中村獅童 離婚後「演技で返していくしかない」と誓った矢先に問題が重なり…どん底の時〈こんなことで滅びる奴じゃないんだよ〉と内田裕也さんに助けられて【2025年上半期ベスト】
2025年上半期(1月~6月)に配信したものから、いま読み直したい「ベスト記事」をお届けします。(初公開日:2025年6月9日)
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演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第40回は歌舞伎役者、俳優の中村獅童さん。色々な問題が重なりどん底にいたとき、内田裕也さんの言葉に救われたそうで――。(撮影:岡本隆史)
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【写真】二人の息子と楽屋にて…
今でも時々夢で叱られる
獅童さんは現在、後進の役者を引き立てられる立場になっている。最近、澤村精四郎(きよしろう)という名跡を復活させた。
――ええ、20年以上前にご病気になって、ずっとお休み中の澤村藤十郎お兄さんのお弟子の國矢(くにや)君ですね。藤十郎お兄さんも、僕がまだ誰とも喋れない時代に優しく声を掛けてくれてましたからね。
國矢君は僕の超歌舞伎で、ヒーローと対決する、まぁ悪役をずっと務めてて、初音ミクちゃんのファンたちの間で、國矢君格好いい、ってちょっと火がついて。
でもその人たちが歌舞伎座へ見に来てみると、ほんの一瞬で出番が終わっちゃうから、がっかりさせちゃう。彼は腕もあるし、幹部にしてもっと活躍できるように、って会社にお願いしたんですよね。
それで藤十郎お兄さんが前名の精四郎をくだすったんで、去年9月の南座と、暮れの歌舞伎座『あらしのよるに』の狂言半ばで、僕と二人並んでご挨拶したんです。
これ、あんまり歌舞伎界になじみのない方たちには普通のことでも、こちらの世界にとっては大きな出来事で。門閥以外のお弟子さんたちも努力すれば道が開ける。それでみんなが頑張れば芝居がよくなるしね。
筆者の関容子さん(下)と
それとまた、女性を頑なに舞台に上げない歌舞伎界というのもおかしいでしょう。
山田洋次監督が、『文七元結』の従来のやり方に納得のいかないところがあるから、自分流に演出してみたい、って僕を主役の左官長兵衛に指名してくださった。配役の話になって、「普段映画撮っておられる時みたいに、女優さん使ったらどうですか?」って言って。
それこそ勘三郎お兄さんの『浅草パラダイス』に寺島しのぶちゃんも僕も出てて、彼女は子供のころからずっと歌舞伎座の舞台に立ちたかったと言ってたことを覚えてて、おこがましい言い方だけどその夢を叶えてあげたかった。監督も是非、ってなって、しのぶちゃんに決まったんです。
歌舞伎界って、頑なに女子を拒んでるわけじゃなくて、たとえば『助六』の揚巻みたいな役は女性がやると生っぽくなっちゃうんですよね。でも世話物と書き物(新作)だとさほど違和感ないし、かえって、いい場合もあると思う。
それで『文七元結』の楽の日、しのぶちゃんがお父さんの菊五郎さんのところに挨拶に行く、って言うから、ああ、俺も行きたい、ってなって。
菊五郎さんは終始ご機嫌よくて、まぁ、いろんな話をしてお酒も進んでね。そしたら急に「魚屋宗五郎やれよ、歌舞伎座で。俺教えるから」。もうびっくりして。だって息子さんの菊之助さんも歌舞伎座ではまだやってないのに。
こういう嬉しいことがあるたびに、勘三郎兄さんに褒められたいとか、でも嫉妬するかなとか思います。今でも時々夢で叱られるし、いつでも僕の心の近くにいるんです。
今日はいっぱい勘三郎兄さんの話をしましたけど、中途半端にはもうあまり話したくない。勘三郎さんは凄かった、凄かったって言ってると、それで自分が終わっちゃう気がする。一生あの人は超えられないとは思うけど、でも生きていれば死んだ人より可能性はありますからね。
楽屋に3台の鏡台が並んで
第3の転機は、去年6月のお子さん二人の初舞台、ではないだろうか。
――そうですね。あの時はいろんな番組に呼んでいただいたりしましたけど、長男の陽喜(はるき)、次男の夏幹(なつき)なんて言うと、もう一人子供いるだろ、って言い出す人がいる。
