことだと思う人もいるかもしれない。
しかし、英語など欧州系の言語ではこうはいかない。”I am going to send you an e-mail tomorrow.”と、「I(誰が)」「you(誰に)」メールを送るのかをいちいち明示しないと文章が成り立たないのだ。英語のように、文脈や状況にあまり依存せずに文章を構成する要素を出来る限り明示したがる言語は、日本語のハイコンテクスト言語とは対照的に「ローコンテクスト言語」と呼ばれる。

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外国人にとって難しい日本語の言い回し
日本語を母語として操る私たちにとっては、特別に意識することはなくとも、会話の状況や文脈、相手との関係性によって言い回しや単語を微妙に変えることで、円滑なコミュニケーションができる。しかし、日本語を母語とせず外国語として学習する外国人にとっては、ニュアンスや状況に大きく依存した日本語の表現や言い回しはとても難しく感じられるのだ。
前回記事【外国人が驚く「日本語」の「特殊なルール」…日本人には思いもよらなかった】では、筆者自身がカナダで日本語教師として働いていた経験から、初級から中級レベルの日本語学習者が驚くことや戸惑うことをいくつか紹介した。外国人には聞こえにくい促音(小さい「っ」)や、動詞の未来形が存在しない日本語独自の時制など、私たち日本人が気にも留めないことが、異なる母語で育った外国人にとっては新鮮に感じられることが分かった。
今回の記事では、中級から上級レベルの日本語学習者が感じる日本語の難しさにスポットライトを当てたい。どの学習者も、教科書に沿って文法をひと通り学習し、会話も読み書きもかなり上手にできるようになったレベルだ。
このレベルに至った外国人学習者は「日本語は発音が簡単で文法もそこまで複雑ではないので習得しやすい。しかし、日本語を上手に操るのはとても難しい」とよく言うものだ。彼らが感じる日本語会話の難しさの要因は、「日本人は誰も教科書で学習した通りに話していない」という点に集約しているように筆者は思う。
日本人は誰も教科書通りに話していない?
初級レベルの日本語学習者が日本語を使って会話する機会は、授業内で学習した文法を使用した会話の練習や日本語教師との会話に限られる。なので、学習者側は基本的に教科書に書かれた通りの表現だけを使うし、教師側もそれに合わせて「教科書的な」日本語を使って学習者と会話する。
英語をはじめとする欧州系の言語においては、日本人が中学や高校で学んだ通りの「教科書的な」文法がそのまま会話で使われている。もちろんネイティブならではの言い回しや、教科書に載っていないスラングなどはあるだろう。しかし基本的に「瓶ビールはありますか?」は”Do you have a bottle of beer?”一択だし、「駅に行きたいです」は”I want to go to the station.”で済む。むしろ欧州系の言語は、この「教科書的な」文法をそのまま使ったもの以外の表現のバリエーションが限られているとも言える。だからこそ、動詞の活用や文の構造のルールなど教科書に沿った基本的な事柄さえしっかりとマスターすれば、欧州系の言語は正しく話せるようになるのだ。
では日本語はどうだろうか。中級や上級レベルになった日本語学習者の大半は、すでに旅行で日本に渡航した経験があったり、現地で日本人の友人がいたりと、「生の日本語」を使用して会話した経験がある場合がほとんどだ。こうして「生の日本語」のシャワーを浴びた学習者たちはまず間違いなく、教科書で学んだ日本語の例文と実際の日本語会話が大きく乖離していることに気が付く。
筆者が日本語学習者に「実際の日本語会話で難しかったことは?」と尋ねた際に最も多かった意見が、「~んです」の使い方だ。

