「私、死ぬんですか?」微熱で検査したら急性白血病だった元NHKキャスター 夜中に「死に対する恐怖」が押し寄せてきて

元NHK放送局キャスターの小澤由実さん。子育てをしながらフリーランスとして仕事をしていた2022年に白血病が発覚し、7か月もの間入院する闘病生活を余儀なくされました。病気のことを、当時小学生と中学生だった娘さんに伝えたときの反応は対照的で…子どもの前では気丈にふるまっていた小澤さんも、夜中には死への恐怖で涙したといいます。(全3回中の1回)

微熱が1か月以上続いても年齢のせいにしていた

微熱が1か月以上続いても年齢のせいにしていた, 白血病の診断を受け「私、死ぬんですか?」, 母の病気を知った娘たちの反応は…, 夜中になると死に対する恐怖が押し寄せて

小澤由実

小澤由実さん

── 2022年4月に白血病だと判明したそうですね。どのような症状があって気づいたのでしょうか?

小澤さん:まずは微熱から始まりました。ある日の夕方、37度台前半の熱が出て、「あれ?ちょっと体調が悪いかな?」と思ったのですが、翌朝には熱が下がってすっかり元気になりました。なので、「自律神経の乱れか、ちょっと疲れが出たのかな」というくらいに思ってやり過ごしていました。

そこから3日に1回、夕方決まったように微熱が出て、翌朝は下がっているという症状が現れ、1か月くらい繰り返していたんです。でも微熱程度だし、今まで大病をしたこともなかったので、「40代だし年齢的なものだろう」と病院へは行かず、そのまま生活を送っていました。

けれども、その微熱が出る間隔が2日に1回となり、毎日のようになり…発熱の間隔が狭まってきたある日、駅の階段を上っているときに、足が鉛のように重くなって持ち上げるのが難しくなったんです。必死に階段を上ったのですが、ぜいぜいと息切れをして。「これはただの老化現象じゃない」と、ようやく気がつきました。そのうちに微熱ではなく38度台の高熱が出たので、いよいよ体調がおかしいなと思い、近所のクリニックを受診しました。

── クリニックは何科を受けたのですか?

小澤さん:内科です。 そのクリニックでレントゲンを撮り、血液検査をしました。レントゲンは異常なかったのですが、血液検査の数値を見た医師から「血液の病気の疑いがある」と言われました。「詳しくはこまかい検査をしないとわからないので大きな病院に行ってください」と言われ、1週間後に紹介状を持って大学病院へ行きました。

── 内科のクリニックでは、はっきりとした病名がわからなかったんですね。

小澤さん:より精密な検査が必要だということでした。その時点では血液の病気と言われても、具体的にどんな病気があるのかもまったくわかりませんでしたし、白血病のような大病とは思ってはいませんでした。 大学病院に行ったときに、改めてレントゲンとCTスキャン、血液検査と骨髄検査もして、その日のうちに「白血病」という告知を受けました。

白血病になると骨髄で白血病細胞が増加することにより正常な血液細胞がつくられなくなります。そのため、赤血球、血小板、白血球が減少して貧血状態になるのですが、私の場合はもうかなり貧血が進んでいて「輸血が必要です。すぐに入院してください」と言われたのですが、その日はベッドが空いておらず…。とりあえず輸血だけをしていったん帰宅し、入院準備をして翌日入院しました。入院期間は約半年になると言われました。

白血病の診断を受け「私、死ぬんですか?」

微熱が1か月以上続いても年齢のせいにしていた, 白血病の診断を受け「私、死ぬんですか?」, 母の病気を知った娘たちの反応は…, 夜中になると死に対する恐怖が押し寄せて

小澤由実

病気前、『デイリーニュース』キャスター時代

── 告知を受けたときのお気持ちはどうでしたか? 

小澤さん:いろんな感情が芽生えていたのを覚えています。もちろんショックはショックなのですが、なぜ1〜2か月間ずっと熱が出るのかわからないモヤモヤが続いていたので、やっと原因がわかって治療に進めると、ホッとした部分もあったんです。 

あとはやっぱり、家族のことですよね。娘が2人いて、当時小学生と中学生だったのですが、まずは半年もの入院期間、ご飯をどうしようというのがいちばんの心配でした。それから仕事。フリーランスという立場でアナウンサーの仕事をしていて、今後決まっている仕事もあったので、これをどうすればいいんだろうかと。

── 医師の先生からは何か言われたのですか?

小澤さん:かつて白血病は「不治の病」と言われていたので不安は大きく、主治医の先生にはストレートに「私、死ぬんですか?」と聞いたんです。そしたら先生は「そうならないように尽力します」と答えてくださり、すごく安心しました。白血病の告知も、いい意味で深刻にならないような言い方でした。そこでなんとなく「あ、大丈夫かもしれない」と思えたんです。やはり主治医の言葉はものすごく感情を左右しますし、相性が大事だと感じました。

また、急性リンパ性白血病といえば水泳の池江璃花子選手のイメージが強く、勝手に池江選手の存在に励まされていました。 当時は東京オリンピックの翌年。白血病で一時は選手生命が危ぶまれたのに、オリンピックに出場するまでに復活していらっしゃったので、私もきっと大丈夫だと思うことができました。

母の病気を知った娘たちの反応は…

── ご家族の反応はいかがでしたか?

