埼玉・熊谷市――県北のド田舎に「駅前だけ大都会」が生まれた根本理由
郊外と駅前が共存する構造
埼玉県北部の平野に、大規模な都市の風景が突如として現れる。熊谷駅前には、郊外的な風景が続く高崎線沿線には不釣り合いな、密度の高い都市景観が広がっている。
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駅の南北にはロータリーと停留所が整備され、郊外方面へ向かうバス路線が発着する。中心市街地には、ニットーモールやイオン熊谷店などの大型商業施設が並ぶ。
現在では、国道17号沿いにカインズやケーズデンキといった郊外型店舗も展開しているが、それでも駅前の賑わいは維持されている。
文化施設も充実している。県内に2館しかない県立図書館のひとつ、埼玉県立熊谷図書館が中心市街地に立地する。ライブハウス「熊谷HEAVEN’S ROCK」は、かつて「熊谷VOGUE」の名で“北関東最大級”をうたっていたと記憶している。
こうした都市スケールは、周辺のまちとは明らかに異なる。例えば高崎線で2駅、約10分の距離にある深谷駅前には、大型商業施設や集客施設がない。駅前はすぐに住宅街となり、その先には田園地帯が広がる。高崎線沿線でも、これほどまでに都市空間が形成された例は熊谷市だけだ。
なぜ熊谷だけが、ここまで“都会”なのか。その背景を探っていく。
“終点”だった熊谷駅
熊谷市の位置(画像:OpenStreetMap)
熊谷市の歴史は古い。江戸時代には中山道の熊谷宿として、本陣や脇本陣が置かれ、庶民向けの旅籠や茶屋が軒を連ねていた。江戸時代末には、人口が3200人を超えていたという。1750(寛延3)年に始まったとされる「うちわ祭」は、今も町の伝統として続いている。
明治維新後の1873(明治6)年には、熊谷町が県庁所在地に指定され、埼玉県北西部と群馬県の大部分を管轄する熊谷県が設立された。熊谷県は1876年に廃止されたが、この経験が地域の中心地としての自覚を深める契機となった。
1883年、日本鉄道(のちの高崎線)が上野~熊谷間で開通する。当初は熊谷が終点だった。これにより、熊谷は北関東の玄関口としての地位を高めていく。
もともと中山道と秩父街道の分岐点に位置していた熊谷は、交通の要衝として重要な役割を担っていた。鉄道の開通で、鉄路と水運の両方を活かせる集積地としての機能が強化された。
当時の熊谷周辺では、養蚕や農業が盛んだった。生糸や小麦粉、染物などの地場産業も発展していた。そこに日本鉄道の開業が加わり、熊谷は一気に経済拠点としての地位を確立していく。
拠点化がさらに進んだのは1901年。秩父鉄道が熊谷~寄居間を開業したことで、熊谷は秩父地方や荒川上流と関東平野をつなぐ中継地点となった。原材料の集積地としてだけでなく、物資を活用する産業都市としての展開も進んだ。日東製粉や片倉シルクなどの企業が、その象徴である。
こうして熊谷は、秩父鉄道・高崎線・幹線道路・荒川水運という複数の交通手段が交差する拠点となった。この点こそが、周辺都市とのもっとも大きな違いである。
85%の吸引力が示す実力
熊谷市(画像:写真AC)
この地理的な拠点性を背景に、熊谷には県や国の広域行政機関が集中的に配置されてきた。埼玉県の熊谷地方庁舎をはじめ、地方気象台や国の出先機関などが立地し、北部地域の行政サービスを担っている。熊谷は単なる交通の結節点ではない。北埼玉全体をカバーする「行政・商業の拠点」として機能している。
こうした求心力により、熊谷は独自の商圏を形成している。埼玉県が2015(平成27)年度に実施した「埼玉県広域消費動向調査報告書」によれば、熊谷商圏の概要は以下のとおりである。
・中心都市:熊谷市
・商圏人口:60万6211人
・うち熊谷市の人口:19万8535人
・地元購買率:67.5%
・吸引人口:16万8060人
・吸引率:27.7%
・吸引力:84.7%
熊谷市は、自市の人口の約3倍に相当する商圏を構成している。吸引人口16万8060人とは、周辺自治体から熊谷へ買い物に訪れる人の数であり、熊谷市の人口の約85%にあたる。また、地元購買率67.5%は、熊谷市民の3人にふたりが市内で買い物を済ませていることを示している。これは東京近郊の都市としては高い水準にある。
「都心に依存しない独自の商業圏」
を築いている証左といえる。熊谷は、さいたま市や越谷市のような広域を吸い上げる大商圏ではない。それでも埼玉県北部の生活圏を支える中核都市として、日常購買・行政機能・交通の各面で独自の存在感を放っている。
駅前に資源を集中した都市政策
熊谷市(画像:写真AC)
熊谷市も、1990年代以降に訪れた郊外化の波を免れたわけではない。国道17号や県道沿いには郊外型商業施設が立ち並び、車社会に依存する典型的な地方都市の風景が広がっている。
しかし熊谷の場合、郊外化が進行しても、駅前の都市機能は失われなかった。郊外に商業施設が拡大する一方で、駅前には商業・行政・文化の機能が集まり続けてきた。結果として、県北最大の都市空間という性格を保ち続けている。
駅前の再開発が本格化したのは2000年代の北口からである。2004(平成16)年、市が熊谷駅アズ熊谷本館とニットーモールの間の土地を取得し、ティアラ21を整備した。駅ビルとニットーモールの動線を一体化させる大規模プロジェクトだった。これにより、かつて雑然としていた商店街は複合施設へと生まれ変わった。
