長嶋茂雄や高倉健を後援、昭和のフィクサーすら翻弄した「政商」の実名

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1958年、日本政府はインドネシアと平和条約を結び、戦時中の占領に対する賠償として約800億円を支払うこととした。日本企業の生産物やサービスの形で提供される「ひもつき賠償」とあって、日本の各商社は眼の色を変えてこの巨額の賠償利権の争奪戦を繰り広げた。当時インドネシア政府とのパイプがなかった伊藤忠商事が、仲介を依頼した男とは……?※本稿は、共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)の一部を抜粋・編集したものです。この本は1999年に新潮文庫から刊行されたものの復刊です。登場人物の年齢や肩書きなどは95年の新聞連載時のままです。

大本営参謀・瀬島龍三を

翻弄した「政商」の正体

 瀬島龍三(編集部注/戦時中は陸軍のエリート参謀として数々の作戦立案に携わる。戦後は伊藤忠商事で辣腕をふるい、同社会長にのぼりつめた)の部下だった小林勇一(編集部注/大戦中は日本海軍の整備参謀。戦後は伊藤忠商事ソウル支店長やメキシコ支店長などを歴任し、瀬島の右腕として多くの裏交渉に携わった)の証言が続く。

「久保のような男のことを政商と言うんだろうね。彼は『東日貿易の株主には自民党の大物議員の大野伴睦や河野一郎、それに右翼の児玉誉士夫らがいる』と自慢していた。東日貿易は自民党の裏の政治資金ルートになっていたようだ」

 東日貿易社長久保正雄は東京・銀座の外車ブローカーから身を起こした立志伝中の人物だ。終戦後、高級乗用車が不足した時代に、占領軍の軍人や米人牧師らの名義で米国車を輸入し、日本の大企業などに転売して荒稼ぎした。

「それがインドネシアのスカルノ大統領と仲良くなって、賠償ビジネスに力を振るうようになった。当時既に立派な二階建て事務所を飯倉(東京都港区)に構えていたから、僕はセーさん(編集部注/瀬島のこと)と久保の連絡役として何度もそこに通った」

 スカルノ政権に食い込んだ久保正雄は、ジープ納入を手始めに紡績工場プラント、テレビ局設備など賠償絡みの仕事を次々と伊藤忠商事に仲介し、その都度コミッションを要求した。

「久保が『瀬島さんはこれだけ払うと約束した』と言うから、社に帰って確かめると、セーさんは『そんな約束をした覚えはない』と言う。それをまた伝えると久保は『うそをつくな』と怒りだす。えらく苦労したよ」

 コミッションは通常13パーセントだった。久保の説明では、10パーセントをスカルノに渡し、残り3パーセントが東日貿易の取り分になるという。

「こういう裏のコミッションの費用を捻出するには、輸送費などの経費を水増しするしかない。ジープの場合、輸送費を2倍に水増ししたら、インドネシア国家警察の幹部が『いくらなんでも輸送費が高すぎる』と文句をつけてきた。『車にいろんなもの(スカルノ政権へのリベートの意味)を上乗せするから輸送費が高くなるんだ。お前らも事情は分かってるだろう』と言い返したが、結局輸送費は半分に削ることにした。もちろんその分、車本体の値段が跳ね上がったけどね」

 東日貿易へのコミッションは久保の指定する銀行口座に振り込んだり、久保の要求で伊藤忠商事の海外支店に送金したりした。

「伊藤忠のロス支店で受け取りたいと言ってきたこともあった。しかも『1000ドル札で用意してくれ』なんてね。1000ドル札はなかなかないから、支店長が集めるのに苦労したと言っていたよ」

東日貿易にかつて勤めていた

桐島正也が久保正雄を振り返る

 800億円余りの賠償金をめぐり、伊藤忠商事、東日貿易、スカルノ政権がつくりだした利権のトライアングル。久保はインドネシア賠償ビジネスで巨利を得て、大野伴睦ら有力政治家のほかプロ野球巨人軍の長嶋茂雄や俳優の高倉健らの後援者として知られるようになる。

 久保正雄とスカルノのパイプはどうやってつくられたのか。賠償ビジネスの源流を求めて私たちの取材はインドネシアに向かった。

 ジャカルタは雨期の真っ盛りだった。陽は1時間ほど前に沈み、海風がひんやり心地よい。独立記念広場から南へ車で数分。25階建てビルの最上階にレストラン「キリシマ」があった。

 オーナーの名は桐島正也(63)。東日貿易の元ジャカルタ支店長で、今はフロアの広さが1000平方メートルもあるこの日本レストランやゴルフ場などを経営する実業家だ。日に焼けた若々しい顔と、太く伸びやかな声がエネルギッシュな活動ぶりをうかがわせる。