小澤さん:夫は「きっと大丈夫だよ」と明るくふるまってくれていたのですが、後から聞いたところ、近所のクリニックの血液検査の結果を見て、「きっと重い病気だろう」と覚悟していたようです。大学病院では今後の治療方針や、約半年間は入退院を繰り返すという話を一緒に聞き、受け止めているように見えました。

── 娘さんたちは小学生と中学生ですから、ショックですよね。

小澤さん:病院から帰宅後、2人の娘をリビングに呼んで「ママは白血病という病気になったから、半年くらい入院します」という話をしました。次女はそのとき小学4年生で、白血病がどんな病かよくわからなかったと思いますが、私がしばらくいなくなるというのを聞いて、即座に私に抱きついてワーッと泣きだしました。

 

長女のほうが感受性豊かなので取り乱すかと思ったら、そのときは泣かずに無言でただ私の話を聞いていました。ただ、ひとしきり話をした後、仕事先の各方面へ電話をするため、1時間ほど席を外して戻ってきたとき、長女の目が真っ赤だったんですよね。後で夫に聞いたところ、病気や入院の話を聞いて悲しかったけど、泣いちゃうとママが死んでしまうんじゃないか、ママも余計に心配になっちゃうんじゃないかという思いがあり、必死で泣くのを我慢したらしいです。私がリビングからいなくなってから、思いきり泣いていたみたいです。

夜中になると死に対する恐怖が押し寄せて

微熱が1か月以上続いても年齢のせいにしていた, 白血病の診断を受け「私、死ぬんですか?」, 母の病気を知った娘たちの反応は…, 夜中になると死に対する恐怖が押し寄せて

千羽鶴

家族、義父母、姉、両親、みんなで協力して作ってくれた千羽鶴

── 小澤さん自身は落ち着いていらっしゃったんですね。

小澤さん:入院の準備や子どものこと、家の片づけや夫への引き継ぎ、仕事の連絡などでバタバタしていて、感傷にじっくりひたる間もなく過ごしていました。ただ、夜中に布団に入ると、死に対する恐怖がブワーッと押し寄せてきて泣きました。翌日は気持ちを持ち直して子どもたちを学校に送り出したのですが、夫と今後のことを話していると、どんな治療が待ち受けているかと不安になり、また涙が出てきて…。大丈夫だと思う気持ちと不安な気持ちが押し寄せてくる感じです。

── 小澤さんが入院中は旦那さんがひとりで家事や子育てをされたのですか?

小澤さん:夫が仕事を調整しながら基本的にはやりくりしてくれました。食事に関しては、夫の実家が車で5分くらいと近かったので、義母がご飯を作って朝届けてくれ、それを晩ご飯にいただいていたそうです。また、電車で1時間くらいの場所に私の姉が住んでいたので、週1回は自宅に来てご飯を作ってくれ、義母と姉にはかなり助けられました。

──フリーアナウンサーの仕事はいったんすべてキャンセルせざるを得ない状況ですよね。

小澤さん:はい。半年もの入院になるので、決まっていた司会や講師などの仕事はいったん白紙になりました。レギュラーの仕事としては、ラジオのコミュニティFMで週に1回、2時間の生放送番組を担当していたのですが、治療が無事に終わったとしても復帰がいつになるかわからないから、もう辞めるしかないと思っていたんです。

でも、番組担当者の方が「待ってるよ」と言葉をかけてくれたのがすごくありがたく、「絶対にラジオに戻るぞ!」という目標を掲げて治療に挑むことができました。目標を持つことは治療のモチベーションを保つのにすごく重要で、「待ってるよ」というその言葉がなければ、病気が治ったところで仕事はゼロなわけですし、治療に挑む力は果たして湧いてきたのかな、と思ってしまいます。

アナウンサーという職業柄、自分の経験を伝えたい、伝えなくちゃという使命感もあふれてきて「この経験を絶対にムダにしたくない。復活して全国で講演して回るんだ!」という思いを持てたので、「病には絶対負けないぞ」と強い気持ちになれました。

── フリーランスですと、仕事を休んでも生活の保障がないですし、何かがん保険に入るなど対策はされていたのですか?

小澤さん:それがね、入ってなかったんですよ。恥ずかしながら「2人に1人はがんになる時代」なんていうがん保険のCMを見ても他人事で、自分は大丈夫と思っていたんです。私の場合、治療費は総額で約1000万円近くかかっています。唯一、県民共済には入っていたので入院費の補助が出たのと、健康保険の高額療養費制度で一定の限度額が決められているので、負担はある程度おさえられました。日本のこの社会保障、医療制度はすごくありがたいです。

コロナ禍での入院による抗がん剤治療は約7か月にもおよび、家族の面会もできない日々が続きました。強い薬が投与されたときは副作用で髪の毛がごっそり抜け、吐き気を耐えるのがつらかったと小澤さんは当時を振り返ります。2人の娘さんのメンタルにも大きな負担がかかり、学校に行けなくなる日もあったそうですが、弱音を吐かずに気丈に振舞った旦那さんのおかげで、家族は苦難を乗り越えることができたそう。そんな旦那さんには感謝しかないそうです。

取材・文/富田夏子 写真提供/小澤由実