《脳性まひの兄、離婚した母のために》歌手に復帰した市川由紀乃 ヤングケアラーの経験も「この家族に生まれてよかった」
卵巣がんの抗がん剤治療を乗り越えて今年、歌手活動を再開させた市川由紀乃さん(49)。歌手デビューは17歳で、当時は母親、脳性まひの兄と3人で暮らしていました。26歳のときに一度、芸能界から離れてバイト生活を送った時期がありますが、それでも再び歌手としてステージに立つ決意をした背景には家族への強い思いがあったそうです。(全3回中の3回)
脳性まひの兄を母と一緒にサポートしていた

幼少期の市川由紀乃
幼少期の市川由紀乃さん。お母さんと── 育った環境としては母子家庭で脳性まひのお兄さんがいらっしゃって、いまで言う「ヤングケアラー」のような時期もあったのでしょうか。
市川さん:7歳上の兄には生まれつき脳性まひで知的障がいがありました。私が中学生のときに両親が離婚し、母が仕事をしている間は私が兄のめんどうを見たり、食事を作ったりするのは日常的でした。でも、私は17歳で歌手デビューして一度実家を出てしまったので、そこまでお世話が大変だったという状況ではなかったです。
20代後半で再び実家に戻ったのですが、それから数年して兄の筋力がだんだん弱っていったので、母と一緒にお風呂へ入れたり、夜中のお手洗いについて行ったりしました。家族3人、兄を真ん中にして川の字で寝ていて、兄がトイレに行きたいと言うと母が私をポンポンと叩いて起こし、2人がかりで連れて行くような、できる範囲のサポートはしていました。
── お兄さんに障がいがあることで、子ども心に何か感じることはありましたか?
市川さん:自分が物心ついたときから兄は兄でしたし、母と3人すごく仲よく暮らしていたので、特につらい思いをしたことはありませんでした。障がい児のきょうだいがいる友達もいましたし、学校や近所の方も理解してくれる環境でした。母は兄を、私の学校行事やカラオケ大会などどんな場所にも連れて行ったので、そうすると「あ、お兄ちゃんはちょっと障がいを持っているんだね」と周囲も理解してくれてやさしい目でサポートしてくださる方のほうが多かったです。
── お母さんの子育て方針が素敵ですね。
市川さん:母はオープンで明るい性格で、父と離婚するときも私や兄に「別れようと思うんだけど、どう思う?」「離婚したら引っ越さなくちゃいけないけど大丈夫?」など、すべて相談してくれました。私も当時の母を上回る年齢になり、母のすごさを改めて感じています。
カラオケ大会でスカウトされて17歳でデビュー

市川由紀乃
1日2か所のカラオケ大会を掛け持ちすることも── 市川さんは17歳で芸能界デビューされたとのことですが、きっかけは何だったのですか?
市川さん:地元・埼玉のカラオケ大会で優勝したときに、プロダクションの社長からスカウトされました。幼いころからテレビ番組で見る歌手のみなさんに影響を受けて憧れていたので、それはうれしかったです。
母が歌謡曲を好きだったので、家のなかでは美空ひばりさんや島倉千代子さんの音楽が常に流れていましたし、私が子どものころは歌番組がたくさんあり、小林幸子さんや坂本冬美さんの歌が好きで、よく歌っていました。そのうち、ちびっ子歌番組やカラオケ大会、NHKのど自慢大会などに出場するようになったんです。
── ご家族も歌手になる夢を応援してくれていたのですか?
市川さん:母は「どんどんいろんな大会に出場していこう!」とノリノリでサポートしてくれました。賞品が出るカラオケ大会を見つけては応募していましたね(笑)。1日2か所のカラオケ大会を掛け持ちしたこともあり、あちこちで賞品の食べ物や食事券、自転車などをもらって、母も兄も喜んでくれていました。
── 市川さん自身、人前に出るのが好きだったのですか?
市川さん:どちらかというと子どものころは引っ込み思案で。集合写真でも後ろのほうで誰かの陰に隠れているような子だったんです。母は「先生の隣にいなさい」と言って前の方へ押し出してくれていました。
それに、母は写真をたくさん撮ってくれたんです。この仕事をしていると幼少期の写真が必要なときも出てくるので、それがすごく役立っています。母は「こういうときが来たら出せるように、写真はとにかくいっぱい残しておきたかったんだよ」と言っていて、母のなかでは「娘が歌手になってくれたらいいな」というビジョンが常にあったんだと感心しちゃいました。
「自分のなかで何かが崩れた」

