路線価日本一「銀座・鳩居堂前」の車道がわずかに凹んでいるワケ【太平洋戦争】

毎日、多くの人々でにぎわう銀座。その中心ともいえる四丁目交差点付近・銀座五丁目の「鳩居堂前」といえば、40年連続で路線価が日本一となったことで知られている。今年(2025)年7月1日、国税庁が発表した2025年分の路線価(1月1日時点)によると、鳩居堂前の路線価は4808万円/m2と、前年の4422万円から大幅に上昇し、史上最高額を記録したという。A4サイズの面積の土地の値段が約299.9万円に相当することになる。

その鳩居堂前から隣のTASAKI前にかけ、ほとんどの人が気づかないまま通り過ぎている「戦争の傷痕」がいまも残っているのをご存じだろうか。

銀座に残る「戦争の痕跡」とある女性との出会い

「路線価日本一」の銀座鳩居堂前。もしかすると、ここだけ車道がわずかに凹み、歩道との落差が高くなっていることに気づいている人がいるかもしれない。あるいは、新橋方面から銀座通り左車線を車で走ると、四丁目の交差点手前でフワッと車が浮くような、妙な感じがすることを知っているかもしれない。

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歩行者天国で銀座鳩居堂前を四丁目交差点方向に少しアップで見る。地面の凹みがよくわかる(黄色い印。2025年8月16日。撮影/神立尚紀)

だが、なぜここだけ車道が凹んでいるのかまで考えながらこの道を歩く人はほとんどいないだろう。

ここに、一人の女性が登場する。國友光子さん(1926-2017)。2001年、日曜日に日本橋で暦売りの露店を出しているところを、カメラ雑誌の仕事で東京のスナップを撮っていた私が撮らせてもらい、その写真を送ったことから交流が始まった。大正15年、京橋生まれの國友さんは、まさに戦中戦後の銀座、京橋、日本橋の生き字引のような人だった。

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銀座鳩居堂、TASAKI前を反対側歩道より望む。車道と歩道の境目を見れば道路が凹んでいるのがわかる(黄色い印。2025年8月16日。撮影/神立尚紀)

女学校を卒業後、新聞社に勤めていた國友さんによると、昭和19(1944)年以降、戦況が日に日に不利になってゆくのは手に取るようにわかったという。やがてサイパン島、テニアン島が米軍の手に落ちると、大型爆撃機・ボーイングB-29による本格的な日本本土空襲が始まった。

都心商業地への初めての大規模空襲

昭和20年1月27日、銀座、有楽町、京橋など都心の商業地が、初めて大規模な空襲を受けた。このとき、出撃した76機のB-29は中島飛行機武蔵製作所(杉並区)を目標にしたが、相模湾上空で針路を東向きに変え、西から東京へ侵入したところ、当時ほとんど知られていなかった日本上空の強いジェット気流のためにスピードがつきすぎ、大半が目標変更を余儀なくされたともいわれる。

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富士山をバックに空襲に向かうB-29の編隊

工場の爆撃が目的だったため、この日のB-29は焼夷弾ではなく通常の大型爆弾を搭載していた。この空襲による死者は539人、負傷者は1000人を超え、被災した建物は1200棟を超えたと記録されている。京橋の國友さんの生家もこのとき焼失した。

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米陸軍の大型爆撃機・B-29。日本中の主要都市を灰燼にした

朝日新聞社と日劇(現在、有楽町マリオンの場所)の間にも爆弾が落ち、國友さんが恋心を寄せていた『クラバヤシ』さんという朝日の連絡員も、朝日の1階にあった連絡員室で亡くなった。有楽町駅にも2発の直撃があったという。

國友さんが私に語ったところによると、爆弾のうち1発は鳩居堂前に落下、地面に3メートルの穴を開けて地中で爆発。現在のA2出入口は破壊され、鳩居堂も焼失した。日本初の地下鉄であった銀座線は、トンネルを「掘る」のではなく地上から開削し、そこに鉄筋コンクリートづくりの函体をつくって上に土をかぶせる造りになっている。爆弾は銀座駅浅草方面新橋寄りの函体上部を破壊したのだ。水道管も損傷し、一時は京橋駅まで水浸しになった。

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昭和20年1月27日、銀座、有楽町、京橋あたりは米軍のB-29の空襲を受けた(撮影/石川光陽)

だが、戦中の鉄道は被害を受けても復旧は早い。直撃弾を受けた有楽町駅は通過扱いとして数時間後には山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線とも運転を再開。地下鉄銀座線も、損傷を受けた函体を応急修理して、わずか5日後の2月1日にはピストン輸送ながらも運転を再開した。

