伊豆諸島はなぜ「東京都」? 伊豆半島は静岡なのに…という根本疑問

伊豆諸島と東京の距離感

 伊豆諸島は東京都に属する火山列島で、相模湾の南方に散在する。大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島から成る。大島は東京都心から約120km。温泉やサーフィンスポットが豊富で、東京から最もアクセスしやすい島だ。

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 利島は東京都心から約130km。人口は少なく、椿油が特産品として知られている。新島は東京都心から約160km。白い砂浜の海水浴場が人気で、ダイビングやマリンスポーツも盛んだ。

 神津島は東京都心から約180km。火山活動による独特の地形と温泉が観光の魅力となる。三宅島は東京都心から約190km。活発な火山活動があり、噴火時には全島避難が行われることもある。

 御蔵島は東京都心から約200km。イルカウォッチングが有名で、野生イルカと触れ合える数少ない島である。八丈島は東京都心から約290km。温暖な気候と豊かな自然が魅力で、年間を通じて観光客が訪れる。

 南には青ヶ島があり、東京都心から約360km。さらに鳥島は東京都心から約600km離れた無人島で、立ち入りは制限されている。伊豆諸島は距離があるように見えるが、交通網の発達で実質的な移動時間は短縮されている。定期船や航空路線は単なる移動手段ではなく、観光や物流の効率化にも直結しており、東京を中心とする経済圏の一部としての役割を担っている。

 ここで疑問が浮かぶ。伊豆半島は静岡県に属しているのに、なぜ伊豆諸島は東京都に属するのか。

江戸経済が決めた所属

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大島(画像:写真AC)

 伊豆諸島は江戸時代、天領として幕府の直轄下にあった。明治時代に入り、1871(明治4)年の廃藩置県で管轄は足柄県となる。足柄県は旧伊豆国全域と相模国西半分を含んでいた。

 1876年、足柄県が解体されると旧伊豆国は静岡県に合併され、伊豆諸島も静岡県の管轄となった。所属は目まぐるしく変わったが、廃藩置県に伴う混乱は全国的に共通する課題であった。

 江戸時代の体制は複雑で、藩の飛び地が遠方に存在したり、一地域が複数の旗本領に分割されたりしていた。伊豆諸島は一時静岡県に所属したが、東京府に属させる方が適切という意見が出ていた。

 名前からは伊豆半島との結びつきが強そうに見えるが、実際には江戸時代から江戸との経済的結びつきが深かった。産品取引や流通は江戸中心で行われ、距離の近さより経済的結合が優先されていた。

経済が導いた管轄の合理化

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利島(画像:写真AC)

 もともと耕地の少ない伊豆諸島は、米の代わりに塩や絹を年貢として納めていた。江戸時代後期になると産業が発展し、年貢は金銭で納める形へと移行する。島々ではつばき油や魚介類を売り、収入を得るようになった。

 当初は「島問屋」と呼ばれる商人が取引を担っていた。しかし独占的な権利を持つ商人が生産物を安値で買いたたくようになり、不公平が拡大した。幕府はこの状況を改めるため、江戸に島方会所という取引所を設け、島の産品をそこで扱う仕組みを導入した。こうして江戸時代の時点で、伊豆諸島と伊豆半島の関係は「距離の近さ」にとどまっていた。

 その後も東京との結びつきは強まった。1981(昭和56)年に刊行された『伊豆諸島東京移管百年史』(東京都島嶼町村会)によれば、静岡県にとっても伊豆諸島の管轄は問題を抱えていた。取引の多くは東京で行われ、トラブルが生じれば東京の商人を呼び出すか、島民が東京へ赴く必要があった。

 所属がまだ静岡県の段階でも、裁判事務はすでに東京裁判所が管轄していた。結局、行政も東京が担う方が合理的と判断され、1878(明治11)年1月11日に伊豆諸島は正式に東京府へ移管された。『伊豆諸島東京移管百年史』は

「移管は当然で、むしろ遅かった」

と記している。当時の島民にとっては「なぜ静岡県だったのか」という思いの方が強かったのだろう。

観光とリスクで問われる諸島名

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神津島(画像:写真AC)

 こうして伊豆諸島は東京都の管轄下に置かれることになった。現在も正式名称は伊豆諸島のままだが、一時期「東京諸島」に改称する機運が高まったことがある。

 きっかけは2000(平成12)年、三宅島の噴火が活発化し、全島避難が行われたことである。伊豆諸島の島々は距離が離れているため、三宅島の被害が他の島に直接及ぶことは少ない。しかし海水浴の人気スポットである新島では観光客が激減した。

 さらに観光客の減少は伊豆半島にも波及した。伊豆半島から伊豆諸島は遠く離れているにもかかわらず、地震や噴火が発生すれば伊豆全体が経済的損害を受けることが明らかになったのである。

 2002年、伊豆諸島の町村で構成される東京都島嶼町村会は、名称変更に関するアンケートを実施した。

・東京諸島

・東京黒潮諸島

に改称する機運は高まったが、最終的に56%が反対し、名称変更は実現しなかった。

 それでも観光振興団体の伊豆七島観光連盟は2004年4月、団体名を東京諸島観光連盟に変更した。東京都が毎年発行する伊豆・小笠原両諸島の現況報告書のタイトルも「東京諸島の概要」となっている。東京諸島には伊豆諸島だけでなく小笠原諸島も含まれ、範囲は非常に広い。

 伊豆諸島は江戸時代から東京と密接に結びついてきたため、ある意味で「東京の原点」ともいえる。東京諸島という名称は定着していないものの、観光連盟や各種イベントでは目にする機会が増えている。読者にとって、東京諸島と伊豆諸島のどちらの呼称に愛着を感じるかは興味深い点である。

東京中心移動網

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青ヶ島(画像:写真AC)

 伊豆諸島は江戸時代から東京との経済的結びつきが深く、地理的距離以上に東京都との関係が重要である。現代でも諸島の観光、物流、災害対応は東京を起点とする移動ネットワークに依存している。

 定期船や航空路線の整備は単純な移動手段ではなく、観光需要や地域経済の活性化に直結している。三宅島の噴火による避難や新島の観光客減少は、地域経済が島間ネットワークの利便性に強く左右されることを示す事例である。

 東京と諸島間の距離や所要時間は、物流コストや物資調達、災害時の復旧スピードに直接影響する。伊豆諸島は島ごとにアクセス条件が大きく異なるため、地域ごとに最適な交通インフラや災害対策の設計が求められる。観光や特産品の輸送を効率化することで、島経済の安定性を高め、東京との経済的結びつきを強化することも可能だ。

 こうした観点から、伊豆諸島の価値は形式上の地理的・行政的区分にとどまらず、東京中心の移動経済圏の重要な一部として認識する必要がある。