まだ素直に喜べない「インド新幹線」の前途多難

東京駅に停車するE5系新幹線の前で記念撮影する石破茂首相とインドのナレンドラ・モディ首相(写真出典:首相官邸ホームページ)
インドのナレンドラ・モディ首相が8月29日に来日し、石破茂首相と会談した。その中で、日本の政府開発援助で建設中のムンバイ―アーメダバード間(約505km)のインド高速鉄道について、JR東日本が現在開発中のE10系車両を2030年以降に導入する方針で一致した。
【図と写真でよくわかる】インド高速鉄道に導入される新型新幹線E10系はどんな車両?インドのモディ首相は石破首相と東北新幹線の「グランクラス」に乗車、運転台も視察した
2023年に開業予定だったインド高速鉄道は、当初の土地収用の遅れに始まり、価格、技術仕様など、日印双方の思惑の違いで議論は平行線をたどり、明確な開業時期は見いだせない状態が続いていた。
「E10系」導入は合意したが…
日本の新幹線システムを輸出するという前提条件のもとにスタートしたインド高速鉄道プロジェクトだが、インド側は国産車両の導入も主張した。インド企業の手により土木工事が進捗する一方、日本の技術輸出となる「上物」部分については進展が見られなかったが、今年に入って、にわかに動きが激しくなっている。
1月に現地報道で、もともと計画されていた現行車両のE5系の代わりに新型のE10系を導入する旨がリークされたのを皮切りに、4月にはE3系とE5系の中古車両がそれぞれ1編成ずつ無償譲渡されることも明らかになった。
さらに、JR東日本は7月、学科講習を経たインド高速鉄道公社(NHSRCL)の16名の研修員の技能講習を開始すると発表した。インドの研修員が実際の新幹線で、指導担当者の同伴のもと、見習い運転士として運転操縦の訓練を実施する。
そして、先の首脳会談である。インド高速鉄道プロジェクトは、一見、大きく前進を見せたかのように思える。しかし、インド現地から届く声を聞くと、日本国内でのあまりにも前のめりな報じられ方には違和感を覚えざるをえない。「善戦」の報告だけが日本に届いているかのごとくである。
今回、改めてE10系の導入が確認されたとはいえ、インドに本当の意味で「新幹線」が走るかどうかは未知数だ。
新幹線は車両単体では成り立たない。信号や保安装置など、システム一式が揃わなければ「新幹線」とは呼べない。E10系の導入がほぼ確定したことだけで喜んでいる場合ではないのだ。

JR東日本が開発中の新型新幹線車両E10系のイメージ(画像:JR東日本)
信号システムは欧州企業が受注
インド高速鉄道公社は今年1月に信号通信システムの入札を公示した。フランスのアルストム、ドイツのシーメンスが筆頭となる企業連合がそれぞれ応札し、シーメンスの企業連合が410億ルピー(約691億円)で受注した。
シーメンスのニュースリリースには、欧州列車制御システム(ETCS)レベル2に基づく信号および列車制御技術を導入、最高時速350kmの列車運行を実現すると書かれている。
2024年11月8日付記事『インドは国産化?「新幹線輸出」なぜ難航するのか』で詳報した通り、インド高速鉄道公社は2024年、インドの車両メーカーBEML(Bharat Earth Movers Limited)に設計最高時速280kmの準高速車両8両編成2本を発注した。
インド国産車両が日本の信号通信システムを導入するハードルは高く、インドで導入実績のあるヨーロッパ方式になることは予想されていたが、シーメンスの受注、さらに最高時速350kmの運行を実現するという内容から、暫定開業時のみならず本開業時にもヨーロッパ仕様のシステムが導入されることが確定的となった。
車両については、インド側は当初E5系を導入する計画だった。しかし、価格や仕様、納期等の折り合いが付かず、計画当時に最新型だったE5系はもはや新型とは呼べなくなってきていた。この行き詰まりを打開するため、日本側は2024年末にE10系の導入と、E5系およびE3系の無償譲渡を提案したと伝えられている。インド政府はこの提案を受け入れたわけである。