「あれは昭和32年(1957年)ごろだった。僕がそれまで勤めていた鉱山会社を辞め、東京の銀座をふらふらしていたら、道でばったり久保さんと出くわした。『お前、今何もやってないのならおれの会社をちょっと手伝ってくれないか』と言うので『じゃあ、手伝いましょうか』となった。それが東日貿易に入ったきっかけだった。久保さんは輸入業務の分かる人間が欲しかったようだ」

 桐島はフロアの片隅のテーブルに腰を掛け、過去を懐かしむように目を細めながら語り出した。桐島は戦後、慶應大学を3年で中退した後、友人の父親が経営する鉱山会社に勤めた。そこで社長秘書を務める傍ら、外車販売も手掛け、東日貿易から買い付けた車を企業に売り込んでいたことがある。久保とはその時以来の付き合いである。

「僕が入った当時の東日はまだ社員が5、6人ぐらい。銀座の木造モルタル2階建ての事務所を借りて営業していた。久保さんというのは良くも悪くも非常に頭が良くて、性格の強い人でね。自分の思い通りに事が運ばないと社員をぶん殴る。まるで右翼の親玉みたいで、社員は皆いつも緊張していた。特に僕は怒られたけど、その一方で僕には相当目を掛けてもくれていた」

世話係を担った桐島が見た

スカルノ大統領の素顔

 桐島が東日貿易に入社した翌年の1958年2月、インドネシア共和国の初代大統領スカルノが戦後初めて非公式に来日することになった。戦後、旧宗主国オランダとの戦争を経て独立したインドネシアの政情はまだ不安定で、スカルノ暗殺を狙う共産ゲリラの一団が日本に送り込まれるという噂が流れていた。

「日本滞在中のスカルノ大統領を護衛してほしいという話が、インドネシアの駐日大使館から久保さんのところに持ち込まれた。それまで久保さんはインドネシアとは縁がなかったから、だれか知人を通じてだったと思う。それで久保さんは知り合いの暴力団幹部に頼んでボディーガード役や、羽田空港で歓迎の旗を振る人間の大量動員を引き受けてもらった」

 桐島の役目は、帝国ホテルに泊まった大統領一行4、50人の世話係だった。

「彼らが街に買い物に出掛けたりする時の案内役だよ。スカルノさんは(日本の物価事情を知らないまま)副官らに『ナイトクラブに行って来い』と5ドル程度のおカネを渡すことがある。だがそれじゃどうにもならなくて副官らはこっちにたかりに来るから、僕は久保さんに『あいつがいくら欲しいと言っている』と話をつなぐわけだ。でも僕が久保さんからカネをもらって彼らに渡すようなことはしなかった。僕がそのカネを懐に入れたと疑われたらかなわないからね」

 スカルノが飯田橋の料亭や赤坂のクラブに出掛ける時も桐島が車の運転手を務めた。スカルノは桐島のような若者にも気さくに声を掛けた。

「全然威張らないし、とっても親しみやすい人だった。それに全くおカネに興味がないというか、欲がなかった。業者からリベートを受け取ってもそれを自分個人の懐に入れたりせず、独立記念のナショナルモニュメントを造ったりする費用に回していたと思う」

スカルノ大統領と

デヴィ夫人の出逢い

 翌1959年6月。東京の街は5年後の東京オリンピック開催のニュースで持ちきりだった。桐島は久保正雄の指示で赤坂のクラブ「コパカバーナ」に行った。再び来日した日本びいきのスカルノに日本女性を紹介するためだ。

同書より転載

「そこでママさんから『あの子どうですか』と引き合わされたのがデヴィさんだった。他の女の子は派手なドレス姿なのに、1人だけ地味な紫のとっくりセーターを着ていてね。この子はずいぶん真面目なのか、それとも全く売れないのか、どっちなのだろうと思った。きらびやかな赤坂のナイトクラブにはひどく場違いの感じがしたな」

 後のスカルノ大統領夫人デヴィとなる根本七保子。当時19歳だった。桐島はデヴィをスカルノの滞在先の帝国ホテルに車で送った。

『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』 共同通信社社会部編(朝日文庫)

「途中でデヴィさんから『どんな人なの』と聞かれ『ちょっと色の黒い人だよ』と答えた。帝国ホテルの前で彼女に新聞か何かを入れた茶色の封筒を持たせ(社用でホテルを訪ねたような格好をさせて)大統領の副官に引き継いだのを覚えている」

 スカルノはデヴィを一目で気に入り、帰国後間もなくインドネシアに呼んだ。デヴィは1959年10月、久保とともにジャカルタ入りした。桐島が久保にジャカルタ赴任を命じられたのはそれから数カ月後のことだ。

「久保さんは最初から東日の商売のためにデヴィさんを利用しようとしたわけじゃない。あの時、スカルノさんに頼まれて日本女性を紹介しただけで、だれでもよかった。それをたまたまスカルノさんがとても気に入ったので、久保さんがデヴィさんに現金500万円と等々力(東京都世田谷区)の100坪の土地を渡して、ジャカルタ行きを説得したんだ」