キャデラックF1がボッタスと契約の噂……スピードに経験、それとも将来性や資金力? 過去の新興チームに学ぶドライバー選択
motorsport.comが6月に報じた通り、2026年からF1に新規参戦を果たすキャデラックは、現在メルセデスF1のリザーブドライバーを務めるバルテリ・ボッタスと契約条件に合意したとされている。グリッドが20台から22台に拡大するにあたり、残る1席をめぐっては、来季の契約のない現役ドライバーや元F1ドライバー、若手ドライバーの名前が挙がっている。
その中でも、2024年末までレッドブルに所属したセルジオ・ペレスは経験値と母国メキシコからの支援を考えると、キャデラックにとって最も可能性が高く魅力的な候補と考えられている。地政学的な観点からするとアメリカのチームがメキシコ人ドライバーと組むことはやや不自然であり、F1界は国際情勢と完全に無関係でもないが、ここではあまり問題にはならないだろう。
ペレスの他には、元F1ドライバーの周冠宇やミック・シューマッハー、ジャック・ドゥーハン、若手からはフェリペ・ドルゴビッチやジャック・クロフォード、ポール・アーロンなど、多くのドライバーがボッタスのチームメイト候補とされている。
キャデラックがボッタス&ペレスのラインアップを選択した場合、ふたり合わせて532回のグランプリ出場、16勝、3435ポイント獲得に及ぶ経験値を得ることとなる。ふたりとも35歳と年齢が高めであるため、長期的な契約は望めないかもしれないが、高いスピードと豊富な経験値を兼ね備えた組み合わせと言える。
新規参戦チームには前年度のサーキットやセットアップに関するデータや経験がない。そこはベテランドライバーのノウハウが生きるところであり、エンジニアとしては両ドライバーのパフォーマンスを明確に把握することができる。
ボッタスとペレスがF1グリッドに戻ってくる可能性は、ニューフェイスを見たいと思っていた人々にとって少し残念なニュースかもしれない。しかし合理的なラインアップであることは間違いない。またペレスとの交渉が上手くいかず、同じくペレスに接触していると報じられているアルピーヌに奪われた場合でも、キャデラックにはF1経験を持つドライバーの選択肢は残されている。
キャデラックは、新規コンストラクターとして参入した過去のチームからドライバー選択において学びを得ることができるかもしれない。経験豊富なドライバーを優先すべきか、それともプレッシャーの少ない環境で新人ドライバーを育成するべきか、はたまた資金力を重視すべきなのだろうか? 過去の新規参戦チームの選択を振り返ってみよう。
関連ニュース:ハースF1(2016)|ロマン・グロージャン&エステバン・グティエレス

Romain Grosjean, Haas VF-16
ハースは現実主義が色濃く反映された戦略で、2016年からF1に新規参戦を開始。パワーユニットサプライヤーであるフェラーリからのパーツ供給や、レーシングカーコンストラクターのダラーラへのアウトソーシングを有効活用し、最初の3シーズンで成果を挙げた。多くの人々がハースとフェラーリの密接な関係について疑問を呈し、一部ではチームが譲渡可能パーツを、許容範囲を越えて使用していたと主張する声もあった。
ドライバー面でもフェラーリとハースには繋がりがあった。フェラーリのシミュレータ/リザーブドライバーを務めていたエステバン・グティエレスが、ロマン・グロージャンとハース参戦初年度にコンビを組むこととなった。
グロージャンは波乱のF1キャリア序盤を過ごしていたものの、スピードには定評があり、チームにも大きな成果をもたらした。一方でグティエレスはザウバーで2年間のフル参戦経験があったものの、入賞は1度のみ。それでもフェラーリのシミュレータを担当した1年間の経験は、ハースにとって貴重な知識となった。
実際、ハースは2016年に驚きの結果を残した。開幕戦の予選でチームは2台がQ1敗退を喫したものの、決勝では攻撃的な戦略を採ったことで遅れを帳消しにしてみせた。グロージャンは1ストップ戦略を敢行し、当時マクラーレン・ホンダのフェルナンド・アロンソ(現在アストンマーティン)とグティエレスの交錯で出動したセーフティカー中にタイヤ交換を済ませて、6位フィニッシュを掴んだ。
ハースは第2戦でさらに一歩前進し、グロージャンがグリッド9番手から5位を獲得。一方でグティエレスは2016年にポイントを獲得できず、ルノーのF1シートを失ったケビン・マグヌッセンに席を譲ることとなった。
マグヌッセンとグロージャンが4シーズンにわたってコンビを組んだことからも分かるように、ハースは初期段階で新人ドライバーを避ける傾向があった。その後2021年にシューマッハーとニキータ・マゼピンの新人ふたりを選び苦しいシーズンを送ったことで、チームは経験の重要度を再確認した。
ロータス(2010)|ヘイキ・コバライネン&ヤルノ・トゥルーリ