南口では1990年代から整備が始まっていた。ロータリーの設置、駅南通りの拡幅、市役所や図書館など公共施設の集約が進められ、都市の「顔」が形づくられていった。
整備が進む以前の熊谷は、北口に偏った都市構造だった。拡張性に乏しく、バランスを欠いていた。しかし南口開発により、都市機能が分散し、拠点性はさらに高まった。特に、荒川対岸の万吉・江南方面へのバスを南口から発着させたことで、国道17号や跨線橋の渋滞を回避できるようになり、アクセス性も大きく向上した。
熊谷市は、コンパクトシティという言葉が注目されるよりも前から、郊外への拡散ではなく「駅前の密度」で都市性を維持する戦略をとっていた。
独立型都市・熊谷の実像
熊谷市(画像:写真AC)
こうした駅前集約戦略を可能にしているのは、熊谷が持つ独特の都市性である。熊谷市は埼玉県北部に位置し、東京の通勤圏に含まれる地域だ。しかし、同じ通勤圏の久喜市や蓮田市のようなベッドタウン型都市とは異なる性格を持っている。
その特徴は昼間人口の高さに表れている。2020年の国勢調査によれば、熊谷市の昼夜間人口比率は97.5%である。これは県全体の平均(87.6%)より約10ポイント高い。昼間も人口が流出せず、地域内で働き、学び、生活する人が多い都市であることを示している。
この高い昼間人口比率の背景には、熊谷市が県北部の拠点都市として機能していることがある。駅前には市役所や図書館などの公共施設、医療機関、商業施設が揃い、周辺の町村から多くの人が日常的に通ってくる構造となっている。
そのため、他の高崎線沿線都市が東京都心のベッドタウンとなっているのとは対照的に、熊谷は東京の通勤圏でありながら地域独自の都市機能を維持し、駅前に人を集め続ける独立型の地方都市として成長してきた。
こうした都市特性があるからこそ、熊谷市の駅前再開発による集約戦略は成功しているといえる。
昼間人口比率97.5%という数字が示すように、熊谷では日中も人が駅前に集まり続けている。これは駅前の商業施設や公共施設に安定した利用者を確保できることを意味する。また、周辺自治体から16万8000人が流入する商圏を持つことで、大型商業施設の出店や維持も可能になっている。
もし熊谷が他の通勤圏都市のように昼間人口が大幅に減少するベッドタウンだったなら、駅前の再開発や商業施設の集積は困難だったはずだ。昼間の空洞化が進む都市では、駅前への投資効果が薄く、集約戦略そのものが成り立たない。
つまり、熊谷の独立型都市としての性格こそが、駅前集約という都市政策を支える基盤となっているのである。
昼間人口循環の強みと課題
熊谷市(画像:写真AC)
駅前の再開発によって、熊谷市は商業・行政・文化の機能を集めることに成功した。この駅前集約型の都市づくりは、人口減少が進むなかで、広い通勤圏にありながら独自性を保つ都市として一定の成果を上げている。しかし、この集約モデルを長期間維持するには、いくつかの前提を検証する必要がある。
現在の集積は、広い地域から多くの人が駅前に集まることが基盤となっている。この集客力は複数の要因が重なっている。
・新幹線が停車する交通の利便性
・市役所や県の施設が集中していること
・医療や教育などの日常的なサービスの集積
・周辺の自治体に拠点が少ないこと
などが同時に作用している。これらのどれかが失われると、熊谷の都市機能は分散し、空洞化が進む可能性がある。
また、昼間人口の多さは、市内での仕事やサービス利用が地域内で循環していることを示している。これは強みだが、同時に外部への依存度が低いことも意味する。もし外部との接続が技術的や制度的に弱くなれば、内部だけで回る閉鎖的な構造がリスクとなる。駅前集約を続けるには、外部との関わりを選んで維持し、更新していくことが不可欠である。
さらに、都市の密度を保つ目標は、地域の住民が多様な生活ニーズを持つこととは必ずしも合わない。特に高齢化が進み、移動が困難な人が増えれば、「人が集まる」こと自体が難しくなる場合もある。これまでの集約戦略はバス路線の整備や再開発で対応してきたが、将来的には医療や福祉サービスの質を見直し、ICTの活用や生活圏ごとの支援体制の構築が求められる。
独自条件が支えた成功例
熊谷駅(画像:写真AC)
こうした課題を踏まえ、熊谷市が進めてきた広がりではなく密度による都市づくりは、人口が集中することで都市サービスを維持する点では有効に機能している。都市計画の方針変更や政策資源の集中も駅前再開発を軸に効果的に進められてきた。ただし、これは結果的に成功した面が大きく、他の都市が同じ方法を形式的に真似できるモデルとはいえない。熊谷市は独自の歴史的背景や地理的条件、複数の制度や物流、行政の要因が重なって実現した戦略だからである。
したがって、駅前集約を「人口減少社会における新たな都市モデル」と呼ぶことは可能だが、それをすべての都市に当てはめるのは慎重でなければならない。問われているのは、どのような都市が、どのような前提のもと、どのような手段で密度を作り維持できるかという具体的な問題である。熊谷の戦略は、その問いを全国の都市に投げかける出発点となる。
熊谷市の例が示すのは、人を集めることによる利益だけでなく、人が集まり続けるために支えられている複数の基盤の存在である。都市の将来を考えるうえで、密度を基本とした戦略の持続可能性と、地域外とのつながりがどのように再設計されるべきかを見極める必要がある。