――このとき、応急修理された箇所が、いまもそのままになっていて、地上の地形に凹みを残している。つまりこれは、「誰も気に留めない、忘れられた戦争の傷痕」なのだ。

銀座線の改修工事で垣間見えた爆撃の痕跡

応急修理から80年。そのまま使い続けられているということは、十分な強度で復旧されたのだろう。東京2020オリンピックを控え、銀座駅のリニューアル工事が行われていた2019年1月頃、内壁が剝がされ修復痕がはっきり見えたことがあった。

爆弾を受けた浅草方面新橋寄り、ホーム端からすぐの壁面から天井にかけ、側壁に鉄骨を埋め込み、細い鉄桁を追加した補修の痕がはっきりと見てとれた。それは、爆弾を受けなかった京橋方面の側壁と見比べると一目瞭然だった。

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2019年、銀座駅リニューアル工事にともない内壁がはがされ、爆撃の補修の痕があらわになった。銀座線浅草方面新橋寄りホーム端(上)の壁面に応急修理の痕が見てとれる。京橋寄り(下)と見比べれば一目瞭然である(撮影/神立尚紀)

その先のトンネル部分も見られればよかったのだが、あいにく漆黒の闇でそれ以上は見えず、ホームから身を乗り出すわけにもいかないので、これはあくまでホームから目視できた範囲である。応急修理された箇所は、まさに地上では鳩居堂前にあたる場所だった。

銀座駅のリニューアル工事が完成し、応急修理痕も内壁や看板に覆われたいま、地下で爆撃の傷痕を窺うことはむずかしい。

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銀座鳩居堂、TASAKI前を反対側歩道より少しアップで。車道と歩道の境目を見れば道路が凹んでいるのがわかる(黄色い印。2025年8月16日。撮影/神立尚紀)

日本有数の繁華街・銀座。その中心に80年前の空襲の爪痕がいまも残っていることを知れば、戦争の歴史が令和の現代まで連綿と繋がっていることを実感できるだろう。もし銀座を歩く機会があれば、鳩居堂前で足元に目をやっていただきたい。道路が凹んでいる状況は、反対側の歩道からよく見える。歩行者天国の日ならなおよし、である。

戦後80年の時を経て大きく変わった銀座の街を歩く

最後に1枚の写真を紹介しよう。

焼け跡も生々しい街をバックに写る2人の若い女性。写真の左に写っているのが、当時19歳の國友光子さん、右は朝日新聞社の受付の女性だという。

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昭和20年8月、銀座6丁目の朝日新聞別館屋上にて。左が國友光子さん。バックの左に写る焼け焦げたビルは松坂屋銀座店

國友さんによると、これは終戦直後の昭和20年8月下旬、当時の京橋区銀座西六丁目にあった4階建ての朝日新聞社別館(現在、中央区銀座六丁目。東京銀座朝日ビルディングのある場所)屋上で撮影されたものだ。

2人の左後ろに写っている焼け焦げたビルは、空襲で被災した松坂屋銀座店(現在、GINZA SIXのある場所。2013年までこの地で営業していた百貨店)。右後ろの手前に黒っぽく見えるビルは交詢ビル(現在は商業施設の入った10階建てのビルになっている)。撮影場所と交詢ビルとの間には1ブロック、松坂屋銀座店の間には3ブロックの街並みがあり、いま、もし同じ場所に立ってもGINZA SIXは手前の建物にさえぎられて見えない。

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銀座鳩居堂前の道路の凹みを四丁目交差点方向から斜めに見る(黄色い印が道路の凹み。2025年8月16日。撮影/神立尚紀)

 空襲の被害状況を記した『東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』(日本地図株式会社)によると、銀座は松坂屋以北が、服部時計店など一部の建物を残してほぼ焦土となり、朝日新聞社別館と交詢ビルはかろうじて焼け残ったことがわかる。つまりこの写真は、空襲被害を受けた場所と受けなかった場所のちょうど境目を、終戦直後に写した貴重な1枚なのだ。

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歩行者天国で銀座鳩居堂前を四丁目交差点方向に見れば、地面の凹みがよりよくわかる(黄色い印。2025年8月16日。撮影/神立尚紀)

銀座を歩き、鳩居堂前で爆弾による傷痕を見てみたなら、そのまま銀座通りを新橋方面に歩き、GINZA SIXの前に立ってこの写真を思い出していただきたい。戦後80年の平和が、いかに尊いものかが実感できるのではないだろうか。