Heikki Kovalainen, Lotus T127
2010年に3つの新規チームが参入した(当初は4チームの予定だったがUS F1が撤退)。その中でロータスの名前がF1に戻ってきた。このチームは、エアアジアのトニー・フェルナンデス会長による財政的支援と、ジョーダンやルノー、トヨタで技術主任を務めたマイク・ガスコインというF1界の重鎮を有していた。
ロータスのF1参戦承認は他の新チームよりも遅かったが、BMWの2009年限りでのF1撤退が発表された後、2010年のラインアップ編成においてより良い人材を確保することができたと言えるだろう。
2010年のF1にロータスから参戦したヘイキ・コバライネンは、2009年のチャンピオンであるジェンソン・バトンのマクラーレン加入によってシートを喪失していた。2008年のハンガリーGPでは勝利を飾ったものの、マクラーレンでの2年間はチームメイトだったルイス・ハミルトンのナンバー2以上の存在にはなれなかった。
ロータスでコバライネンとコンビを組んだのはヤルノ・トゥルーリ。2009年後半にトヨタがF1撤退を決めたため、ロータスはグランプリ優勝や13年にわたるF1での経験値を有するベテランを獲得できた。
保守的なデザインのT127をグリッドに並べたロータスはトップ10を脅かすことはできなかったが、コバライネンが雨のマレーシアGP予選でQ2に進出。日本GPではコバライネンが12位、トゥルーリが13位でフィニッシュし、コンストラクターズランキングで10位の地位を固め、同年の新規参戦チームであるヴァージン・レーシングとヒスパニアを上回った。
ロータスは2011年にドライバーラインアップを継続し、コスワースからルノーにエンジンを変更。2012年シーズンを前にトゥルーリは解雇され、ヴィタリー・ペトロフが後任を務めた。しかしその年の終わりには両ドライバーが退団し、ケータハムにリブランドされたチームは2013年に向けてより資金力のあるシャルル・ピックとギド・ヴァン・デル・ガルデのコンビを選んだ。
ヴァージン(2010)|ティモ・グロック&ルーカス・ディ・グラッシ

Timo Glock, Virgin VR-01 Cosworth, retired, leads Lucas di Grassi, Virgin VR-01 Cosworth, retired.
予算制限下でのF1参戦を計画していたマノー運営のヴァージン・レーシングは、4000万ドル(約60億円)という支出制限が撤廃されたことで、決意と努力が水の泡となった。
リチャード・ブランソン率いるヴァージン・グループがチームのタイトルスポンサーに加わったことで、一定の輝きが加わったが、財政的なアドバンテージは最小限。ヴァージンは実際ほとんどスポンサー料を支払っておらず、ロゴ掲出を正当化できるだけの支払いしかせず、そのスペースを売却したがっていた。
技術主任を務めたニック・ワースは、チームの処女機VR-01の開発に風洞実験を用いず、CFDのみで設計する前衛的なアプローチを採ったが、開発費用を抑えたいという意図を巧妙に隠すための言い訳だった。
一方でドライバー選択では賢い判断を下し、トヨタのティモ・グロックを獲得。2009年日本GPのクラッシュで椎骨を骨折してレース欠場を強いられるまではトゥルーリをポイントで上回る活躍を見せていた。またヴァージンはグロックのチームメイトとしてGP2(現在のFIA F2)の上位を走っていたルーカス・ディ・グラッシを獲得。当時彼はルノーのドライバー育成プログラムに参加しており、技術的フィードバックに長けていることで知られていた。
ただ肝心のVR-01は大きな問題を抱え、空力パッケージは未熟。燃料タンクは設計ミスにより、レースを完走できるだけの燃料を搭載できないということも発覚したが、グロックはロータス勢に食い下がる走りを見せて、チームがマルシャとして再出発する2011年、2012年と陣営に残留した。ディ・グラッシは1年を通してチームメイトに及ばず、2011年にはジェローム・ダンブロジオが後任として加入した。
HRT(2010)|ブルーノ・セナ&カルン・チャンドック&山本左近&クリスチャン・クリエン