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使い方がとても難しい「~んです」
「~んです」という表現は、「~のです」が撥音便化した表現だ。「そうなんですよ」「知らなかったんですか?」など、私たちが無意識的に毎日使用している表現でもある。
一つ例を見てみよう。旅行者が駅員に質問するという状況で、「東京に行きたいですが、どの電車に乗れば良いですか」と「東京に行きたいんですが、どの電車に乗れば良いですか」の二つの会話文のうち、どちらがより自然に感じられるだろうか。
日本人の大半の人は、間違いなく後者が自然だと考えるだろう。前者の「東京に行きたいですが~」も文法的に全く間違いではない。しかし不思議なことに、前者を用いた発話者は日本語ネイティブではないことが「ん」たった一文字で露呈してしまう。
日本で育った日本語母語話者には、この「~んです」の用法を体系的に学習する機会はない。しかしこの状況では、「東京に行きたいんですが~」がより自然であると誰もが理解できる。ではなぜ「ん」のたった一文字が大きな違いを生むのか。この点をちゃんと説明できる人は少ないのではないだろうか。
日本語教育においては「~んです」を「話し手もしくは聞き手にとっての新情報」という教え方をする。上の例だと、「東京に行きたい」は話し手にとっては既知の情報であるが、聞き手にとっては新しい情報だ。そのため、自分と相手が同じ前提を共有していないことのサインとして、「行きたいんですが」と「ん」を挟むのが自然となる。
他にも、私たちが毎日のように使用する「そうですか」「そうなんですか」などの相槌表現においても、この「~んです」の有無が大きく印象を変化させている。「そうですか」は単に納得を表す相槌に過ぎないが、「そうなんですか」は、相手の話の内容が話し手にとって新しい情報であったことが示唆され、それに対する驚きや同調などの感情を含んでいる。
欧州系の言語では文法的に表現できない
興味深いのは、英語をはじめとする欧州系の言語では、日本語の「~んです」を文法的に表現できない点だ。「そうですか」「そうなんですか」はいずれも”I see.”としか言えないし、「そうなんですか」のように新情報に対する驚きや同調の気持ちを表したい場合は”Oh I see!”などと語調を変えたり、”I didn’t know that!”のようにより明確な文に書き換える必要がある。日本語のように、話し手の感情を文法事項として表現することができないのだ。
「~んです」は日本語会話においてとにかく多用されることもあって、学校によっては初級など比較的早い段階で教える場合も多い。しかし、これをしっかりとマスターできる外国人学習者は少ない。読み書きが完璧で難しい単語も使いこなせる日本語レベル上級の外国人であっても、この「~んです」が上手に使えない人は意外にも多いのだ。
この「~んです」の難しさに関して、筆者が受け持っていた生徒が日本に旅行した際のエピソードがある。日本人の友人と飲食店を訪れた彼は、店員に「お煙草吸われますか」と尋ねられた。彼は喫煙者なので喫煙席に案内してもらうと、日本人の友人に「お煙草吸われるんですか?知りませんでした」と言われ、「どうして二回も煙草を吸うことを尋ねられるのだろうか」と混乱したのだという。
彼にとっては、店員による「お煙草吸われますか」と、友人による「お煙草吸われるんですか」は、英語にするといずれも”Do you smoke?”という単なる疑問文に聞こえる。しかし先述の通り、友人による「お煙草吸われるんですか」は、友人にとっての新情報(=彼が煙草を吸うこと)に対する驚きや興味などの感情が含まれているのだ。

使いこなすのが難しい「~だっけ?」
日本語学習者がうまく使いこなせない表現は他にも多くある。「~だっけ?」という会話表現もその一つだ。
「誕生日いつだっけ?」「この人の名前は何でしたっけ?」など、私たちが毎日のように使うこの表現。「誕生日いつ?」や「この人の名前は何ですか?」という「~だっけ」なしの文とは、やはり受ける印象が異なる。
「~だっけ?」は、過去・完了を表す助動詞「た」に終助詞「け」が付いて促音便化したもので、既知の事実を相手に確認する意味を持つ。「誕生日いつ?」が単に話し手が知らない情報を相手に尋ねる疑問文であるのに対し、「誕生日いつだっけ?」は話し手がすでに知っているはずの情報を相手に確認するために尋ねているという違いがある。
この「~だっけ」の使い方は、外国人にはとても難しいそうだ。誕生日も出身地についてもすでに話したことがある友人に、「誕生日いつ?」と「~だっけ?」なしで尋ねるのは、日本語母語話者にとってはやはり変な感じがする。しかし英語など多くの言語では、この「~だっけ?」を文法的に表すことができず、”When is your birthday?”の一択になる。「すでに知っている情報を相手に確認したい意思を示す」という相手に対する気遣いのような概念は、日本語に独特であるような気もする。
感情表現の豊かさに感動する外国人
はじめに「日本語は感情表現に富んだ言語だ」と書いたが、実は多くの外国人学習者は最初のうちはこれに気が付かない。日本人の中にも「”I’m happy that~”(~で嬉しい)や”I feel sorry for~”(~が残念だ)のように、話し手の感情を単語で明確に表す英語の方が、感情表現に富んでいるのでは?」と考える人もいるのではないだろうか。
確かに洋画などを観ていると、登場人物が身振り手振りを含めながら喜怒哀楽を込めて会話しているシーンをよく見るし、声のトーンなどの抑揚もバラエティーに富んでいる。ここだけを見ると、「英語などの欧州系言語は感情表現が豊かである」と言えそうな気もする。
日本語学習者にこの点を質問されるとき、筆者が決まって出す例がある。それは「”It’s raining.”を日本語でどう訳すか」というものだ。
直訳すると「雨が降っている。」となり、日本語の授業でもそのように教える。しかし、日本語母語話者が日常で「雨が降っている。」とだけ言う機会はとても少ない。「雨が降っているよ」「雨が降っているね」「雨が降っているなあ」「雨が降っているぞ」など、日本語に独特の終助詞をつけて表現するのが自然だ。同じ「雨が降っている」という事象を話し手がどう捉えているのか、聞き手にどう伝えたいのか......などのさまざまな要素が、終助詞たった一文字に含まれているのだ。