川崎重工業兵庫工場で新幹線E5系を視察した安倍晋三首相(当時)とインドのモディ首相=2016年11月12日(写真:Bloomberg)
もっとも、E10系の納入は2027年8月頃を見込む部分開通までに間に合わないため、E3系とE5系がまず2026年に輸出され、E3系は総合検測車としての役割を担い、E5系は先行開業区間での試験走行を行う。試験結果はインド仕様のE10系開発に反映される。
ただ、このような日本側の必死の引き留め工作に反して、インド側はよりしたたかにヨーロッパの信号システムの導入を進めていたということになる。
インド市場の厳しさ
インド高速鉄道プロジェクトは、当初予算で約9800億ルピー(約1兆8000億円)、そのうち8割が円借款で賄われる計画で、調達条件はタイド(いわゆるひも付き)となっている。つまり、原則的には日本企業が受注することになる。土木工事は現地企業による建設に決まったが、核となる車両や信号といった部分は日本製となるのが当然である。
それにもかかわらず、信号関連をヨーロッパ企業に受注させてしまった。そんなことが許されるのか。
実は、インドネシアと並んで最大規模の円借款受け入れ国であるインドには、ムンバイ、ベンガルール、デリー、チェンナイなど6都市のメトロ(都市鉄道)の一部区間だけでも、これまでに計1兆円以上の円借款が供与されている。しかし、日本のODAで建設されたとはいえ日系企業の受注例は極めて少なく、ヨーロッパ仕様の都市鉄道になっている。
もっとも、これらの案件はほとんどの場合、調達条件が一般アンタイド(調達先を限定しない)となっており、これは仕組み上、仕方のないことである。ただ、インドには欧州メーカーのほか、韓国のロテムなど各国のメーカーが進出して車両やシステムの現地生産を進めており、高いシェアを持っている。当然、インド政府にも強いパイプを持っている。
つまり、日本の鉄道業界にとって、インドは非常に厳しい市場であるということは、初めからわかっていた。
一方で日本は今回、新幹線技術を採用することを前提に、利子率0.1%、貸付期間50年、返済猶予15年という破格の条件を提示していた。
そんな中、インド側が単に安いからと信号通信システムをヨーロッパ企業と契約したのは横暴と言わざるをえない。そして、それを許してしまった日本政府、現地大使館やJICAの調整力、交渉力、そして新幹線システムへの理解のなさには大きな問題がある。
日印共同声明に「日本式信号」明示
車両メーカーは、当初のE5系よりも安くインド向けのE10系を完成させると思われる。日本国内向けのE10系と並行して生産することで、多少の仕様差があれど、コストダウンが可能となるだろう。
それにもかかわらず、インド高速鉄道に日本と異なる信号通信システムが導入されるとなればコストアップは必至で、元の木阿弥である。ODAプロジェクトでありがちな赤字覚悟の受注と言ってしまえばそれまでだが、金額が大きいだけに無視できないものになる可能性がある。
しかし、一筋の光明も差し込んできた。このたびの日印首脳共同声明では、インド高速鉄道プロジェクトの推進に関して、「最新の日本式新幹線技術の導入」のみならず、初めて「日本式信号によって走行する」という文言が付け加えられた。さらに「日本式信号を始めとする信号の早期の敷設並びに総合検測車及びE5系車両1編成の導入のために必要な作業を直ちに行う」として、「日本式信号」というキーワードが2度も繰り返された。
これは、明らかにインド側がシーメンスに信号システムを発注したことを念頭に置いた内容といえ、インド側の動きに釘を刺した格好だ。

東北新幹線E5系の「グランクラス」に乗る石破首相とモディ首相(写真出典:首相官邸ホームページ)
首脳会談の翌30日、モディ首相は石破首相と共に東北新幹線E5系のグランクラスに乗車し、仙台に向かった。東京駅では、現在技能講習中のインド高速鉄道公社の研修員がホームで出迎え、一部区間では石破首相と共に運転台にも添乗した。さらに、大宮駅ではE10系の基となる試験車両「ALFA-X」を入線させ、窓越しに見学できるという演出がなされた。

新幹線E5系の運転台を視察する石破首相とモディ首相(写真出典:首相官邸ホームページ)
過密スケジュールの中での苦肉の策と思われるが、車内ではJR東日本の深沢祐二会長がモディ首相に対し、同車両の説明を行った。このような異例とも言える待遇は、モディ首相に実際の新幹線を披露するため、日本側が背水の陣を敷いたとも言える。
ただ、これで万事解決ではない。本当の勝負はこれからだ。現場レベルで、一つ一つの課題に対し、日本側が粘り強い説明と説得を続け、インド側を納得させなければならない。すでに契約されてしまったパッケージを白紙に戻すことができるのか、注目される。
新幹線は「万能」ではない
2015年12月に安倍元首相とモディ首相の首脳会談で建設が決まったインド高速鉄道は、もともと円借款プロジェクトとして想定されていたインドネシアのジャカルタ―バンドン高速鉄道が同年9月、中国に逆転受注された直後ということもあり、大いに注目された。これからはインドの時代だと、インド推しの声がどこからともなく沸き上がった。政府も産業界に発破をかけた。

東北新幹線のE5系(撮影:尾形文繁)
しかし、それから10年経った今も具体的な開業の見通しは立たず、仕様すら決まらなかった。ビジネスの世界では、完全に気が済むまで交渉するという国民性もあり、インドは中国以上に手ごわい相手と言われるが、あまりにも甘く見ていたのではないだろうか。日本側がもっと早く本腰を入れて交渉に当たっていれば、今ごろは別の未来があったかもしれない。
そして、新幹線万能論への陶酔はいい加減、やめにするべきだ。ヨーロッパ式の高速鉄道も、中国式の高速鉄道も、世界では新幹線と同じ土俵にいる。高密度、稠密ダイヤでの運行を実現する新幹線システムを果たして相手国が本当に必要としているのか、まずはそこを見極めたうえで売り込まなければ、この不幸は再び繰り返されることになる。