【戦後80年】終戦翌年に不発弾で失った「両手」と「視力」そして弟 心と体の傷をさらして伝えたいこと

戦後80年となることし、「いま伝えたい、私の戦争」と題して、今を戦前にさせないための“メッセージ”を届けます。戦争は、戦いが終わってからも人を傷つけます。不発弾の爆発事故で弟を亡くし、自らも両手と視力を失った男性がいます。それでも前を向き続け、伝える平和への思いとは。

終戦翌年の夏に

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点字のタイプライターを操るのは、大阪府に住む藤野高明さん(86)です。

■藤野高明さん(86)

「私、両手がないから。(本来)指でやりますから。」

藤野さんは終戦翌年の1946年の夏、7歳の時に「両手」と「両目の視力」を失いました。当時、家族は福岡市南区で暮らしていました。自宅近くの小さな川でキラリと光る乾電池のようなものを見つけ、家に持ち帰りました。

■藤野さん

「単4電池みたいなパイプが捨ててあったので、近所の子どもたちと先を争うように拾いました。(翌日)7時前にご飯を食べて、触っていたら爆発して。家の中で爆発しました。」

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爆発したのは、旧日本軍のものとみられる不発弾でした。藤野さんは一命を取りとめたものの、一緒に遊んでいた2つ下の弟、正明さんが亡くなりました。即死だったといいます。

今でも忘れられない母親の言葉があります。

■藤野さん

「半月ぐらいして家に帰った時、私は正明がいると思っていました。母親が私に、高ちゃん、あんたに本当のことを言えず、うそついとってごめんねと言って、ものすごい爆発やったから、正ちゃんはその時に死んでいたと言いました。大変やと思うけれど生き残ったんやから、5歳の正ちゃんが亡くなった分まで、高ちゃん長生きせないかんよと言ってくれました。」

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戦後しばらくの日本は、戦前、戦中と同様に障害者への理解がほとんどない状況が続いていました。地元の盲学校へ入学しようとしましたが、点字の読み書きができないと拒否されました。

■藤野さん

「学校で勉強したいと言っているのに、藤野さん、盲学校に来ても大変やから、目の見えるお嫁さんをもらって、たばこ屋とか何かお店をするとか、そういうこと考えたらどうでしょうかと言われた。開いた口が塞がらないというか。」

視力が戻ると信じて受けた数度の手術でも回復せず、死ぬことを考えたこともありました。しかし、「長生きせないかんよ」と、弟の死を知ると同時にかけられた母の言葉が思いとどまらせてくれました。

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藤野さんは依頼があれば、全国で自身の体験を語っています。この日は、戦争放棄を掲げる憲法9条について考える会で講演しました。

伝えたいことを漏らさないようにと、講演の時に使う資料があります。藤野さんは唇で点字を読んで、確認します。18歳の時、ハンセン病の患者が唇や舌で点字を読んでいることを知り、自分も点字が読めるようにと感覚を研ぎ澄ませていきました。

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■藤野さん

「人生を変えた点字。点字を覚えて、20歳で大阪市立盲学校に入りました。」

爆発事故から13年後、盲学校に入学することができた藤野さんは教員になることを決意します。勉強がしたくてもできなかった悔しさを、次の世代には感じてほしくないという思いもありました。

33歳で社会科の教員になり、それからおよそ30年間、教壇に立ち続けました。授業では、幼い頃の戦争体験を交え語ってきました。

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■藤野さん

「小学校1年生の(1945年)6月19日に福岡空襲があった。飛行機はよく飛んで来ていたけれど、ところ構わずむちゃくちゃに。一人一人のかけがえのない人生と、人のつながりを断ち切るのが空襲です。新しい戦時体験を、次の世代の人たちにさせてはいけないと私は思います。」

藤野さんは、終戦から80年、日本で平和が続いたことについて「素晴らしいこと」と話す一方で、今の不安定な国際情勢を踏まえ、この国の将来に不安を抱いています。今を、あの戦前にさせないために。藤野さんは、こう記しました。

■藤野さん

「人が幸せに生き抜くには、やはり平和が一番です。戦争と平和について無関心であることが最も残念なことです。優しさと賢さで世界から戦争をなくしましょう。」

「戦争」の傷を負いながら、人生を歩み続けてきた藤野さん。自らの心と体の傷をさらすことで、戦争を知らない私たちに平和へのメッセージを発信しています。

※FBS福岡放送めんたいワイド2025年8月19日午後5時すぎ放送