市川由紀乃
17歳。デビュー当時── 歌手活動10周年を前に、一度歌手をスパッと辞めていらっしゃいますよね。
市川さん:高校生でデビューしてから、積もり積もった重圧が精神的な負担になっていたのか、自分のなかで何かが崩れていく感覚になったんです。当時26歳、同世代の女性歌手がとても多く、比較されることがよくありました。「あの子はどんどん前に出られるのに、なんで由紀乃ちゃんは出ないの?」という声が聞こえてきて、もちろん芸能の世界というのは比較されるものではあるのですが、「私は私なのに」と反発する気持ちがあって…。また、「自分の歌ははたして成長できているのかな。10代のころと変わっていないんじゃないか」という焦りもあり、もっとうまく歌いたい、こんな歌唱力じゃダメだ、と、自分をどんどん追い込んでいってしまったんです。
「こんなふうに悩みながら仕事をしていたら、お客さまに申し訳ない」という気持ちになり、母に「歌手を辞めたい」と伝えたところ「自分の人生だから自分で決めなさい」と受け入れてくれました。
── いったん休むのではなく、辞めるという選択肢だったんですね。
市川さん:はい。もう歌の世界からは距離を置きたかったんです。それでハローワークに行って失業保険をいただいて、アルバイトを探して天ぷら屋さんで働きました。芸能の仕事をしていたことは伏せて働いていたので、周囲の方も気づいていなかったと思います。名乗れるほど歌手として活躍できていないという気持ちもありました。アルバイトは2〜3年続けましたが、若くして歌手になったので履歴書を書くのも初めてでしたし、時給で働くなかでお金のありがたさや、社会がどういうものかをやっとわかった気がします。
泣き崩れる母の姿を見て覚悟を決めた

市川由紀乃
芸能界から離れてアルバイトをしていたことも── そこから歌手に戻ったのは何かきっかけがあったのですか?
市川さん:兄の強い思いを受けたからです。脳性まひの兄は知的障がいもあったため、私が歌手を辞めたことが理解できなかったんですね。新曲も出さないしテレビにも出ないし、なんで毎日、妹は家にいてごはんを作ったりしているんだろうと。「いまはちょっとお休みしているんだよ」と伝えても、納得できなかったんです。
兄は友達に「妹が今度テレビに出るから見てください」というのが楽しみだったようなのですが、それができないのがストレスで、暴れるような発作が増えてしまいました。「なんで歌えないの?なんで?なんで?」と言いながら自分の頭をバンバン叩くことがあって…。妹は歌手であってほしい、歌手の妹を見たい、という兄の姿に毎日接しているうち、歌手に戻ろう、と決意することができました。
また、いったん歌うことから離れたことで、やっぱり歌が好きなんだ、自分のコアは歌なんだ、ということを再認識して「もう一度歌いたい」という気持ちになりましたし、精神的に安定していったというのもあります。
── お兄さんにとって、自慢の妹だったんですね。
市川さん:そうだったんだと思います。それで、もう一度ボイストレーニングから始めようと歌の師匠のところにお詫びに行きました。師匠のお力添えもあって、以前在籍していた事務所やレコード会社にも謝罪して「再出発させてください」とお願いして受け入れてもらいました。
兄も復帰を喜んでくれましたが、それから数年後、39歳で亡くなりました。
── 市川さんが歌手に復帰した姿を見届けて…。
市川さん:仕事で名古屋にいるときに、兄が亡くなったという連絡をもらいました。母は、私には連絡をしないでほしいと事務所の社長に伝えたみたいなのですが、社長は私と兄の関係や家族の絆を知っていたので、すぐに知らせて「帰りなさい」と言ってくれました。
帰ると母が泣き崩れていました。いつも明るい母がそんなに泣く姿は初めて見ましたし、やはりわが子が先に旅立つ親の悲しみは、計り知れないものがあると思いました。障がいを持つ兄を産んでからほとんど女手ひとつで育ててきて、いろんな苦労を乗り越えてきた気持ちがあふれたんでしょうね。
兄の存在が歌手活動の支えでもあったので、その兄が亡くなってしまったら私が歌手を続ける意味はあるのかな?と考えてしまったのですが、ワンワンと泣き声を上げる母の姿を見たときに「今度は私が母を支えてあげなくちゃいけない」と新たな覚悟が生まれました。この仕事をもっとがんばって続けて、母を養っていくんだという気持ちになりました。
兄の遺骨を抱く母を見て「1年後にお墓を建てよう」
── いままで見たことがないようなお母さんの姿を見て、歌手を続ける気持ちを新たにされたんですね。
市川さん:はい。兄が亡くなってからも、私は歌手としてまだまだでしたし、母子家庭でお金がなかったので、すぐにお墓を建ててあげることができなかったんです。お墓を建てるまでは遺骨がずっと家にあったのですが、母は毎日、骨壺をなでるようにして泣きながら過ごしていて。悲しみがなかなか癒えない様子を見て、私もつらかったです。自分のなかで、1年後にはお墓を建てようというのを目標にして、働いたお金を少しずつ積み立てて、どうにかお墓に納骨することができました。
母は、納骨するときも泣いていましたが、無事にお墓に入れてあげられたという安心もあったのか、泣いてる日が少しずつ減っていきました。
── 改めて、市川さんにとって家族はどんな存在ですか?
市川さん:この家族に生まれてきてよかったです。きっと、この母と兄じゃなかったら自分じゃないし、ここまでの経験はできなかったと思います。兄が障がいを持っていたということで、兄の友達やそのご家族のがんばりもずっと見てきていますし。そういった方々に自然に接することができるのは、やっぱり自分の家庭環境あってこそだと思います。
取材・文/富田夏子 写真提供/市川由紀乃