一度は愛し合って結婚して、子宝に恵まれて……僕は一人っ子だったからものすごく嬉しかったんですね。でもいろんな事情で離婚して、それでいろんなことを言われました。
ここで盛り返さなかったら、ただの珍しいやんちゃな金髪の歌舞伎役者、で終わっちゃう。これは演技で返していくしかない、という気持ちでいたら、また酒気帯び運転とかで問題が重なった。その時に助けてくれたのが、内田裕也さんなんです。
裕也さんとはまったく無名のころ、さっき話に出た大阪のバーで勘三郎兄さんたちと一緒に飲んでて、「お前か、歌舞伎役者でロックンローラーなのは」って面白がってくれた。いなくなったと思ったらバーに電話があって、「一人でここへ来い」。行ったら「本当に一人で来たのか、いい根性してるな」って。
楽屋にて、長男の陽喜くん(左)、次男の夏幹くん(右)に囲まれて(写真提供:獅童さん)
その時たった一度しか会ってないのに、僕がいろいろ問題になった時、ワイドショーで「あいつはこんなことで滅びる奴じゃないんだよ、根っからのかぶきもんなんだよ」って言ってくださった。ありがたかったですね。
もう一人の長男のことは、忘れた日は一日もありません。今はまだちょっと早いけど、陽喜と夏幹がもう少し大きくなったら、お父さんにはもう一人子供がいるんだよ、って、はっきり自分の口から伝えたいと思います。
まるで獅童ヒストリーみたいな話になったけど、その役者の中身が全部見えてしまうのが舞台であり、映像なんです。良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも悔しいことも、すべてがその人の役者像を作り上げていく。
歌舞伎には「腹芸」という言葉があって、特に時代物などは人間性の厚みみたいなものがないと、誤魔化しがきかない。お客さんもちゃんと見極めているんですよね、歌舞伎では特に。
それで第3の転機はやっぱり息子二人の初舞台。一つの楽屋で3台の鏡台が並んだ時、ああ、これが歌舞伎の親子なんだなぁ、と胸が一杯になりましたね。
母・陽子さんと獅童さん。最初で最後となった親子でのハワイ旅行で(写真提供:獅童さん)
「もう安心して向こうに行ける」
ご子息たちの幸せなスタートに比べて、獅童さんは苦難の道だったが、そのご両親の胸中も察するに余りある。ある時、私は母上・陽子さんの暗黙の依頼を受けて、父上・三喜雄さんを「獅童さん見物」に誘ってみた。すると「待ってました」とばかりのご快諾で。
――そうですね、親父は「もう俺は歌舞伎を捨てた人間だから絶対行かない」って。昔の人間で頑固だから、身内の誰が誘っても僕の舞台は観に来なかった。それがその時から突然来るようになって、もう来だしたら止まりませんでしたね。(笑)
父が亡くなる年の正月は、浅草公会堂で「金閣寺」(『祇園祭礼信仰記』)の松永大膳という、国崩しの大きな役で。幕あきはただ座布団の上に座ってるだけなのに、パチパチパチって大きな拍手。まだ何もしてねぇぜ、って客席見たらうちの親父(笑)。ほんとによかったと思います。
母はもう最初から全面的に応援してくれてましたね。『あらしのよるに』なんかも、「将来、獅童が出し物するようになったら……」って企画書を会社に出しておいてくれたってこと、ずっとあとになって聞きました。
母は僕には直接あんまり褒めないんですけど、亡くなる前の月に明治座で『瞼の母』をやった時、「今日の忠太郎はよかった。泣けたわ。もういつ死んでもいい」って言ったんですよ。「そんなこと言うもんじゃない」「もう安心して向こうに行ける」「全然安心すんな」って喧嘩したんだけど。
寒い晩にお風呂で――ヒートショックでした。その日は実家の2階に僕らがいて、今の妻が1階で見つけて、「お母様が、お母様が……!」って2階へ駆け上がって来た。バーッて駆けつけたら眠るように亡くなってて、すぐに湯船から抱き上げてこうやって揺すったんですよ。「お母さん、お母さん」って。でもダメで。
そういう時って、全然涙出ないの。ドラマだとすぐ泣くけどね。緊張が解けた時に、ああ、いなくなっちゃったんだ、って涙が出た。しばらく経って、母が作って冷凍しておいてくれた最後のビーフシチューを、妻と泣きながら食べました。
今日は包まずに、深い話を聞くことができて、よかったです。
――だって、自分の人生で起きたことに蓋しちゃうと、自分の人生を否定しちゃうことになりますからね。
ほんとにその通りですね。