《高校時代は「うざい」「キモい」》乳がんで妻を亡くし17年間、反抗期もひとりで娘を育てた父が一瞬で報われた「母の日のプレゼント」

ドラマと映画にもなった『はなちゃんのみそ汁』は、25歳で乳がんになり、闘病しながら愛する娘を命がけで出産した安武千恵さんと娘のはなさん、夫の信吾さんの家族の物語。世の中の人に広く知られることになった結果、一時期は父娘の距離が遠のいたこともあったといいます。(全3回中の3回)

「新聞記者のあなたが書くべきだ」と説得されて

──『はなちゃんのみそ汁』は、25歳で乳がんを患い闘病を続けていた千恵さんが4歳の娘・はなさんにみそ汁の作り方を教え、千恵さん亡きあとも受け継がれていく様子を、夫である信吾さんが千恵さんのブログを振り返り、1冊の本にまとめられた作品です。出版されたきっかけはなんだったのでしょうか。

「新聞記者のあなたが書くべきだ」と説得されて, 中学1年の娘の心に届いた、亡き母の言葉, 「うざい」「キモい」しか言わない娘に「弁当だけは」, 17年間の子育てが報われた瞬間は突然に, 娘と娘の彼氏との新しい「三角関係」も

安武千恵、安武はな

はなさんにご飯を食べさせる千恵さん。通っていた保育園の食育がきっかけで、食への向き合い方が180度変わった

安武さん:僕が駆け出しの新聞記者だったころ、ある殺人事件の取材で知り合った週刊誌の男性記者がいました。出会いから14年たったある日のこと。出版部門に異動した彼から「本を書きませんか」と連絡があったのです。妻を亡くしたあとでした。「千恵さんが、幼い娘に何を残そうとしたのか。夫として、父として、安武さんが書きとめておくべきです」。彼は、僕たち家族を紹介した朝日新聞の記事を読んでいたのです。

そのときはすごく迷いました。もし本を書くなら、妻のブログを読み返さないといけない。そのブログとは、抗がん剤治療を経験した妻が娘を出産、肺に転移したがんを一度克服したのち、再転移がわかったときに書き始めた『早寝早起き玄米生活』です。でも、妻が亡くなって2、3年で、僕自身がまだ現実を受け入れられず、とても過去を振り返ることができるような状態ではなかったんです。それでも、彼は東京から福岡まで何度も訪ねて来て、「娘は母から何を学び、受け継いだのか。それを書けるのは安武さんだけです」と言い続けるんですよ。

結局、彼に根負けしました。そこで、伝える対象をひとりに絞り込みました。娘です。妻が娘をどれだけ愛していたか。どんな思いで産んだのか。それを娘の心の中に深く刻み込みたかったんです。執筆を始めた当時、娘は8歳だったので、大人になったときに、母親との思い出を忘れずにいられるような1冊になればいいなと。それは、妻の生きた証にもなります。

まず、パソコンの前に座って妻のブログを読むことから始めたんですけど、意外と落ち込むことはなくて。まるで妻と対話をしているような、心地いい気分にもなれました。

── 本を書かれるまでに、そんな経緯があったのですね。

安武さん:1冊の本を書くことで、僕自身も気持ちの整理ができたように思います。妻の死をようやく受けとめられたような気がしました。出版後は、ドラマ化、映画化されて、出版社に感想の手紙やメールがたくさん届きました。ほとんどが僕たち家族のことを肯定的にとらえてくださるコメントだったのでうれしかったですね。ただ、何年経っても妻を亡くした悲しみが癒えることはありません。彼女の存在は、僕のなかで大きくなるばかりでした。

中学1年の娘の心に届いた、亡き母の言葉

── そういう気持ちを抱きつつ、安武さんと娘のはなさんふたりの生活が続いていったのですね。

「新聞記者のあなたが書くべきだ」と説得されて, 中学1年の娘の心に届いた、亡き母の言葉, 「うざい」「キモい」しか言わない娘に「弁当だけは」, 17年間の子育てが報われた瞬間は突然に, 娘と娘の彼氏との新しい「三角関係」も中学2年生のころ、はなさんが安武さんに贈ったバレンタインチョコ

安武さん:中学1年のとき、娘が「もしママが私を産んでいなかったら、ママは生きていたかもしれんよね」って、突然言い出したんです。そのころの娘は、妻の病気と死の関係を少しずつ理解できるようになっていたのかな。『はなちゃんのみそ汁』の本も読んでいたみたいだし、映画も観ていたし。

僕は、「この子には、生まれてきたことを肯定できる人になってほしい」と思っていました。そう思える子になるように育ててきたつもりだったから、「こんなときが来たんだな」と少し驚きつつ、妻のブログの一節を思い出して娘に読ませました。妻がブログに残してくれて本当によかったと思いました。妻の生の声ですからね。「ママがこんなこと言ってたよ」って僕が言うよりも、本人がこう書いているのを読ませるほうが娘の心に響くんじゃないかと思ったんです。

ムスメは、今や、最大で最強の私のサポーター。

あそこで諦めていたら、ムスメには出会えなかったのだ。

ムスメがいなかったら、正直、ここまでも、これからも、頑張っていけたかどうか、わからない。

ムスメに出会えたことは、私がこの世にいたという証だ。

自分より大事な存在に出逢えたことは、私の人生の宝。

サポーターの力は最強。

私の人生の目的は、これだったのかな。

<中略>

ムスメと出会えたことに、あらためて感謝しつつ。

最大で最強のサポーターちゃん、ありがとう。

この世でしっかりあなたの幸せを見せてもらうからね!

