沖縄県民が甲子園に一丸となる歴史の「深い事情」

なぜ沖縄県民は甲子園に熱狂するのか?, 1999年、祖父が涙した沖縄尚学の初優勝, 沖縄県勢の吹奏楽応援ソング, “カチャーシー”で喜びを分かち合う沖縄県民

母校で優勝報告を行う沖縄尚学高校野球部のメンバー(長嶺真輝撮影)

前編:『甲子園優勝で沖縄の道路ガラガラに?「テレビをつけて応援する職場」に「イオンでの大熱狂」“一致団結の大フィーバー”を沖縄記者が解説』では甲子園優勝に一致団結で盛り上がる県民の様子を紹介した。

【写真を見る】沖縄尚学の応援団で埋め尽くされた阪神甲子園球場はこんな感じ

後編では、なぜ沖縄では甲子園が“県民的大行事”なのか、甲子園に参加したくてもできなかった沖縄の歴史を踏まえて、沖縄出身・在住の筆者が解説する。

なぜ沖縄県民は甲子園に熱狂するのか?

なぜ沖縄県民は甲子園に熱狂するのか?, 1999年、祖父が涙した沖縄尚学の初優勝, 沖縄県勢の吹奏楽応援ソング, “カチャーシー”で喜びを分かち合う沖縄県民

決勝戦当日の阪神甲子園球場(宮城良典さん撮影・提供)

職場ではテレビをつけて甲子園を応援し、沖縄県最大級の商業施設「イオンモール沖縄ライカム」でのパブリックビューイングには1000人超が詰めかけ、沖縄の居酒屋は大盛況──ヒトやカネが大きく動いているのが体感できるのが、甲子園決勝戦の8月23日だ。

そこで、読者のみなさんの素朴な疑問は、容易に想像できる。

「なぜこうまでして盛り上がっているのか」問題である。言い換えると「なぜ母校でもない、身内でもない高校の、野球の部活の大会で全県的に団結できるのか」問題だ。

要因はいくつか考えられるが、まずは、選手のほとんどが沖縄県出身選手だということだ。今大会を例に挙げると、沖縄尚学のベンチ入り20人中18人が沖縄県出身選手で「地元・沖縄の代表校」という印象が強い。ベスト4に残った県立岐阜商業高校など公立高校は、どこの都道府県も地元の選手が同じように多いが、沖縄県勢の場合は沖縄尚学、興南、エナジックスポーツといった私立の強豪校でも県出身選手が多い。

なぜ沖縄県民は甲子園に熱狂するのか?, 1999年、祖父が涙した沖縄尚学の初優勝, 沖縄県勢の吹奏楽応援ソング, “カチャーシー”で喜びを分かち合う沖縄県民

沖縄尚学高校正門(沖縄県那覇市、長嶺真輝撮影)

ただ、さらに大きな要因は「甲子園に参加したくても参加できなかった沖縄の歴史」そのものにあると考える。

戦前の沖縄は、教育制度の違いや地理的な不利性などで甲子園出場は無し。これは、当時日本領として組み込まれていた台湾や朝鮮の代表校が戦前の甲子園に出場していたことを考えると、沖縄にとってかなり厳しい状況だった。戦後も、1945年から1972年まで続いた米軍統治下で日本の高野連に属することができなかった。1958年に「特別参加」として首里高校が沖縄県勢として初めて甲子園に出場したことが、県民の大きな喜びとなったのは、当時の沖縄の社会的背景として「他府県に肩を並べたい」という思いが蔓延していたからだ。

1999年、祖父が涙した沖縄尚学の初優勝

1972年の日本復帰前、もしくはそれからしばらく経つまでの“オキナワ”の人々が、本土に対して劣等感を抱いていたことは、筆者が上の世代から見聞きした話からも明らかだ。日本の高度成長期に同乗できずに経済面や教育面、インフラ面などで差がついた。文化や言語の違いを、個性として消化できずに、後ろめたい気持ちを持っていたこともある。差別的な言動に遭った歴史もあった。今も概ね60歳前後から上の世代の人の中には、その種の負の意識をなかなか拭い去れない人だっている。

その状況下で、どこからともなく「大臣が先か、甲子園優勝が先か」という言葉も生まれていった。「甲子園優勝」というフレーズそのものに、沖縄の人々がみんなで見た夢が詰まっていた。

1999年の春の甲子園で、沖縄県勢として初めて沖縄尚学が優勝したとき、中学1年生だった筆者はちょうど祖父母の家で決勝戦のテレビ中継を観ていた。さっきまでの敵味方関係なく、会場全体が沖縄尚学の優勝をウェーブで祝っているのを見て、祖父は泣いていた。「うれしいなぁ、うれしいなぁ」と言って泣いていた。身内の大人の男性が泣く場面など初めて見たので、鮮明に覚えている。

今はもう、すっかり沖縄は高校野球強豪県となった。春夏通算で5回目の優勝を果たしたことは、誰が何を言おうと胸を張れる。プロの一線で活躍する県出身選手も多く輩出してきた。野球で「本土に追いつけ」という段階はもう過ぎたと言えるが「みんなで一つになって沖縄の球児を応援しよう」ということそのものが、毎年の“県民的大行事”として定着しているのだ。

