「なんだこりゃ?」三千字超えの遺書に抱いた違和感…愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件を描いた「924ページの大著」を読む
あなたは、もう目撃しただろうか?
怪物のような本が、いま全国の書店で異様な存在感を放っている。取材・執筆30年、総ページ数924という超弩級の大作『see you again』だ。しかも著者の小林篤氏は、本の執筆はこれがわずかに2作目というから驚かされる。
何から何まで常識外れの「怪作」を、大阪大学名誉教授の仲野徹さんに読んでいただいた。生命科学者にして、ノンフィクションを読むことを趣味とし、新聞などで書評も多数執筆してきた仲野さんが、この「超」鈍器本に対面したときに思わず頭をよぎった言葉とは?
「読め」と迫ってくる、まるで「怨念」のようなもの
こんな本、誰が読むねん。
924ページもある本が送られてきたときの率直な感想だ。読書家の間では「鈍器本」と称される、振りかざせば凶器として通用するほどの重量感を持った本だ。しかも、それだけではない、なんと二段組みなのである。さらに、月刊誌『現代』に出た記事の部分は、より小さい活字で三段組みになっている。ざっと計算してみたら100万字近くもありそうだ。一般的な本の数倍にも達する。重いし、かさばるし、寝転んで読むわけにもいかない。
せっかく送っていただいたのだ。途中で止めるにしても、とりあえずは読みはじめるというのが浮世の義理だろう。と、なかばしぶしぶ、読みはじめた。しかし、なんと手が止まらなくなってしまった。
ほぼ丸一日がかりで、一気に読み切った。
もちろん、内容が面白いからというのがいちばん大きい。
もうひとつは、ここでいったん読むのをストップしてしまうと、二度とふたたび読み始めることができなくなるのではないかという恐怖感からだ。

Photo by gettyimages
なにしろ、巻頭にある人物紹介リストには57人もの名が挙がっていて、さらに著者の「小林」自身も出てくるので、おもだった登場人物は58人もいる。間をあけたら、誰が誰だかわからなくなること必至だ。
いや、本当はそんなことより、この事件を30年前から追いつづけたという「小林」の執念が、まるで怨念のように「読め」と迫ってくるようで、読むのを駆り立てられたのだ。
小林は遺書を読み「なんだこりゃ?」と呟いた
1994年に起きた事件だが、その内容と遺書のことはうっすらと記憶にあった。ウィキペディアには「愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件」としてアップされている。西尾市立東部中学校2年生の男子生徒が、自宅裏の柿の木で首を吊って自殺した事件である。残された遺書などから、4人の「友人」が主犯格として「パシリ1号」である上之郷清人君に対して執拗ないじめをおこなっていたこと、そして、100万円以上もの金が脅し取られていたことが明らかになった。

Photo by gettyimages
どうしてそれだけの金の都合をつけることができたのかが不思議だった。また、その最後に、本書のタイトルでもある「see you again」と書かれた遺書の内容――これは家族の意向によって公表された――にも違和感があった。
このあたりは、当時、大きく報道された内容を見て、私も含めて多くの人が抱いていた印象だろう。
小林は、3000字を超える遺書を読んで、「なんだこりゃ?」と呟いた。たしかにその感想には、うなずけるものがある。
「とてもレトリックが巧みで、知的な文章」ではあるのだが、<あ、そうそう!>、<しくしく>などの「妙に軽い言葉が、どこかフィクショナル」に思える。
そして彼は誰も責めることなく、「言いなりになった自分が悪い」と言い、<しんでおわびいたします>と決意したのである。さらに、輪廻転生を信じているような節もある。
川端康成や三島由紀夫が絶賛した、マラソン選手・円谷幸吉が「父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。(中略)幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」としたためた遺言状と同じくらい「強烈なインパクト」を小林は清人の遺書から受け、この事件の取材に携わることとなっていった。
小林は徹底的な取材で子どもたちの人間関係を明らかにした
自殺の要因としては、三つに分けることができるだろう。まずは、もちろん、4人の同級生たちによるいじめそのものだ。二つめは、いじめがおこなわれた場である学校であり、そしてもう一つは、家族である。
「いつも4人の人(名前が出せれなくてスミマせん。)にお金をとられていました」
遺書はこの一文で始まっているが、当然ながら4人はすぐに突きとめられて、最終的に3人が初等少年院、1人が教護院に送られた。だが、関係した弁護士や調査官、地検の部長たちはこの4人について、「ごくふつうの家庭のごくふつうの子」だったと口をそろえた。「検事5人体制で徹底的に調べて」、いじめの動機や彼らの人物像をつかもうとしたけれど、「わからなかった」というのである。
しかし、なぜ、いじめが始まったのか、なぜどんどんエスカレートしていったのか、「わからない」などということはありえないだろう。小林は、清人の友人や先生たちに、それも中学校だけではなく、保育園時代にまでさかのぼって、徹底的に取材しつづけた。