(千恵さんのブログ「母のナミダ」(2008.05.13)より一部抜粋)

※千恵さんのブログは、現在、信吾さんのブログ『はなちゃんのみそ汁 official Blog by Ameba』からも閲覧できます。

安武さん:娘がこのブログを読んだのは、中1の夏休み最終日でした。当時は、本や映画、ドラマの影響で「はなちゃん」って多くの人たちから温かく声をかけられていました。ただ、いいことばかりではありませんでした。メディアへの露出が多かったせいか、「調子にのっている」といじめにあったりして。思春期で、周囲も多感ですからね。妻も「自分の母親が乳がんだったことを、悩み苦しむ時期がくるかもしれない」というようなことをブログに書いていて。だから、この言葉を残したのかもしれません。 

ここでこのブログの一節をセレクトできた自分は、我ながらすごいなと。思春期とはいえ、このころの親子関係はまだギリギリ大丈夫だったんです。中学で自分の居場所がなかった娘は「パパを味方にしないと」って思っていたようでした。

「うざい」「キモい」しか言わない娘に「弁当だけは」

── その後、おふたりの仲がギクシャクするようになったそうですね。

安武さん:中学を卒業するくらいから高校2年ごろまでは本格的な反抗期でした。2〜3年間は「うざい」「キモい」しか言わなくなって。急に言い出したから、最初はびっくりして「今なんて言った!?」って叱ったりもしましたけど。

娘が小学生のころは肉体的に大変で、いつも疲れ果てていました。僕は子ども会の世話役やPTA専門部の部長をやったり、勤めていた新聞社でも代役の効かない仕事を任されていたんです。当時のことをよく思い出せないほど、必死で走り続けていました。でも、メンタル面は、中学卒業前からの反抗期のころのほうがしんどかった。親子の会話がほとんどなかったあのころには、もう戻りたくないです。

そんな時期の父の日に、普段は口も利いてくれない娘が靴下をプレゼントしてくれたんです。自分のこづかいでね。手紙が添えられていたんですが、「靴下に穴があいてる。買わなきゃ」みたいな僕の独り言を聞いていたようで、そのことが書いてありました。それともうひとつ、「最近は、すぐカチンときて、パパとしゃべらないこととかあるけど、いつも、いつも、感謝しています。もう少し、はなの心が大人になるまで我慢してね」って書いてあって。びっくりしましたね。面と向かっては言えなくても、手紙ではそういうこと書けるんですよね。子どもたちって。

「子どもたち」ってあえて言いますけど、みんなそうだと思うんですよ。僕はその一文にすごく助けられて。子育てで経験したことがない壁にぶつかって、どう対応していいかもわからなかった時期だったんですけど、手紙を読んで「そうか、待てばいいんだ」って腑に落ちて。信じて待つしかない。きっと昔のような関係性を取り戻すことができるって信じて待ちました。そう信じて待ちながら、弁当だけは毎日作っていました。毎回、きれいに食べてくれていたのが救いでしたね。

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── お弁当には、どんなおかずを?

安武さん:娘が好きな甘い卵焼きは必ず入れていました。あとは、大好物だった赤じそのふりかけもご飯にかけて。おかずは、常備菜のほか、冷凍食品や前日のおかずの残りを詰めることもありました。

娘は、僕が弁当を作る姿を見てくれていたからか、社会人1年生になった今、毎朝弁当を作って通勤しています。「してほしいことをして見せる」。これが、僕たち夫婦の子育ての原点です。娘の弁当作りを続けてきて本当によかったと、しみじみ思います。

17年間の子育てが報われた瞬間は突然に

── 西日本新聞社の編集委員を経て、現在は映画の監督や講演など、精力的に活動されています。

安武さん:いま、僕が監督したドキュメンタリー映画『弁当の日 めんどくさいは幸せへの近道』が自主上映という形式で全国上映中なんですが、この映画は、2001年から始まった香川県の小学校での食育の活動を取り上げたものなんです。映画の中で、妻が生前お世話になった助産師の内田美智子先生が、多感な年ごろのお子さんを育てているお母さんたちに向けて、「いつか必ず報われる日が来るから」っておっしゃっていて。聴いているお母さんたちは涙を流していました。僕はその様子を撮っていたんですが、奇しくも自分にも同じことが起こったんです。

── 何か起こったのですか?