沖縄県勢の吹奏楽応援ソング

なぜ沖縄県民は甲子園に熱狂するのか?, 1999年、祖父が涙した沖縄尚学の初優勝, 沖縄県勢の吹奏楽応援ソング, “カチャーシー”で喜びを分かち合う沖縄県民

沖縄尚学の応援団で埋め尽くされた阪神甲子園球場・三塁側アルプススタンド(宮城良典さん撮影・提供)

そんな過去を受けて、歌詞の中に「本土復帰を迎えた頃はみんなおんなじ夢を見た」と歌うBEGINの「オジー自慢のオリオンビール」が、県勢応援ソングとして甲子園のアルプススタンドから鳴り響いているのは感慨深い。

実は、沖縄県勢を応援する吹奏楽の音色は、毎年、兵庫県の市立尼崎高校吹奏楽部が友情演奏しているものだ。沖縄からは、吹奏楽部員の移動や楽器の輸送が大変で、現地協力校として同校の力を借りている。指揮を執るのは沖縄県・伊良部島出身の羽地靖隆さん。44年間も沖縄県の代表校を応援している。

高校野球ファンの中には気付いている人もいるかもしれないが、沖縄県勢の吹奏楽応援ソングは全国的な定番と違う。曲を聴いただけで、沖縄の高校の試合だとわかる曲も多い。

そのうち代表的なものが、喜納昌吉&チャンプルーズが1992年にリリースした「ハイサイおじさん」だ。ランナーが得点圏にいるときに演奏される“魔曲”で、流れるだけでウキウキする。余談だが、志村けんが「変なおじさん」のコント中に歌っている曲の原曲でもある。

そして今大会初登場の最新ナンバーがある。それはHiDE春の「愛太陽」だ。ここ1年間ほど、沖縄のラジオ局RBCiラジオのテーマソングとして番組間ジングルなどに採用されている元気な楽曲で、日々の生活の中で耳にすることが多い。この曲が応援曲のラインナップにあるだけで、沖縄の今をキャッチアップしてくれている感覚にもなるし、近くで寄り添ってくれているような感覚になる。

特筆すべきが沖縄民謡の「ヒヤミカチ節」だ。「ヒヤミカチ」とは沖縄の言葉で、気合を入れたり誰かを鼓舞したりするときの掛け声のような言葉だ。沖縄民謡の旋律でしっかりと地域性を感じさせながら、曲の意味としても甲子園の応援にピッタリなのである。観光や出張で沖縄に来た際には、ぜひ民謡酒場などで聴いてほしい曲の一つだ。

これらの応援曲のほかにも、沖縄代表の試合のムードを盛り上げるのが、指笛の音色だ。指笛の良く通る音色は、選手への応援という意味もあれば、観客が観客に向けた“仲間同士ののろし”のような気持ちにもなる。「ここに指笛で応援している人がいるよ」ということがわかるだけで、選手にも観客にも一気に地元っぽい安心感を与えることができるはずだ。応援の効果は大きいと感じる。

“カチャーシー”で喜びを分かち合う沖縄県民

なぜ沖縄県民は甲子園に熱狂するのか?, 1999年、祖父が涙した沖縄尚学の初優勝, 沖縄県勢の吹奏楽応援ソング, “カチャーシー”で喜びを分かち合う沖縄県民

優勝を決めた直後インタビューに答える沖縄尚学・比嘉公也監督を大きく映し出した阪神甲子園球場のバックスクリーン(宮城良典さん撮影・提供)

このようにして、まさに「沖縄県民は音楽を力に変えてきている」と実感できる場でもある甲子園。音楽だけではなく、踊りもそうだ。うれしいときやめでたいときに湧き出る手踊り・カチャーシー。

決勝戦の試合時間とかち合ってしまった地元テレビの生バラエティ番組では、ニュース速報のテロップで「夏の甲子園 沖縄尚学が初優勝」と報じられると、番組の流れを断ち切ってカチャーシーをする出演者の姿もあった。各地のパブリックビューイングの場でも、カチャーシーを踊る人々の姿。

筆者の思う“三大カチャーシータイミング”はこれだ。①結婚式の最後②選挙で勝ったとき③甲子園で優勝したとき――。いずれもみんなで踊るから喜びを共有できる。

「みんなで喜べる」というのは、まさにスポーツの魅力だ。話題は変わるが、その一体感は、夫婦仲の修復にも効いた例すらある。筆者の友人は妻との関係が冷え切っていたが、勝ち進む沖縄尚学の応援に熱が入って妻が高校野球に興味を持った結果、9月に沖縄県で行われるU-18 野球ワールドカップの観戦デートに行くようだ。沖縄尚学の優勝は、一組の夫婦をおそらく救った。

そのワールドカップには沖縄尚学からも末吉投手が選出されている。今大会でしっかりにわかファンになった私もワールドカップの観戦に行こうと思うが、もし友人夫婦を見かけてもそっとしておこうと心に決めている。全国制覇を目指したすべての高校球児のみなさん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました!

【前編はこちら】『甲子園優勝で沖縄の道路ガラガラに?「テレビをつけて応援する職場」に「イオンでの大熱狂」“一致団結の大フィーバー”を沖縄記者が解説』

【写真を見る】母校で優勝報告を行う沖縄尚学高校野球部のメンバー