Photo by gettyimages
そうしてわかったことのひとつは、主犯の一人の巧妙なたくらみによって、蜘蛛の糸のように張り巡らされた子どもたちの人間関係である。まさに、がんじがらめだった。
さらに、なぜ金銭の強要がエスカレートしていったのか、清人はどうして唯々諾々とそれを受け入れてしまったのか、そして、死を決意せざるをえないほどのいじめとはどのようなものであったのか。小林の取材は、それらも次々に明らかにしていく。
小林は学校が「いじめ」を隠していたことも突きとめた
学校がいじめを認識し、適切に対処していれば、防げたのではないか――こういった事件が起きるたびに繰り返される議論である。この事件でも当然、同じように議論された。そして確かに、防げたかもしれなかった。
研究授業や公開授業に力を入れる、いわゆる「チョウチン学校」となった中学校で、先生たちは大忙しだった。そのための教育委員会による「肝煎りの人事」もおこなわれるなど、ベクトルが生活指導の充実とは逆だった。とくに、これはさすがに気の毒なのだが、清人らの担任であった女性教師は、小学校からこの中学校へ異動してきたばかりだった。

Photo by gettyimages
そして、取材を申し入れた小林に対して「私たち学校の味方をすると、約束してください」と、条件を出してきた校長。心意気のある教師もいたが、そんな状況の中学校だった。
「清人君が本当のことを言わないから、いじめには気がつかなかった、だから学校の責任を問われても困る」――学校が提出した報告書には、そんな本音が「いたるところに透けて」見えた。職員会議の議事録では、清人の問題行動についての記述から、「いじめ」の文字を消すという改竄(かいざん)までおこなわれていた。
これでは理解を求められても、無理というものだろう。学校の責任を問いつづける清人の両親との溝が埋まらなかったことは言うまでもない。
小林は家族の心をひらかせ、容赦なく迫り、そして、なかば壊れた
だが一方で、学校側は学校側で「いくら誠意を示しても上之郷家に伝わらないというジレンマ」を抱えていた。
自殺の要因の一つとして家族を挙げるのは、酷なことかもしれない。しかし、小林には容赦がない。
「私たち親が一番悪いんです」と、口をそろえて語った上之郷夫妻。
「あいつらは子どもにお金をくれる以外、僕たちに親らしいことは何もしてくれなかった。僕も清人も、あいつらに愛情なんて一度たりとも感じたことはない。弟は僕たち家族が見殺しにしたんです」とまくしたてた、清人の5歳年上の兄である伸人。
さらに、人当たりはいいが、家族にだけは違った側面を見せる祖母。事件当時は6歳だった弟を含めての6人は、いったいどのような家族だったのか。そして家族の間でいったい、どのようなことがあったのか。誰にとっても、すすんで話をしたいものではなかったろう。
しかし、小林の取材力はやはりすごかった。彼はいつしか相手の懐に飛び込んで、普通はしない話まで聞き出してしまうのだ。たしかに世の中には、人をオープンマインドにさせてしまう達人がいるものだ。それは技術的なこともあるのかもしれないが、天性のものが大きいのではないか。

Photo by gettyimages
小林に最も心をひらいたのは、伸人だった。三宅島に住む小林のもとを何度も訪ねたりもしていたのだが、しかし、その伸人との関係が、事件の14年後、突然に切れた。その衝撃で、小林はなかば壊れ、この本を書くまでに、それからさらに16年がかかってしまったのである。
「真実に近づくことの難しさ」を実感した贅沢な時間
小林はこの本を、ノンフィクションではなく、「フィクション」であるとしている。登場人物を仮名にするのは仕方ないことだし、これだけの綿密な取材に基づいた作品なのだから、ノンフィクションで問題ないはずなのに。
だが、そこに「伝説のルポライター」小林篤の真骨頂を見ることができる。
いくら取材しても、取材対象の言っていることが真実とは限らない。また、聞き取ったことを文章にするとき、真実をそのまま写し取れているとは限らない。それに、「『ホントのこと』というのは、なかなか取り扱いが難しい」という信念が小林にはある。

Photo by gettyimages
「『似てる』ということは『違う』ということなのだ」
そう語る小林だ。いくら真実に近くとも、真実そのものでない物語は、フィクションとするしかないのだろう。
SNSやネット記事だけでなく、政治家の言葉でさえ、短いことがもてはやされる、というより、そんなのに慣れきってしまっているこのごろである。鈍器のような本をいくらオススメしたところで、それほど多くの人に読んではもらえないだろう。
しかし、読む価値は十分にある、と断言しておきたい。
考えてみれば、世の中のことも自分のことも、さまざまなものが信じられないくらい複雑に絡み合った結果である。それをわれわれが文章にすることはないけれど、もしそうしてみれば、鈍器本が何冊分になることだろう。一つの事件を追いかけるだけでも、これだけ多くの要因があり、それを膨大な文章にしても、なお「真実」とは言い切れないのだから。
そういったことを、心から実感するための読書に時間を費やすのは、とても贅沢なことではないか。
本当に、ええ勉強させてもらえましたわ。