安武さん:娘が大学生だったころのある日、娘も僕も休みだったんですが、娘が「今日はパパ、何もせんでいいよ」って言うんです。「家のことは、全部はながするから。晩ご飯も全部作るし。とにかくゆっくりしといて。新聞でも読んでて」って言うんですよ。僕は、はなに言われた通り新聞を読みながら「どうしたんやろう」って思ったんですけど、結婚記念日でも誕生日でもない。

そこで、カレンダーを見たら、「母の日」だったんです。思わず「母の日だけど?」って言ったら、娘は「そうだよ。だって、パパずっと今までお母さん役してくれたやん」って言ってくれた。

そのひと言に報われました。つらかったことがすべて一瞬で洗い流される娘の振る舞いでした。高校生のころは口を開けば「うざい」「キモい」だったのに、そんなことを考えていたんだなって。だから、子育てに一生懸命頑張っている親御さんたちにこう伝えたいんです。「今はきついと思うことが多いかもしれない。でも、きっと報われる日はやってきます。子育てを楽しみましょう」って。

娘と娘の彼氏との新しい「三角関係」も

── これまでを振り返って、はなさんをほめてあげたいことがあれば教えてください。

安武さん:娘は、そこにいてくれるだけでいいですね。よくぞ、生まれてきてくれた、と。それ以外は何もないです。

── 本当にそのとおりですね。最近のブログには、はなさんの彼もよく登場しますが、とてもいい関係を築いていらっしゃいますね。

安武さん:そうなんです。最近は、毎日のようにわが家に来るようになって、3人で食卓を囲んでいます。男ふたりで台所に立って料理を作ったり。娘が不在でも、一緒にご飯を食べています。図々しいところもあるけれど、素直なやつで。娘のほうが強くて、言うことを素直にきいてます(笑)。

彼の長所は、人を言葉で攻撃したり悪口を言わないところ。一緒にいて不愉快な気持ちになったことがない。僕はそこがすごく好きで。それって、裏を返せば本当の強さですよね。見た目はやさしくて穏やかな感じなんですけど、本当に芯の強いしっかりした人間なんだろうなと思っています。

悪口を言わないっていうのは、亡くなった妻が、娘と交わした最後の約束なんですよ。「人の悪口を言ったらダメ。やさしい人になってね」って。娘のまわりにはそういう人が集まってくるんだなあと、あらためて思います。僕なんか飲めば愚痴ばっかり。娘も彼も、自分にないものをもっているなって。年齢は大きく離れていても、そういうところは尊敬しています。

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安武はな

小学生のころのはなさん。「人のわる口を言わない」と短冊に

── 素敵な関係ですね。安武さんご自身もさらに活動の幅を広げていらっしゃる印象です。

安武さん:僕自身は、2020年3月末に西日本新聞社を早期退職して、食育がテーマのドキュメンタリー映画を撮りました。「家族で食卓を囲むこと」の大切さと、「自分がしてもらってうれしかったことを周りの人たちにもしてあげられる人になってほしい」という願いを込めています。

これは、私立小学校の音楽教諭だった妻が子どもたちに伝えたかった思いでもあって。彼女は、乳がんの治療のために仕事を辞めた後も、ブログや音楽活動、講演活動を通じて、広く伝えようとしていました。でも、それは道半ばで途絶えてしまった。

僕は、映画を作ることで、その妻の思いや志を紡ぐことができたんじゃないかと勝手に思っているんです。妻との結婚生活はわずか7年間だったけれど、その時間があったからこそ作ることができた映画です。また、妻のことを深く知ることができたようにも思えています。妻に感謝しているし、妻にもぜひ観てほしい。だから、映画のエンドロールには「スペシャルサンクス」として妻の名前を刻みました。ほめてほしいというか、ふたりの共同作業で完成した映画を、とても大切に思っています。

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安武信吾、安武はな

食卓を楽しそうに囲む安武さんと小学生のころのはなさん

── いま、大切にされている時間はありますか?

安武さん:家族の時間です。これはもう変わらないですよね。親にとっても子どもにとっても大切だと思っています。

音楽も大切にしています。2006年に妻が企画した「いのちのうた」というコンサートがあります。今年で18回目になります。がんで亡くなった中学生の女の子の追悼が、このコンサートの始まりでした。僕は妻の縁で、多くのミュージシャンたちと出会い、サックス奏者としてステージで演奏もさせてもらっています。今思えば、妻が残した「いのちのうた」が、僕にとってのグリーフケア(死別などで喪失を体験した人の悲しみに寄り添い、自立できるように援助すること)だったような気がします。これからも自分の大切なライフワークとして音楽活動を続けていきたいですね。

取材・文/高梨真紀 写真提供/安武信吾 参考文献/『はなちゃんのみそ汁』(安武信吾・千恵・はな/文藝春秋)