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それだけではなく、日本語ではこの終助詞一文字だけで話し手がどういう状況に置かれているのかある程度想像することができる。「雨が降っているね」なら独り言ではなく誰かと一緒にいて窓の外を眺めながら相手に同意を求めているわけだし、「雨が降っているなあ」ならおそらく独り言、「雨が降っているぞ」ならきっと今起きて窓の外を見たばかり......といったように。
たった一文字で、話し手の気持ちや会話の状況までを想起させる魔法のような日本語の終助詞は、もちろん英語など欧州系の言語には存在しない。”It’s raining.”はどこまでいっても「雨が降っている」という事象の描写にすぎず、”I’m happy that it’s raining.”(雨が降って嬉しい)のように他の文を加えて感情を明示したり、”Oh, It’s raining……”のように声のトーンや表情を変えるしか、「雨が降っている」という事象に対する話し手の感情を含める手段はないのだ。
日本語を耳にした外国人が「日本語は抑揚がとても小さくて機械のように無感情に聞こえる」と言うのは、もしかしたらこの終助詞が一つの要因なのかもしれない。日本語では終助詞の一文字を変化させることで感情をのせることができるのだから、英語のように声のトーンを大きく変えて感情を表す必要はないのだ。
短い一文で状況や感情をぼんやりと表現できるという点においては、日本語はとても文学的な言語だと言えるのかもしれない。実際、海外で日本文学が高い評価を受けているのは、この日本語独特の言語文化も一つの要因なのではないだろうか。
日本人は日本語を説明できない
日本語を学習する外国人が驚き、使いこなすのに苦労する表現を、「話し手の感情」や「情景描写」という面から分析してきた。そもそも欧州系の言語とは言語グループが大きく異なる日本語は、文法や語彙など多くの面において独特の存在感を放つ。日本語を学習する外国人にとって、この違いの大きさこそが習得ハードルの高さであり、それと同時に魅力的な点なのかもしれない。
国によっては、母語の文法を学校でみっちりと学習するところもあるが(例えばフランスでは母語話者・非母語話者にかかわらずフランス語の文法をみっちり学ぶ授業が中学まである)、日本で生まれ育った私たちは、国語の授業で漢字や読書を学びはするものの、日本語の文法を学校教育で学ぶ機会はとても限られている。そのため、外国人に「どうしてここではこの表現を使うの?」と尋ねられても、困ってしまう場合も少なくない。

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かくいう筆者も、日本語教師として働きはじめるまで、日本語の文法を正確に解説することなどできなかった。「行きます」と「行くんです」の違いなど気にしたこともなかったし、「~だっけ」が英語に訳しづらいという点についても考えたこともなかった。おそらく多くの日本人がそうなのではないか。
「母語としての日本語」というフィルターがない外国人学習者の着眼点は、常に私たち日本語母語話者にとって新鮮なものだ。外国人学習者ならではの気づきや疑問が、私たち日本人自身の日本語についての知識をより深いものにしてくれる場合もある。
国際交流というものは、他所の文化に触れ他所の人間と関わることで自身の世界を広げるだけではなく、他所の文化や人間と関わることで自国文化への理解を改めて深めることにもつながるのかもしれない。グローバル化というものはきっと、こうした自国文化への深い理解の先に実現されていくものなのだろう。