Bruno Senna leads Karun Chandhok
アドリアン・カンポス率いる新F1チームは元々、カンポスとしてグリッドに並ぶ予定だったが、資金の流れが途絶えたことで、最終的にホセ・ラモン・カラバンテのグループ・ヒスパニアへプロジェクトを売却するに至り、ヒスパニア・レーシングF1チーム/HRTと名称が変更された。
ヒスパニアは資金難によって開発が進んでいなかったダラーラ製F110の費用を支払い、チーム代表であるコリン・コレスの所有するドイツのコデワからチーム運営支援を得るためにも費用を支払った。
予算の一部を賄うため、HRTは資金調達が可能な新人ドライバーふたりを選び、アイルトン・セナの甥にあたるブルーノ・セナ、そしてインド出身のカルン・チャンドックがシートを手にした。チーム本拠地があるスペイン・ムルシアの観光局の広告を除き、マシンに掲出されたスポンサーのほとんどはふたりの持ち込みだった。
2010年シーズン開幕に間に合わせるため急ピッチで製造されたF110は、バーレーンGPのフリー走行が実質的なシェイクダウンに。チャンドックが予選開始まで一度もステアリングを握れなかったことを考えれば、トップ勢から“わずか”10秒遅れだったことは小さな奇跡と言えるだろう。HRTは前方の集団から離されていたものの、ヴァージン勢からはそれほど離されておらず、時にはライバルを上回る予選結果を残すこともあった。
HRTは2010年シーズン後半に向けて資金を確保するため、イギリスGPでブルーノ・セナの代役として、ドイツGP以降ではチャンドックの後任として山本左近がマシンに乗り込んだ。山本もシンガポールGP、ブラジルGP、アブダビGPで元レッドブルのクリスチャン・クリエンにマシンを譲った。
HRTは2011年に向けて、フォースインディアのシートを失ったヴィタントニオ・リウッツィを起用。さらに6年間F1から離れていた元ジョーダンのナレイン・カーティケヤンを起用したことでも注目を集めた。
スーパーアグリ(2006)|佐藤琢磨&井出有治&フランク・モンタニー&山本左近

Yuji Ide, Super Aguri F1 SA05
もし佐藤琢磨が2005年限りでBARホンダから放出されていなければ、鈴木亜久里率いるスーパーアグリは存在しなかったかもしれない。2005年後半にF1参戦が決まり、2002年のアローズA23を引っ張り出して改造を施したSA05を用意して、開幕にこぎつけた。
ホンダは人気の高い佐藤をグリッドに留めたいと考え、ファーストドライバーは佐藤で決まった。一方でセカンドシートをめぐっては多くの問題が発生。特に新人ドライバーにとっては良い印象を与えることができないシートだった。
スーパーアグリはフォーミュラ・ニッポン(現在のスーパーフォーミュラ)で成功を収めた日本人ドライバー数人と接触し、最終的には2005年にランキング2位となった井出有治が選ばれた。しかし31歳の井出はF1マシンをドライブした経験がなく、主に英語を話すチームとの言語の壁に苦戦。F1挑戦に対する準備が整っているとは言えなかった。
バーレーンGPで佐藤はミッドランドのティアゴ・モンテイロに1.5秒差、井出はチームメイトに3秒近くの差をつけられた。佐藤はマシン性能差にも関わらず上位グループに食らいつく走りを見せたが、井出はしばしば大きく遅れた。サンマリノGPでクリスチャン・アルバースと激しいクラッシュを引き起こしたこともあり、FIAは井出のスーパーライセンスを取り消すに至った。
井出の後任には、ルノーで長年リザーブドライバーを務めたフランク・モンタニーが7戦にわたって出場。フランスGPでは佐藤を上回る予選結果を残したが、ドイツGPでは新開発のSA06導入と併せて山本がレギュラードライバーとして加わり、再び日本人ドライバーのラインアップが復活した。
その翌年にスーパーアグリは佐藤と、ホンダのリザーブドライバーを務めたアンソニー・デビッドソンというコンビを形成。安定性を手に入れることができた。
トヨタ(2002)|ミカ・サロ&アラン・マクニッシュ

Mika Salo with Allan McNish, Toyota Racing
トヨタが当初、V12エンジンでF1に参戦する計画だったことは忘れ去られており、V10エンジンの使用を義務付けるレギュレーション変更が打撃を与えた。そのため、トヨタは2001年にテストマシンTF101でF1カレンダーに準じた活動を続け、データ収集を行なった。
フェラーリで優勝に手が届きかけたミカ・サロは、2001年はザウバーに留まる代わりに翌年のレースシートを条件にトヨタ陣営に入り、1年間テストに専念。そして1990年代初頭にF1界で活動し、スポーツカーレースに転向した後、1998年のル・マンで総合優勝を経験したアラン・マクニッシュも2002年に向けて陣営に加わった。カギとなったのは、1999年にトヨタGT-ONEをドライブした経験があったことだ。
トヨタは2002年に順調なスタートを切った。サロは開幕戦オーストラリアGPで14番手から巧みに順位を上げて6位フィニッシュ。一方で16番手スタートのマクニッシュは、ルーベンス・バリチェロとラルフ・シューマッハーが引き起こした混乱に巻き込まれた。
サロはシーズンを通して予選でマクニッシュに対して15勝2敗。両ドライバーとも中団グループで争ったが、1年を通してポイントを獲得することは難しかった。
マクニッシュの2002シーズンは日本GPでの大クラッシュによって早々に終わりを告げたが、サロも2003年を前にトヨタを去った。チームはベテランのオリビエ・パニスと、前年度のCARTでトヨタエンジンユーザー初のタイトルをもたらしたクリスチアーノ・ダ・マッタを起用し、イギリスGPではワンツーで走行するシーンもあった。
スチュワート(1997)|ルーベンス・バリチェロ&ヤン・マグヌッセン

Jan Magnussen, Rubens Barrichello, Stewart Grand Prix Ford SF-1
1997年の時点でバリチェロはジョーダンからF1に4年参戦し、チームの成長に重要な役割を果たした。しかしジャッキー・スチュワートからのオファーを受けて、リスクを犯してチームに加わる決断を下した。スチュワートは強力なスポンサー陣とフォードのワークスサポートを揃えており、バリチェロにとっても結果的にフェラーリ加入へと繋がった。
バリチェロと共にスチュワートへ加入したのはヤン・マグヌッセン。1995年パシフィックGPで病気のミカ・ハッキネンに代わってマクラーレンから出場した以外は、ほぼ新人だった。ただ、マグヌッセンは1994年のイギリスF3にポール・スチュワート・レーシングから参戦し、圧倒的な成績を残しており、チームにとっては既知の存在だった。
スチュワートはSF01で安定した予選ペースを発揮し、フォード製V10エンジンも強力。深刻な信頼性の問題を抱えていたものの、バリチェロはモナコGPでの2位表彰台を獲得する活躍を見せた。
マグヌッセンは経験豊富なバリチェロに及ばす。スチュワートはマグヌッセンにドライビングレッスンを提案したと言われているが、ドライバー側には必ずしも好意的に受け入れられなかった。チームは1988年も同じコンビを継続したが、マグヌッセンがF1初ポイントを獲得した直後、ヨス・フェルスタッペンにシートを奪われた。
ローラ(1997)|ヴィンチェンツォ・ソスピリ&リカルド・ロセット

Sospiri got a long-awaited F1 call-up with Lola, but the team was a disaster
スチュワートを取り上げるなら、同年に一度もF1グリッドに着くことなく姿を消したローラも取り上げなければならない。創設者のエリック・ブロードリーがぶち上げたF1基準には到底及ばない無謀な技術的アイデアと資金調達プラン、時間的猶予の無さに比べれば、ドライバーラインアップは最も小さな問題だったと言えるだろう。
ローラは1997年に向けて持参金のあるリカルド・ロセットに加え、国際F3000時代にスーパーノヴァでロセットとコンビを組んだヴィンチェンツォ・ソスピリが選ばれた。ロセットはその前の年にアロウズでF1の経験があった一方、ソスピリはベネトンなどでのF1テストを除けば、十分な経験を有していなかった。
ローラが急造したT97/30は、オーストラリアGPのフリー走行で極めて遅く扱いにくいことが露呈。誰が乗っても大きな差はなかったかもしれない。
ソスピリは予選でロセットよりも1.1秒速いタイムをマークしたものの、それでもポールを獲得したジャック・ビルヌーブから11.6秒遅れと107%ルールに抵触。これでローラは決勝に出場することができず、チームはシーズン第2戦ブラジルでの再起を目指したが、蓄積した債務のためフリー走行を走ることすらなく活動停止となった。
関連ニュース:
友だち追加
Follow @MotorsportJP